またしてもお客様の批判・悪口というべき発言で控えるべきとは思うけれども・・・。
「本が沢山あって買い取りしてほしいんですけど」という「電話」はよくあるのですが、「どんな本ですか」と聞いて(われらにとって)的確な情報を伝えてくださるのはまず「ない!」 処分しようと思った人の持ち物ではなく、まったく関心のない品物であるから「どんな本?」と聞かれてもなんといっていいのかわからない、というのが大方の事例です。吾店に来ていただいての話なら少し突っ込んで聞くこともできるけど電話先では難しい。しかしである、小生がよくたとえるのが車。車を売ろうと思ったらメーカー、年式、排気量、色、走行距離 くらいは把握して話をするものと思うけれど、「本」に限ると
「そんなことをいわなければならんのですか?本です。新しいです」というのがほとんど。この「新しいです」というのが曲者で、聞けば「綺麗」ということがほとんど。古くても「綺麗」であれば良いのに「古い」のを「汚い」と思い違いしているのが実に多い。反対にいくら「新し」くても汚れていては商品にならない。 「これは商品にならない」といっても「でも引き取ってくれるんでしょ」と当然のようにノタマウ人も決して少なくはない。
「蔵書二代」という話は前にも書いたかもしれない。「続かない」ことのたとえ。処分する当人は自分が買ったわけでもないのに 「これはもともといくらいくらだった本だ」とか「いくらで売れるのか」としつこく聞く人も多い。 翻って先ほどの車と云い、あるいは古着、道具類だと惜しげもなく捨て値で処分する人たちがなんで「本」にはこんなに執着するのだろうか。 昭和好景気以後の本はたとい日本中全部クズ・資源ごみになったとしても おそらく誰も困らないし、損失とは誰も考えないのでは無いか。いっそその方が我が業界にとっては風通し画よくなる、ハズです。大変な資源とエネルギーの無駄使いだッことに思いいたる人がどれほどいるでしょうか。
先日の来店者(あえて客と呼ばない)まだ開店前でシャッター一枚を開けたところに来て、「Fさんの書かした○○ちゆう本ななかろか」「まだ開店時間まえです、中に荷物があって棚を見られませんのでちょっと待ってください」と言っても聞こえないのかズイズイ入ってくる。仕方がないので「うちは十時半の開店なんですよ」と言いつつ荷物と特価台をだしました。そこでまた先ほどの質問。小生の知るF氏なので「Fさんの本てどんなものですか」聞くとあれこれ言うけど判然とせず、「Fさんは「本」は出していないと思う、いろんな冊子や他の人との論文集には書いているのを知っているが「本」は知らない」というと「ないのか」と。小生は無いとは言っていない、そんな本を知らないといっている。そこで「どこでその本を知ったのですか」と聞けば「ネットで出ていた」という。それなら「大きさとかの姿も分かっているでしょうからどうず自分でお探しください」というと、なんとわきの文庫の(大衆小説の)棚で目をきょろきょろさせている。「その本は文庫ですか」と聞けば「いやもう少し大きいかもしれない」ならば吾店の郷土史関連を置いた棚を見れば、と思おうのだがそれ以上動こうとはせず再び「ないのか」と。「せめて出版社なり正確な書名、あるいはいつ出たかくらいを言ってもらわないとこちらも判断のしようがないんですよ」と言っても意味が分からない様子。憮然とした様子で帰ってしまったけれど、その間全く立ったまま動かず他の本棚を見回すこと無し。後でわかったけれどこの御仁は大牟田の教育界では 優秀なる先生との評価の元校長。そうだろう、どっかで見たような御人だと思ったわけだ。 本ってそんなに「簡単・簡便」なものなのかなあ。
古本屋は思った本を 自分は立ったままんまで取り出してくれる自動販売機 だろうか。
「本が沢山あって買い取りしてほしいんですけど」という「電話」はよくあるのですが、「どんな本ですか」と聞いて(われらにとって)的確な情報を伝えてくださるのはまず「ない!」 処分しようと思った人の持ち物ではなく、まったく関心のない品物であるから「どんな本?」と聞かれてもなんといっていいのかわからない、というのが大方の事例です。吾店に来ていただいての話なら少し突っ込んで聞くこともできるけど電話先では難しい。しかしである、小生がよくたとえるのが車。車を売ろうと思ったらメーカー、年式、排気量、色、走行距離 くらいは把握して話をするものと思うけれど、「本」に限ると
「そんなことをいわなければならんのですか?本です。新しいです」というのがほとんど。この「新しいです」というのが曲者で、聞けば「綺麗」ということがほとんど。古くても「綺麗」であれば良いのに「古い」のを「汚い」と思い違いしているのが実に多い。反対にいくら「新し」くても汚れていては商品にならない。 「これは商品にならない」といっても「でも引き取ってくれるんでしょ」と当然のようにノタマウ人も決して少なくはない。
「蔵書二代」という話は前にも書いたかもしれない。「続かない」ことのたとえ。処分する当人は自分が買ったわけでもないのに 「これはもともといくらいくらだった本だ」とか「いくらで売れるのか」としつこく聞く人も多い。 翻って先ほどの車と云い、あるいは古着、道具類だと惜しげもなく捨て値で処分する人たちがなんで「本」にはこんなに執着するのだろうか。 昭和好景気以後の本はたとい日本中全部クズ・資源ごみになったとしても おそらく誰も困らないし、損失とは誰も考えないのでは無いか。いっそその方が我が業界にとっては風通し画よくなる、ハズです。大変な資源とエネルギーの無駄使いだッことに思いいたる人がどれほどいるでしょうか。
先日の来店者(あえて客と呼ばない)まだ開店前でシャッター一枚を開けたところに来て、「Fさんの書かした○○ちゆう本ななかろか」「まだ開店時間まえです、中に荷物があって棚を見られませんのでちょっと待ってください」と言っても聞こえないのかズイズイ入ってくる。仕方がないので「うちは十時半の開店なんですよ」と言いつつ荷物と特価台をだしました。そこでまた先ほどの質問。小生の知るF氏なので「Fさんの本てどんなものですか」聞くとあれこれ言うけど判然とせず、「Fさんは「本」は出していないと思う、いろんな冊子や他の人との論文集には書いているのを知っているが「本」は知らない」というと「ないのか」と。小生は無いとは言っていない、そんな本を知らないといっている。そこで「どこでその本を知ったのですか」と聞けば「ネットで出ていた」という。それなら「大きさとかの姿も分かっているでしょうからどうず自分でお探しください」というと、なんとわきの文庫の(大衆小説の)棚で目をきょろきょろさせている。「その本は文庫ですか」と聞けば「いやもう少し大きいかもしれない」ならば吾店の郷土史関連を置いた棚を見れば、と思おうのだがそれ以上動こうとはせず再び「ないのか」と。「せめて出版社なり正確な書名、あるいはいつ出たかくらいを言ってもらわないとこちらも判断のしようがないんですよ」と言っても意味が分からない様子。憮然とした様子で帰ってしまったけれど、その間全く立ったまま動かず他の本棚を見回すこと無し。後でわかったけれどこの御仁は大牟田の教育界では 優秀なる先生との評価の元校長。そうだろう、どっかで見たような御人だと思ったわけだ。 本ってそんなに「簡単・簡便」なものなのかなあ。
古本屋は思った本を 自分は立ったままんまで取り出してくれる自動販売機 だろうか。