在庫を減らすべく あちこち動かしていて 下積みのみかん箱を発見。はてこれは何を入れていたか? 開けてびっくり・・。「銀花」が40冊ばかり。おそらく先でそろえるときの備えにと納し込んでいたもの。当時は「宝物」のつもりであったであろうが
いまや殆どガラクタ。「意地悪ばあさんの玉手箱」みたいで全く面白くない。
「銀花」といえば1970年創刊時はちょっとした騒動だった。71年から東京のN書店さんで本屋の見習いを兼ねたアルバイトを始めたが編集長の今井田氏がおなじみのお客様で、デパート展では小生も少しお話したことがある。今井田氏は「ミセス」の編集長だった。当時の出版界では有名な存在で、その彼が「ミセス」で飽き足らず自分のカラー一色で出したのが「銀花」。もっとも試験版というべき先行の「銀花」は「ミセス」に毛の生えたようなパッとしないもので3号でおしまいだった。その後一新、デザイン・杉浦康平、写真・小林庸浩の二人を起用して作った「季刊・銀花」は大評判!最初の数号は売り切れ続出だったと聞く。順調に部数を伸ばしていたと聞いていたが 12号あたりはどうしたことか神田のゾッキ本屋の床から天井まで積み上げてある(要するに返品が多かった)のを見た記憶がある。 それでも今56号のあと書きを見ると今井田氏が「24号に続き数万部の本号全冊に 肉筆書画挿入という快挙を、云々」とあるから 創刊以来十数年を経たときでもそれなりの発行部数だったということだ。
今井田氏は自身も大変なお洒落で、当時の小生は「香」が匂う男性をはじめて目の当たりにした。よく一緒に来ていらした長澤節氏も 独特のファッションとムードだった。
創刊からこの50号頃までは 後から言えば「バブルの時代」そして 「民芸ブーム」というものもあった。150号くらいで廃刊になったが、似たような「情報誌」が出てきたことと、元々少し「High-brow」で読者が偏りすぎたことが売り上げのの落ちた理由だろう。たとえばいまだ人気の「サライ」と比べると判りやすい。もっと決定的なのは「グルメ記事」がないことだろうか。
その「季刊・銀花」はいまや300円500円でも売れない、というよりも誰も手にして見てみようともされなくなっているのは 大いにさびしく「いい加減な雑誌じゃないよ、良く見てよ」と声をかけたくなる。我が倉庫には創刊号から100号まで揃っている・・といいたいのだがじつは1巻だけ欠けている。ある号を「どうしても」といわれ そのうち又手に入るからいいや、というのがやはり間違いでした。積極的に探しているわけではないけれど4年たってもマダその欠号を埋めきれないでいる。「そのうちに手にいるだろう」と思って手放して未だに姿を見ない本が何冊あるだろう。倉庫の如何でもいいような山のような本を見るごとに 「シマッタあれは売るんじゃなかった」と。
いまや殆どガラクタ。「意地悪ばあさんの玉手箱」みたいで全く面白くない。
「銀花」といえば1970年創刊時はちょっとした騒動だった。71年から東京のN書店さんで本屋の見習いを兼ねたアルバイトを始めたが編集長の今井田氏がおなじみのお客様で、デパート展では小生も少しお話したことがある。今井田氏は「ミセス」の編集長だった。当時の出版界では有名な存在で、その彼が「ミセス」で飽き足らず自分のカラー一色で出したのが「銀花」。もっとも試験版というべき先行の「銀花」は「ミセス」に毛の生えたようなパッとしないもので3号でおしまいだった。その後一新、デザイン・杉浦康平、写真・小林庸浩の二人を起用して作った「季刊・銀花」は大評判!最初の数号は売り切れ続出だったと聞く。順調に部数を伸ばしていたと聞いていたが 12号あたりはどうしたことか神田のゾッキ本屋の床から天井まで積み上げてある(要するに返品が多かった)のを見た記憶がある。 それでも今56号のあと書きを見ると今井田氏が「24号に続き数万部の本号全冊に 肉筆書画挿入という快挙を、云々」とあるから 創刊以来十数年を経たときでもそれなりの発行部数だったということだ。
今井田氏は自身も大変なお洒落で、当時の小生は「香」が匂う男性をはじめて目の当たりにした。よく一緒に来ていらした長澤節氏も 独特のファッションとムードだった。
創刊からこの50号頃までは 後から言えば「バブルの時代」そして 「民芸ブーム」というものもあった。150号くらいで廃刊になったが、似たような「情報誌」が出てきたことと、元々少し「High-brow」で読者が偏りすぎたことが売り上げのの落ちた理由だろう。たとえばいまだ人気の「サライ」と比べると判りやすい。もっと決定的なのは「グルメ記事」がないことだろうか。
その「季刊・銀花」はいまや300円500円でも売れない、というよりも誰も手にして見てみようともされなくなっているのは 大いにさびしく「いい加減な雑誌じゃないよ、良く見てよ」と声をかけたくなる。我が倉庫には創刊号から100号まで揃っている・・といいたいのだがじつは1巻だけ欠けている。ある号を「どうしても」といわれ そのうち又手に入るからいいや、というのがやはり間違いでした。積極的に探しているわけではないけれど4年たってもマダその欠号を埋めきれないでいる。「そのうちに手にいるだろう」と思って手放して未だに姿を見ない本が何冊あるだろう。倉庫の如何でもいいような山のような本を見るごとに 「シマッタあれは売るんじゃなかった」と。