閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

 丸善ギャラリー展 終了

2015-11-28 07:21:42 | 日記
  
秋の福岡・天神、ジュンク堂地下の丸善ギャラリーでの古書展がおわった。秋の開催は3回目。来客数は多かったようだけれど、全体の売り上げは微減、吾店も同じ。ただし販売点数は増えていた。要するに一点当たりの単価が下がった、高額の品が売れなかった、ということです。吾店は相変わらず絵ハガキ、チラシ、薄い和本・報告書など軽くて小さなものがよく出て、嵩はなかなか減らない。今回目立ったのは「文庫」がよく出たこと。前回旺文社文庫を出したら思いの他売れたので、今回は其の外に講談、中公、などの物も出してみた。もちろん大衆文学などではなく「堅い」内容のもので百均にするようなものではない。丸善の店員に聞けば、少し前の物は棚に並んでいないし、もともと定価が高くなっているものが多い(文庫でも2000円なんていうのもある)ので少しでも安ければ、という購買層ではないか、と言うことだ。言うまでもないが大牟田ではまず売れることは望めない。来客の層、顔ぶれ、本を手に取る態度、もろもろ大牟田との違いを毎回本当に痛感させられる。
 話変わって、ある大牟田の経済人が 福岡のある街イベントを見に行ったけれど、まるで勢いが違う、みんなの顔が笑っているし、「上をむいて」いるように見えた、という感想でした。それに引き替え、わが大牟田は如何 という話になるのです。そしてお決まりの市役所批判になります。
このたび市長が変わるけど、市のやることに変化はなさそう。昨年失敗に終わった市街地再開発のかかわったあるコンサルの話で、「こんなに話の進行の遅い町は初めてです」といったそうである。7・8年前の別の再開発計画もそう、町の者から見れば元凶は市当局の怠慢なのだれど、市役所はいったい何を見て仕事をしているのか、失敗の責任を全く言わないのはなぜ? 腹の立つこと多く、この話はキリがない。  いま産業遺産指定で大牟田・荒尾に見物客が増えたことは 悪いこととは言わないけれど、おそらくこのブームは1年で過ぎ去るのではないかと思っている。何しろ「地味」であることはさけられないから、一般的な「物見遊山」の人たちにとっては面白くないだろう。遺産に関する観点はもちろん様々であろうが、ただ地上の「スクラップ」が並んでいるだけ、という見方があることに小生は賛成せざるを得ない。産業遺産は「観光資源」ではなく歴史・文化・教育に資するもののハズではないか。駐車場、シャトルバスなどよりやることがあるのではないか。俄作りのガイドさんたちの決まり文句の説明と質問に答える頓珍漢ぶりをきいていると、鳥肌が立つ思い。 
又「本」の事から離れてしまった。このところのカルタの探索で 又しても出所不明の不確かな「孫引き」を見つけてしまった。こうなると 著者、出版社を全部疑ってかからねばならなくなるではないか。それが「ことを極める」ことだと言われるだろうが、一般読者としては大変困ります。

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本屋の見つくろい

2015-11-17 14:21:36 | 日記
少し前のこと、店頭でのある来店者とのやり取りを紹介します。以下会話は生粋の大牟田弁であったのですが「標準語」に換えています。
店に入ってくるなりある本を差して「この本は(自分に)向いた本だろうか?」「さあ、ご自分でとりあえずご覧になってはどうですか」「(向いているかどうか)それを聞いているのだ」「それは私にはわからないですよ、これまでにどんな本を読んでいらして、何の興味をお持ちか、わかりませんし・・」 大変不機嫌に「本屋なら これはお勧めというものがあるだろう、あんたが読んでこれはいいというものはどれか」「そんなものこの店にはありません、自分で判断なさってください、どんな本かは 目次だけでもご覧になればお分かりでしょう、せめて見ていただいたうえでなければ御答の仕様がないのですが」 怒った様子で「わからないからきいている。何なりと勧めればいいではないか。あんたは本を知らないのか、本を売る気はないのか」と言って周りの棚を見渡しもせず、まったく本に手を触れることもなく出て行きました。 久しぶりに「お勧めは?」と聞かれたのですが、めったにあることではありません。 新刊店には「店長のお勧め」とか「○○の一押し」などという「惹句、売り文句」を見かけますが、小生にはあれがわからない。そもそも「流行」というものにまったく関心がないのだが、本を選ぶのに「今はやり」という名目で読んでみようという気にはてんでなったことはない。いつも言うことだがベストセラーになった本は古本の世界では基本的に「ゴミ」でしかない。どうせ来年にはだれも覚えていないような時流に乗るということがそんなに必要なのか、自分で読む本を「ポップ」につられるというのがわからない。自分の価値基準はないのか?  上記の来店者(御客様とは呼ばない)はどこぞの大型新刊店などでしか「本」に接していないのだろう、我店に入ってきたのがそもそも間違いなのだろうけど、なんだか馬鹿にされた様で だんだん腹が立ってくるという次第。
我店では「お勧め」ということはほとんどしたことはないように思います。ある程度どんなことに興味を持っているか、あるいは調べているか、がわかっている御客様であればたまには「この本にこういうことが載っているけどご存じか」位の話はするけれど、ただ売るために勧めることはまずしないと思う。それよりも「買わなくてもいいですよ、必要ならそこだけ図書館で写しなさい」「どこそこの図書館が持っているはずですし、今は取り寄せもしてくれるから」ということのほうが圧倒的に多い。 本、ことに古本は時流とは違う価値観の世界だと思っています。プロ・アマ問わず、研究者でどうしても手元に置いておきたい、文学の愛好者で好きな作家の初版を持っておきたい、というような人たちのために存在していると思うので、自分の価値基準を持っていなくてただ「勧められて」買うことに満足感を覚えるという話には我店は到底乗れません。「本好き・本が必要」という方々との対応はうれしいしいくらあってもいいのですが、こういう「場違い」は困る。食べ物やであれば天ぷら屋かラーメン屋、あるいは洋食屋の区別はわかるだろうし、入ってみて自分の思惑と違っていたといって文句を言う人はまずいないだろうに、我家には区別のつかない来店者がよくあってしかもこちらの立場を理解しようともしない「困った」という場面が多いのはどうしてなのでしょうかねえ。
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久しぶりの小説よみ、書くということ、あるいは「読ませる」ということ

