閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

不勉強画身に染みる

2018-06-30 21:10:11 | 日記
梅雨のさなか、土砂降りかと思えば日差しがあったり、その後半日しとしとと「驟雨」だったり、 いぜれにせよ湿気が 結構ひどい。
このところ報告すべき読書をしないのは問題だ、と思いつつも文芸書に向かう気が起こらない。それは「面白そうだ」という思いがわかないだけでなく、また古典的だから読んでおいた方がよい とかではなく、いままで いかに本を読んできていないかを知らされることがこのとろ多くて、ちょっと自己嫌悪という要素もあるのです。例えば「交通と文学」後藤積・出版共同社1982 にしてからが収録されている45作品のうち既読は少ない、しかも読んではいても、この本に指摘されているような観点で見たことがなかったように思う。なるほどこういうこともあるのか、あるいは さもあらん と思えたのはわずかなもの。いかに読解が 浅かったかを思い知らされるばかり。これは一つの例に過ぎない。 世にそれなりの論客と知られた著作を持つ人々がいかに「本」を(深く)読み、かつ自身の意見を作り出すまでにいかに多くのバックマーシュを持ち、かつ英語ドイツ語フランス語なりに堪能なことか。今の大学の修士以上の研究者にとって英語の論文はあたり前、明日からイギリスへ、フランスへといわれてもあまり困らないらしいというのは 割と身近な「産業考古学会」の仲間でのことで感じてはいたけれども、これは世界が違うぞ!と思うことしきり。 学生時代に小論文を英訳したりその逆をしたり、友人からタイプライターを借り、下宿で夜中にカチャカチャやっておばさんから「昨夜はお勉強でしたね!」と皮肉を言われたりしたことが 全く夢のようで、それ以来、この年まで何をやってきたのか、もちろん🎼の世界や 公害問題、あるいは郷土史などニ関して決して「ヒマ」をしていたわけではないけれど、それでも「不勉強」が身に染みる思いは避けられない。「歳だから」といって逃げるわけ、場合ではない。今更言っても仕方がないけれど 兎にも角にも「本を読む」べし。世の中は広い・深い。その「本」の海にいるわけだから際限はないのだ・・・。
コメント
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