閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

九州産業考古学会総会・見学会に参加した。

2016-06-13 00:03:45 | 日記
  11日 九州産業考古学会の年次総会が佐賀であり、その後の見学会にも参加した。
 昨年はちょうど当方の夏祭りにかぶって参加できなかった。
 総会の後の見学会、これが楽しみなのです。今回は主目的は三重津の海軍遺跡。
 この会の見学には説明に当地の専門家が当たるし、見学する側もそれぞれに専門的な人ばかりなので一般の見学会とはかなり違った雰囲気になる。 最初に行った大隈重信記念館、これまで関心を持っておらず何も知らずに行ったのだが、その建築の面白さにちょっと驚いたし、思いがけず面白かった。
 随所に実用とは離れた「遊び」の部分があって、良き時代を感じることが出来る。
「普請道楽」という言葉が死語になっているのは本当におかしなことだと思わされる。
建築は総合芸術と言えるもので、いまに残る名建築を見ればわかる事だが地面の取り方から始まって設計、基本構造、建築材料、木取、家具、部材などのどれをとっても「美意識」を表現できる、凝ろうと思えばどれだけでもやれるものだ。この頃はアパート住まいが増えたのと、「工務店」仕様のあてがいぶちの標準建築ばかりで、個人の好みを活かすという場面がほとんどなくなっている。 以前あるところで家を建てる話で、いわゆる大手建設会社の宣伝の建売、家を建てると言えばこういうものを買うものだと思っている人が多いということにびっくりしたことがある。我が家は二度大きな改造・改装をしたけれど、セキスイだの大成建設といった「大手建設会社」のパンフレット仕様のようにすることは全く考えなかった。まず近所の金物屋に相談して大工を選び、2度目は知り合いの材木屋の主人に相談して建前大工を紹介してもらった。いずれもこの町の職人である。わが方の要求・希望が優先で広告にあるような標準仕様では全く合わない、そこは大工と相談しながら決めていった。一般的に家はそう簡単に建て替えないし、一生の内に二度三度ということはまずない。また生活の様相も全く個人的な物であろうからそれぞれに違った家が建つのが当然と思うのだが・・。 展示場にあるような家に自分の生活をはめ込む、それに疑問を感じないということが不思議である。何か昔軍隊でいわれていた「靴に自分の足を合わせよ」という光景と同じに見えるというのは言い過ぎだろうか。鉄筋の中の「箱家」ならともかくも、地面に立つ独立一戸が同じような姿・規格で並んでいるのをおかしい、気味が悪いと思うのは 「変」なのでしょうかね。コンビニの隆盛もおかしい。他人と、あるいはどこでも「同じ」ということに「安心感」を持つか「違和感」を持つか。この日本はおかしな国になりつつある、とこんな場面でも実感させられます。
 ほかの見学については 又別の機会に。
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来店客との事で 続きです