2015-11-03 20:58:39 | 日記
このところずっと、もちろん生業の延長ではありますが、「書物」手にし、目を通すことは欠かさずやってきているけれど、「文芸作品」は身の回りに腐るほどあっても読んでみようとして接することはそう多くはないのが現状といえる。そのきっかけはいろいろ。 一昨日は入手した新刊に近い本を整理していてある本に目が留まり、久しぶりにこれは読んでみようか、という気になった。ある作家の青春回顧みたいな半分本当、半分創作とあとがきにもある作品。手塚治虫の「トキハ荘物語」みたいなもの。なまじっか知った名前と場所が出てくるので読みかかってしまったのだが、やめられず、2時間ノンストップで読んでしまった。内容は他愛もない(と言っては失礼か)青春の思い出記なのだけれど、読んでいくうちに止まらなくなる書きようが素晴らしいと思った次第。 「自分の場合、将来のたどるべき道が、大学へ行くことで社会によっていつしかきちんと出勤する人生と規定されている」ことへの漠然とした反抗気分があった。 とあるけれど、わが身に振り返って、「ははあ 同じことをかんがえていたんだ」とは思ってもでは彼らのような破天荒な生活ができたか?と言われると困る。当時大流行だった学生運動には 相当な疑問を持っていた(リーダーだった連中のその後はご覧のとおり)
ここいらの話も長くなるので 別の機会に。
誰しもいろいろな思い出があって、書こうと思えばかけるであろういろいろな出来事、心の動きもろもろある、のは事実。ではそれを、まず文字に「書く」ことが大きな障壁は当然だが、書いたところで、それが「赤の他人が」面白がってくれるか? 「読み進め」てくれるか? そこが問題。 この半小説に出てくる人たちも「書く」ことに相当な執念、あるいは義務、必須が 如何なものかを伝えてくれる。 さすがはプロの作品!と久しぶりに感じ入った次第。百の作品のことを書いた時も同じような意見ではあるが、「読ませる」には 「技術の修練」が必要なのだと やっとこのごろ思いいたったというお粗末な話です。 現に、小生が この近辺の「昔」についていろいろな人と話をすると、大方の人が「それは書き残して置くべきだ」と言ってくださるけど・・・。
 いざ書くのは結構難しいです。 一方で、かつて九州文学の会員と親しく話をする機会があったけれど、その中で印象的な言葉は「書かずにおれない」という「表現」。 あるその時期作品を投稿しなくなったメンバーのことが話題になったときこの言葉が出た。自分は「書かずにおれない」し、彼だって「書かずにおれない」ハズである。という言い分に 小生は かなりショックを受けた覚えがある。 画家が「描かずにおれない」というっ言葉を発していることは知っていたけれど、散文を書こうかという人たちも同じような「熱」を持って生きていることを目の当たりにしたのはこれが最初。 ずっと忘れていたけど。この頃じわじわとこの言葉が気になっている。 オーケストラをやめて3年になる、「表現」という行為に分野は違っても裾野の端を齧ってきていたわけだけれど、いったいなんだったのだろうかと否定するのではなく思う。ことにクラシック音楽は譜面からはみ出すことはありえないので、演奏という行為はいったい何なのかなあ・・。 この歳、このころになって やっと 表現について「考える」ことにたどり着いたか と・・・・。
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