小生の読書量なんてたかが知れている、ということは重々自覚している。一方で「なんでこうなるの」あるいは「ならないの」という疑問譜は多い。中でも火縄銃が発達・進化しなかったこと、その「尾栓」の「ねじ」が」なぜ「尾栓」の部品に留まって他への転用がないままに終わってしまったのか。これらは大きな疑問のままです。 そこで先だって「積読」の山から出てきた本を拾い読みしていて「合点!そういうことであったか!」と思ったのは収穫でした。(全部氷解したというわけではないけれど)「道路運送今昔雑記」野口享・昭和11年刊です。なぜこの本を取り置いていたかというと維新以前の荷役・運送に関して、ことに通信と荷車に関してよく書かれていてほかに見当たらないと思ったからです。江戸期にほとんど橋がなかったことも今や一般的には知られなくなっているけれど、荷馬車の歴史、牛馬の利用についても触れているのは少ないと思う。小生にとって要点はまず「享保六年の触書」さらに同七年・慶安二年 と続く触書の存在です。ここで条文は示さないけれど、幕府の「超保守」政策が官・民問わずどれほど産業技術の発展・発達を阻害していたかについてもっと広く、突っ込んで知られるべきと思った次第。幕府がこれほどに 新しい器具を作り出すことを徹底して禁じていたのは何のため、何を恐れていたのだろうか。そして一々奉行が吟味して許可の判断をしていたというのだが、その実例を、ことに「不可」とした例と根拠を知りたいものである。年表を見ていると「千把こき・足踏み水車」あるいは源内の「エレキテル」などちらほらと「新発明・改良」も記事は見えるけれど260年という時間の流れからすれば、そして西洋の発達の速度と見比べれば 絶望的遅さといえないだろうか。
大八車については車軸のうけ鉄と車輪をうまく作れなかったことも大きい要因であったことはすでに知っている。しかしそれを改良する前に、荷物は人間か馬の背で、という大原則をかたくなに崩さなかった。鉄砲に関してはこれは「武器」として改良を許さなかったという理由はわからないではないけれども、長崎表の通商を通じて西洋では次々と鉄砲の改良がなされていたことは知っていたのに、である。新式銃を幕府が独占して採用するということもできなくはなかったハズなのだ。これについてはまだまだ書くことはある。ただ今までに目にした書物の中でこの「お触書」の影響について詳しく述べたものを見たことがないように思われる。カルタの発生の謎も解けぬまま、「大牟田は刀の里」なんていうでっち上げを始めている。これもカルタと同じく全く歴史的根拠のない「与太話」でしかない。これを言い出した野郎・連中も問題だが、無批判に乗ってあおる御用新聞も輪をかけて「犯罪的」市民に対する背信行為だと思うのだけれども、賛同してくれる人は・・・