閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

年始の決まり事 二回目

2019-01-10 20:50:53 | 日記
さて二日目は路線の「乗り潰し」である。とは言っても1日限りの日帰りなので行き先はだんだん難しくなってきている。今回は「平戸」。有田で乗り換え、伊万里を通ってたびら平戸口へ、松浦鉄道に乗ろうという話である。途中昔の北松炭鉱の残滓でも見ることができるかなあと思っていたがいくつかの駅で滞留線があったであろうことの跡を見ただけで分からなかった。単コロで伊万里から平戸口まで通しで乗っていたのは我々だけ。降りて次はバス、と思ったら駅までバスは来ないというではないか、五百メートルほど坂を下りたフェーリー乗り場だという、道理で先に降りた二人婦人が急ぎ足で行ったわけだ。 結局間に合わず、タクシーで資料館まで行くことになった。資料館とオランダ商館の倉庫を見たわけだけれど、いずれの館も展示品の説明が不足・あるいは観点違いで全く食い足りない。ことに商館倉庫については、なぜ「平戸」だったのかの説明無し。これでは今陸路しか考えない人たちに平戸の歴史的位置は何もわかってもらえまい。復元の経緯についても細かい字の羅列の仕様書・ノート様のめくってみるものが暗い床近くに置いてあってとても積極的に「なぜ・どう復元か」という説明をしているとは思えない。使われている大きな柱についてどこの材を持ってきたのやら、平戸の近在で一尺八寸はあろうかという材が手に入るとは思えないノダ。さらに極め付きは、外に取り付けられている「拡声器」である。五十メートルは離れていようというところまで聞こえる「音楽」!一体何だろう。受付で聞くと、「館内で流しているのと同じ曲を外に向けて開館していることをお知らせするために流している」との事。一体、オランダ人がいたころにBGMなんぞあったわけはないではないか!「復元再生」したというのであればなんで拡声器がいるのか。まだいえばこれは「倉庫」であって「商館」ではない。この倉庫を復元して事足れりというのであれば何をかいわんやである。全く市役所の連中の考える「観光」とは何なのか、どこへ行っても頭にくることばかり。困った。
昨日の強散歩が祟ってたびら平戸口駅への坂道を急いで上る元気なく、帰りは佐世保行きのバスに乗った。松浦鉄道を乗り潰しはできなかったけれどこれはこれで色々な集落を眺めつつ、時間的にもうまくいってよかった。しかしその先である。帰路、途中で追い越す特急に乗って一本早く帰ろうかと思ったのだが、せっかく「有料」を使わないという趣旨なので我慢したわけだが、正解でした。鹿児島線の大幅遅延でダイヤはめちゃくちゃ!久留米で少し時間をつぶして結局予定に近い時間に帰着、特急に乗っても何もならなかったわけで、貧乏旅行に徹してよかった。

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年始の決まり事・今年。

2019-01-07 08:15:02 | 日記

我が家ではこのところ1日には強散歩、2日は路線塗りつぶし というのがお馴染みになっている。 強散歩というのはバスや電車で少し離れたところ、特にバスの終点に行き、そこから徒歩で帰ってくる、というもの。普段は車で通り過ごしてしまう集落や路地、あぜ道などをわざと右左にそれながらあるくというもの。今年は南関町へバスで行った。あなた任せで高い位置から見る景色は自分で運転するのとは違った感触。その南関町の終点まで乗ってきたのは我ら夫婦だけかと思ったら やはりいました。カメラを構えていろいろ写している。鉄っちゃんと同じ「乗りマニア」でした。彼は周辺を撮ると折返しそのバスに乗る様子、要するに乗った記録を残したいのですね。我らは旧往還筋のお茶屋跡や西南戦争の官軍墓地を見て、さて大牟田方面へ「歩こう!」それもバス路線では面白くないので八角目峠越えで行こうというもの。 もしかして降りだすかもしれないという曇り空で寒い、せっせと歩く他はなし。あらかじめ距離などを計算していたわけではなくなんとなく行けそう、という判断だったのだけれど、普段の運動不足のせいでしょう、昔に比べると速度が遅くなったのか、なかなか遠い。
あるく人は全く見られない道を九重あたりを通り過ぎる頃にはすでにくたびれ、八角目の峠越えは休み休みということになった。三池の町に届くともうバスに乗ることしか考えられない。結局予測の1時間半くらいのところを2時間超。しかも大腿の付け根がめちゃ痛い。普段の運動不足をさらけ出した結果でした。いたるところに空家・廃屋あり耕作放棄、手入れ放棄の雑木林は広がるばかり。また、一方で新築の家の風情のなさもがっかり。マッチ箱を立てたような窓庇のない家が流行りのようだが、小生は納得できない。高温多湿・多雨のこの風土に見合うものではないと思う。知らぬところ歩きもいろいろなことを考えさせられ 大変面白い。大腿の痛みは翌日なおひどく、階段を上るのに困ってしまった。もっとも、3日には治ったので安心。今回は「本」とは全く関係ないことになりました。2日の路線乗り潰し を含め 次回以降 お披露目します。 年賀状 書くのは苦痛です。
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 「仮説」と「史実」

