閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

対応に困るお客さん

2013-10-22 17:18:01 | 日記

久しぶりなので何か良い話を と思っている矢先に本日、先ほどご来店の方のお話。

かなりお洒落なご婦人、入ってくるなり「オノヨーコの本ありますか」と 「オノヨーコの本 とは何のことでしょう?彼女の書いた本でしょうかね、どんなものをお探しで?」 という途中をさえぎって、「あるの、ないの?」「「いきなり言われてもドンなものか・・・」「ないの!ここにくれば有るって聞いたからわざわざ来たのに!」 と言うなりさっと 出てゆきました。その間せいぜい十数秒。 店の中を見渡しもせず、本には一瞥もくれず!一体何ナノなのか訳がわからん。 「ホテルで聞いた」とも言ったたようだったが、それで 有る程度思い至ったことがある。オノヨーコの先祖は柳川藩の家老であった家で 市内の有るお寺の境内に墓がある。先だってその墓所に案内板が設置された。其のことを書いたパンフレットがホテルのフロント前の郷土資料などを置いた案内テーブルに置いてあって、我店の出版物もそこに置かれている。多分そこで話が出て 我店に行けば何なりとあるかもしれない ということになったのだろう(推測です) しかし 行けば自分の思うもの(本)が必ず手に入るというのはどういう神経か?我店は貴女のための自動販売機ではない。

実はこの手合いの人は多いのです。ありようのない本を「探している」と言いながら、自分では決して本を手にとることもせず、棚に目をやることせず、「有るか、ないか」「折角来たのに無いんですか」とノタマウ。本屋に来るのがそんなに「大仕事」だとは。  本日のある新聞にも「古書街めぐり」の特集記事がでかでかと出ていた。ここに紹介された「本探し」の人たちは 店先に立ったなり「××はないかね」といって本を手にもしない「本探し」をしているだろうか。何か目的の本があったとしても、本屋にとっては全く今の今まで考えもしなかった本をいきなりあれこれ言われても答えようのない ということがわからない人というのが 小生にとっては判らない。「よかったらご自分で見てみては如何ですか」というと 大方の返事が「分類はどうなってる?」「××関係はどこにあるかね」と・・。 以前から言う様に、我店はたった8坪強のひと見渡しの店である、「自分で探すのか!?」と怒る人も居る。 「探す」とは手偏の字であって自分のてでやるもの。あなたがしているのは「探す」ではなく「尋ねる」でしょう。 「本探し」はもっと真剣にやっていただきたいものです。その本を必要とし、一番知っているのハズなのはあなたなのですよ。 (古)本屋はそのお手伝いをすこし出来るだけです。

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新刊屋と古本屋 続報

2013-10-03 23:13:57 | 日記

わが店は店の外から机でPCを操作しているのがその気で見ればわかります。少し前から、入ってくるなり「○◎ちゅう本ば取ってくれんね、アマゾンぎっと安かけん」あるいは「日本の古本屋」で取り寄せてくれ、という人がちらほら見えるようになってきました。「いいえ、うちはそんなことやっていません」というと、実に怪訝な顔をされるのです。吾店は「取り寄せてあげます」など決して言ったことはない のに 何でだろう? と思っていたのですが、先日この申し出をしたある方と話をすることができました。その人に「取り寄せてあげてもいいけど、手数料をいただきますがそれでは結局安くはなりませんよ」と言ったことに反応があったのです。彼曰く「本屋(新刊屋)で取り寄せてもらうと手数料など言わないのになぜこの店は要るのか」と聞いてきたからです。彼は新刊と同じく問屋(取次)があって、そこへ発注すれば卸値で出してくれる、当然ながら注文者の手数料など負担はない、という新刊のシステムが古本のAmazonや「日本の古本屋」でも同様であって、古本屋が注文すれば卸値というシステム(ルール?)があって、古本屋側は卸値で仕入れているので客は表示されている金額で受け取るのが当然と思って(信じて)いるのです。驚きましたね。

 これまでに「取り寄せてくれ」と言われた本はいずれもありきたりの高くもない新刊で、「より安く手に入れたい」というものでした。これが本当の古書で、長年のお客様の依頼というのであれば「探して取ってみましょうか」くらいのことは吾店でもやぶさかではない。しかし、「新刊本」で定価の半額以下というものを「ネットばしよっとなら、ちょっとしてくれたっちゃ良かやんね」と見も知らずの「お客様」に申し出られて「はい、わかりました」と出来る話ではない。

 新刊屋と古本屋の業態の違いを全く理解していない、只「安く買える」「売れ残りを扱う店」というしか思っていない証左ですね。新刊屋が「本屋」であって「古書店」は埒外ということのようです。吾店もズット以前は雑誌や漫画・エロ本も置いたことがあります、それをやめてすでに25年を超えるのですがいまだに、「先月の文藝春秋を買い損ねた、お宅ならあるでしょ、配達してくれ」「西村京太郎◎◎の文庫はあるか、あるなら買いにゆくが」というような電話も後をたたない。「ありません」「店頭で自分でお探しください」というと「ないのか!」とまず怒る。自身で「お探しください」というと「分類はしてあるか」というのがほとんどのパターン。「仏教美術」という本を「仏教」に置くか「美術」に置くか、がその店の「個性」なのだからせめて棚を見渡してみるくらいのことはあってもよいものではないか、吾店は新刊の文庫は一並び200冊も置いていないし、それも出版社別には分けてあるのですが、実はこれも気に入らないことらしい。作家別でないとわからん、と文句をつける人もいるのです。吾店はたった八坪強の「ぐるっと一目」の店なのです。それくらい自分でなんとかしてよ、本を読むのはあなたでしょ!という吾店の言い分は「傲慢」なでしょうか。

 小生は新刊屋には殆んど行かないが、新刊屋でこのように、入ってくるなり全くわき目も振らず「◎◎はないか」と店員に聞いて自分は一歩も動かないお客があるかしら?数少ない経験ではあるが、福岡などにある大型書店でそんなお客は見かけたことがないと思うけど如何だろう。

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