閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

高校の同期会をやるそうな。

2023-12-25 20:24:30 | 日記

 1966年に三池高校を卒業したわれらは来年77歳、いわゆる喜寿である。

 そこで途絶えていた同期会を復活、というよりもおそらく最後になる集まりをやろうとどなたかが発案した。 この地元大牟田ではこゝ7・8年やっていない。 東京周辺在住の連中は時々あっていたらしくそれも都内ではなく伊豆・箱根などへの小旅行であったそうだ。  

 斯くいう小生は同期会というものにこれまで3・4度くらいしか顔出ししていない、それもその当時の世話役の度重なる誘いに「顔」を立ててのことでわが方から希望してのことではなかった。まして三池高校同窓会へはある例外の一度を除いて全く出席したことはない。 もとより小生は帰属意識が低いことは言うまでもないが、われらの同期は600人超!アルバムを見ても3年間に言葉を交わしたことのあるのは圧倒的に少なく全く覚えのない人も多い。 卒業後薄いながらも付き合いの続いているのは一体何人いるかしら。 

 同じ高校に集ったのは、入試という選択を経てきたとはいえ基本的に偶然に過ぎない。それなのに同窓・同期だというだけで均し並に見られるのは嫌だし、前述のように顔さえ覚えていない輩に「ヤアヤア」と懐かしげ、親しげに声をかけられるのは納得がいかないのだ。

 我店は「中心商店街」の中にあって場所がわからないという事はあり得ず、帰省して立ち寄ってくれた者もそれなりにいて、卒業後十数年は帰省のたび家に帰るより先に我店に立ち寄ってくれたのもいた。しかし 両親が亡くなったり引っ越しなどで大牟田に寄る辺のなくなったものも多く、この頃では定年を過ぎ、実家の処分や墓仕舞いで来た、というのばかり。 又、これは小生の方の問題だが、趣味である音楽・文学 あるいは歴史等に話題を共有できる輩がいなくて、同期会に出席したとしても小生としては話の接ぎ穂がないことが目に見えている。 誰それの消息や健康、孫の事等の話題に付き合う気になれない。

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いろいろ読んで(目を通して)いると・・

2023-12-14 08:29:22 | 日記

日々あれこれと雑多な本を手にしていて、時々手が止まって拾い読みをする。大方はどんな本かわかればよい、ですむ。中には興味を引く部分があるのは当然だが数日前 あれ!と思った写真と解説があった。

 「ボデイウォッチング」の中の「腹」に関するところの下部に「ベリーダンス」の写真があって其説明に「起源は、ハレムの女性たちが主人の肥満した体にまたがり、相手の性的満足を助けるために腰を活発に動かした時代にさかのぼる。今日ダンサーが示す腹部のうねり、回転、突き出す動作は、伝統的民族舞踊の動作と言われるが、実は昔のハレムでの性交の動作を様式化したものである」と。 いわゆる「騎乗位」のことで、さらに言えば、腹の突き出た相撲取りの性交はどうするのかなあと、漠然と思ったことがあったがこんなにあからさまに「説明」されるとは思っていなかった。そういえば「リンボーダンス」も女性の局部の筋肉を鍛えるためだという話を聞いたことがあったなあと思い出した。

 以前、久留米に「ベリーダンス教室」があって、何かのきっかけでその指導者と参加している幾人かと顔見知りになっていたことがあった。いずれも若くて(ガキではない)それなりに魅力のある人たちであったけれども、彼女たちがこの由来を知っていたのかどうか、事を知った今になって大変興味が湧いてきた次第。 

 

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後始末にむかって

2023-12-06 08:56:06 | 日記

 先日あるところで同業者に出合った。普段の付き合いはなかったのだけれど彼がガンで体調悪く営業を止めなければならなくなったことを人づてに聞いていたので声をかけてみた。見た目はさほど変わったとは思えなかったが、抗がん剤のせいで一昨日迄枕から離れられなかった、との事。容態については口だす立場でないので店の後始末の話になった。以前に店舗の移転をしたときは「先がある」というので倉庫を借りて保管したが、この度は店のビルそのものを売却するので「すべて片付けなくてはならないのが実に大変」とのこと、さもあらんと思った次第。

我店も小生はすでに76歳、どう頑張っても活動できるのは後数年でしかないだろう。しからばこの店・住まいはもとよりまず在庫の本、家具や蒐集物の行き先、あるいは処分をもっと真剣に考えなくてはならない。 これこそ「わかっちゃいるけど・・・」でなかなか進まない。

在庫の本もこのところ市場での入手はもとより、宅買いも控えているのだけれども、それでも一向に減ってくれない。ネットで売ろうと思ってもその本に十数人多いものはもっと出品されている品を今更わざわざ掲載する気にならない。「ちょっと面白そう」と思っても世の中には腐るほど出回っていることを知らされてゲンナリさせられる。

 上記の書店はまず半額セールをやり、残ったものの一部は市場に出品したが、括りの一般的な本の山には買い手がつかず、という状態だったそうで、どこの本屋も似たような「中途半端」な本は多すぎて持て余しているし、今は「これは売れる」という分野がなくなって平準化してどれも「急がなくてもそのうち手に入る」というものばかりで無理に買わなくなっている。ほかの市場でも似たようなもので、中途半端な本は「ゴミ扱い」である。

我店の柱の一つであった炭鉱関連の資料も「資源枯渇」、出てくる、または所持しているであろう、と見込める機関・事務所・人が全くなくなってしまって、入手の見込みがないのだ。一方の郷土史も似たようなものだが、これはまた売り先も先細り。ある市では市史編纂の事業が済んで、資料購入の予算がなくなってしまって「もう買いません」と。資料になる物はいつ出てくるかわからないのに期限が来たので買わない、とは何という事かと思うけれど、これは複数の市での現実である。

「一般書は安くすればいいではないか」ともいえるが、通り値が数百円の物を百均にする気になれず、また百均にしたとしても売れないことは実感している。

せめて今の在庫を半分にしたいと思っているけれどかなり厳しいですなあ。

 

 

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