2019-01-06 06:50:50 | 日記
 
「酒呑童子の誕生」・高橋昌明 を読んでいたら次の文に行き当たった。
曰く「仮説はそれを武器に何かを解明しようと努めるところに意味がある。何事も解明しようとしない仮説は、仮説としての意味がない。こうしたわけ知りの論法には、それ以上の分析や掘り下げを抑止する不毛・精神の怠慢がある」「当然のことだが、説話と史実の間には深い質的隔たりがある。それでいて架空のものには史実とは異質の、意識活動の産物としての独特の実在性がある。それをあたかも同一平面に並ぶかのようにして、架空のものの有する堅固な実在性を解体し、散文的事実に解消して足れりとする」これでは事の本質に迫りようはない。このような「素朴反映論」は超越しなければならない。 というものである。
 なぜこれに注目し取り上げるかといえば、筆者がズット以前から主張している大牟田の歴史に関する「仮説」への反論にそのままの当てはまる主張であるからだ。 大牟田には「カルタ」と「刀」の二つの「仮説」があってその二つはいずれも市当局の「観光開発」の発想で全くど素人の思い付きのデタラメなのだが、それを指弾するものはこれまで知る限り筆者のみである。この二つの「売り文句」は「大牟田は・・・」であり「カルタの発祥の地」「刀の里」と続く。カルタについては5年ほど前に市に非公式に名称の変更(「大牟田は」ではなく「三池」にした方が良い)申し入れたが拒否された。刀についてもカルタとほぼ同じ反論をせざるを得ない。根拠となっているのは「三池典太」という銘の刀がある、しかもその一振は国宝だ、というのであるけれど、この刀は鎌倉期のものだ。そして彼の蹈鞴跡と目される遺跡は高田町の田尻にあって今の大牟田市の中ではない。市中・高泉に典太屋敷跡と称する箇所があるけれど、これは何の根拠もないただの言い伝えに過ぎない。刀を作るには良質の玉鋼が必要であるが、それに見合う砂鉄がこの旧三池国で産出するのは難しい。もし砂鉄が採れたとしても野鍛冶の利用程度であろう。まず「鎌倉期」にこの地で鍛治集団が拠を構えて作るほどの農業の需要が果たしてあったかどうか? ズット代が下がって戦国期にもこの周辺で作刀された記録はない。江戸期はなおさらである。刀鍛冶とは、一人ではなく最低でも5・6人の集団であって、需要に応じて点々と移動するのが大方の形態。いざ戦となれば侍の棟梁には多量の刀・長刀・槍が必要で制作費とともに多量の木炭を用意して刀工集団を雇って作らせた。玉鋼は刀工が準備していたようである。
 刀に代表される在銘の意味は何か、 そもそも本当にこの地という記録があるか? 市独自にどこまで「学問的考究」がなされたか、「刀・カルタ」いずれも 全く考えられていないことは明白。 嘘で固めた「観光」とは一体何だろう。
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