2016-06-08 21:05:19 | 日記
 もともとこのブログは「ボヤキ」「繰り言」のはけ口にもなるかと思って始めた比重はかなり大きいのですが、そんな事情はもしや読んでくださる方々にはわからないことで、「ボヤキ」というより大牟田の人々への攻撃や貶めは見苦しい。それより大牟田の客層にあわせるのが「商売」ではないか、という意見があろうことは承知しています。
 しかし、しかし! これまで書いたように 吾店がどんな品をどういう風に扱っているのかについて、全く無視して、自分の要求をのみ通そうという態度はやはり容認しがたいです。たとえば、天丼を食べたいと思ったとして、入った店に天丼がなかったとき、「なんだこの店は天丼をやらないとはけしからん、せっかく来たのになんということだ」というかしら。様子のわからない店なら まずは「品書き」を見て見つくろうだろうし、もしなかったら、「すみません、思うものがないので帰ります」というものだろう。 吾店はたった八坪強の小店、せめて周りの書棚を見渡すくらいの「礼儀」はあってもよいのではないだろうか。 これまでに挙げたような大牟田のお客の要望に合わせるのは「自殺行為」でしょう。ブックオフでさえ低迷している町で新刊の安売りで稼ごうなんて、今の場所では直のことまさに「不可能」。吾店は新刊店ではまず見ることのできない「書物」を扱っている、それを徹底するしかないと思っています。「売れる本」ではなく「売りたい・買ってもらいたい本」「こんなにいい本ですよ」と言える本しか置かないと。  譬を変えれば吾店は「釣り堀」ないしは「釣り場」であって「魚屋」ではない。鯛の切り身がほしくても「ある」訳はなく、自分で「釣る・料理する」しかない、店主は「漁師」のつもりです。その為の助言はいたしましょう。また「種物・苗屋」であって「花屋・八百屋」ではない。 ジャガイモがほしければ「よい種と植え方はおおしえしましょう」 薔薇が、菊がほしいなら「苗床から選んでください・再来年には咲くでしょう」と。店主は「植木屋・百姓」です。 今すぐ食べられる切り身や すぐ飾られる切り花を扱っているのではないのです。「古本屋」とはそういうものだと思っています。福岡の即売会に30数箱の出品をしますが、昨年の事、長年棚の肥になっていた漱石関連の物をまとめて出しましたが、大牟田で5・6年は動かなかった本が2週間で半分近くが売れました。この「差」が一体なんなのかということです。
 何しろ「本」というものに無関心の人が多すぎる。「本屋は街の文化のバロメータ」という見出しを以前、新聞記事で見かけたけれど、今やその新聞記者も誰ひとりとして吾店に来ません。  大牟田発の「読める・良い記事」がほとんど見られないのはそこいらに原因が・・。というのは穿ち過ぎでしょうね。
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ご来店の皆様のこと

2016-06-05 07:42:58 | 日記
丸善ギャラリー展が終わって早くも二週間が過ぎました。時間のたつのは速い! 途中経過は前に書いたけれど、結果も似たようなもの。全体の売上は下がりました。高額の品がまったく動かなかった。 吾店もカストリ1点がトップクラス。和本はホボ全敗。撤収の結果、これまでと同じようにほとんど「嵩」は減っていない。 困ったことです。クタビレ儲けというところ。    店のことで・・・。大牟田の人々の「古本屋」についての認識が いかに吾店の思うことと乖離しているかを実感させられることが このところ続けてありました。 「この本ありますか」と紙切れを差し出す、あるいはスマホの映像を差し出す。いずれも 新しい本で 「さあどうでしょう、関連のがそのあたりにまとまってるのだ見てみてください」と言ってもまったく動かず、「ありませんか」と訊くだけ。「○○さんの本ありますか」「文庫はその棚です、出版社別にしてありますから見いてみてください」と言われて棚の前に行ってもその目線はとても「探す」という様子ではない。 「○○はなかでしょなあ」という人の中には「無かなら、おたくにはどげんが本のあっとですか、小説のごたっとばかりですか」と。目の前の棚を見もしないでのたまう。吾店は郷土史、炭鑛関連、美術、文藝系と大雑把にではあるが分けて置いてあり、ガラスケースの中には白秋が、表側には全集ものが並んでいる、にも係わらずのこのやり取りである。「せっかく(あるいは、わざわざ)来たのに・・・」ほとんどの人がそういう。本屋に来るのがそんなに大仕事なのか! 昔式に言えば「菊判」今いうA5判・函入りの本などは大牟田の人が買ってくれた事ははおそらくこの数年、いや十年以上ないのではないか。繰り返すけれどたまに、黙って棚を見る人のほとんどが「他所」からの来店者。彼らはまさしく「せっかく」来てくださっているのですよ。(これらのことは決して誇張ではありません、念のために書き添えます)
 新刊屋の売れ残りを安く売っている店 という大牟田の人々の固定観念 の打破は無理としても少なくとも棚の本を見るという事くらいできないものでしょうか。何か対抗策は無いものでしょうかねえ。 で この三日間 店頭の来客ゼロ・まったく無し です。困った。
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