閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

大変面白かった。 「羊と鋼の森」・宮下奈都

2024-09-18 07:40:06 | 日記

普段は近々の小説は読まないのだけれど、店にだそうと思って手にしてパラパラ捲ったらピアノの話と分かって読んでみようか、という事になった。 2015年初版で例によって我店では「新刊」は殆ど無いのでこれはやむなし。

 ピアノの音・音色・あるいは演奏について 言葉でこんな表現ができるのだと正直驚きました。ちょっと思い入れが過ぎるのではないかと思わぬこともないけれど、特に硬い言葉を使うことなく、また北海道の自然の描写も綺麗な表現だと思う。 

 たまにマニアックな評論家の変な思い入れの「誉め言葉」の文章を見受けるがこの小説の表現は素人目にもすなおに受け入れられる表現ではないかと思う。 天板の開閉具合や本体の置く位置で聞え方、響きが変わるのまではわかるけど、支えの足の車の向きが云々というのまでは小生にはわからない。 会場毎の、あるいは観客の要り具合で響きが変わるのは小生も経験済み、小さな部屋に防音のためあれこれ詰め込むのも善し悪しという事もわかる。

 ピアノが弾けず擦弦楽器しか知らない小生はなぜピアノがこんなに全能であり続けるかいまだに納得はしていない。擦弦楽器は弾き出した後も音は持続し大小・強弱を変えられるが(管楽器も同じ)ピアノはいったん叩いたら減衰するしかない、ペダルはあってもその効果は限定される。長い音は同じ鍵を何度もたたくしかない。確かに今は鍵数も多く半音はきちんと出る、よって作曲する時には便利であることはわかる。大変有能な機械であることは間違いないが、しかも他と違って「自分の楽器」を持つことはあり得なく、演奏の度毎に会場にある楽器を使う。それで「楽器の王者」というのはどういう事なのか、わからんなあ!

 この小説には原民喜の言葉が引用されている、一般的にこの頃の小説には引用はあまり見ないようであるが小生には作家を見る一つの目安でもある。すそ野が広くなくては山は高くはなれない、小説・詩に限らず西洋系の文の多くは文中の引用だけでなく扉などに箴言のように詩の一節が置かれたりというのが多い。それは読者としては作家の教養の幅を、深さを知る一つの手がかりになる。引用のない自分なりの言葉でしか書かれていないのはそれだけしかないという事でもある。

 作家の教養についてはこれまでにも触れたことがあるが、また別の機会があるだろう。

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「新刊・出版物」のこれから

2024-09-16 08:34:43 | 日記

 このところ纏まった「読書」をしておらず「ダメだなあ」と思いつつも暑さもあって気力を奮い立たせられない、これも歳を取ったせいでもあろうか。

 新聞などで本屋がなくなる、出版業界が困っているという話題、そして小規模な「個性ある本屋」という話題が目につくように思う。

 以前にも書いたが今の電子機器の普及と、学校教育の現場で「本を読む」教育がなされているとは思えない状況では 当然の成り行きである。

 昔、出版社は「電話一本と机があれば成り立つ」と言われていた。2・3人の原稿提供者を捕まえてまず一点出す、とりあえず全国の図書館と著者の自己買いである程度の量を出荷でき残りは取次に出してしまえば在庫は殆どなし、これを3・4点続けて出し売上回収を待つ間しのげれば何とかなる。注文が相次いで2刷が出せるとニコニコ。ある出版社に勤務してこの書き手を捕まえ、出資する仲間を募ると「会社」はすぐに作れる。そうやって「細胞分裂」のようにしてあるいは「雨後の竹の子」のように「出版社」はできていくが、この頃はやりの「ブックカフェ・小規模書店」と同じく 数年後も生き残る会社は多くはない。マスコミは「開業しました」というのは思い入れたっぷりに報道するが「廃業・閉店」は伝えない。 昔は「基本・屋台骨」であった辞典・事典類、文学全集、美術全集等を出せる状況ではない、それらを看板にしていた「大店・老舗」も軒並み成績不良。 

フリマ?などの出品物で「絵本」は大人気で、いつも人がたかっていてよく売れているし、来客に聞くと「なかなか手に入らない」という。

 絵本のタイトル点数は実に多い。それは 上に書いたような事情で素人作家に半プロの絵描きを組み合わせると薄くて製作費も大してかからず「簡単に?」出来上がり。「なかなか手に入らない」のも上に書いた事情による。児童図書を置く図書館・学校・幼稚園の需要でかなりの数はさばけ、地方の新刊屋まで回ってこない。それでも出す方は「損はしない」し「名」は残る。数点出して仲間割れして会社は解散というのも結構ある、当然「版元切れ」になって「なかなか手に入らない」という事になる。

 売るべき、売れるであろう本がないなら新刊屋が潰れるのは自然の成り行き、まして読み手がどんどん減っていては太刀打ちできるはずはない。

 ではどうなる・どうする、という話だがこの流れは止まらない、出版物は半減やむなし、と思う。 こんなことはマスコミは知っているはずなのに素人受けする光の当たった部分ばかり書いているように思う。

 話変わって、我店は大牟田の人たちには「認知」されていないことはこれまでにも書いてきた。新刊屋も地元資本の店は二軒だけ(いずれも専業ではない)、あとはショッピングセンター内の大手の出店2軒と其の郊外店舗一軒。 

 「我店は大牟田の人たちには「認知」されていない」について、現実の数字を書いてみよう。 8月と9月のはじめまでの40日間のうち、店の売り上げ0⃣、店に人影が全く無しが実に15日! 定休日を除いての数字ですよ。表の均一・特価だけ売れた日が15日、この人たちはいつものように店の中の棚には一瞥もくれず、百円硬貨数枚置いて黙って出ていくだけ。残る10日ばかりは店に入ってきて 棚の本を眺め数点買い上げてくださったのだが「すべて!」他所からの来店。近くて熊本、久留米、あるいはもっと遠方から法事・見舞い、で大牟田へきて「古本屋」があるというので来た、中には二人はネットで見てわざわざきた、という方も。

 いずれも「買う気」のある確信犯でありがたいことであったが、 夏休み中でこのありさま、この先が思いやられるではないか。

 「終活」に向けて買い入れを制限していてじりじりと在庫は減りつつあるけれどここ2・30年に出て売値が千円前後の四六版の本は 市場に出してもものにならず さればとて特価や100円均一にしてしまうのもはばかられるのが「多数」在庫。 いい本なんだよ、買って読んでよ と思えどただ待つのみ。

 

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