「町の小さな本屋さん」本村有希子 2023・7・5 毎日新聞「水説」について
「町の本屋が減っている」おっしゃる通りです。それは「ナゼ?」か。
一言です。「本を読む人が減っている」からでしょう。この根本的なそのことはこの度は触れません。
なぜ「新刊屋」が(だけが)新聞雑誌の記事に、話題になるのでしょうか。
「本屋は誰にでも開かれた生活インフラの一つだった、わざわざ出かける場所」
「毎日食事をするように、頭にも栄養を補給しないと」
そんなことあるか?本当かいな?ウソでしょ! そんな人どこに?と言わざるを得ません。そういう人はいないからこそ店が立ち行かないのではないかしら。
新聞はじめマスコミに良く紹介される「本屋さん」はそのほとんどが「新刊屋」。その紹介文に曰く「個性的な品ぞろえ」「大書店では目につきにくい小規模出版の品も」等。で それがどうしたというのだろうか。
小生に言わせればいずれどこの店頭も同じ品だし、一点売れても注文すればすぐ補充され同じものが並ぶ。出版・取次に頼らざるを得ない新刊屋の「個性」なんてたかが知れていると思いませんか。 一方で「古本・古書店」は如何。全国に千数百軒の店頭にはどこひとつとして同じ品ぞろえということはあり得ない。古書には問屋・取次はなく、仕入れは個人からの買い取りか市場で入札で買うかしかない。入手した物の中から自分の店に置きたいと思ったものを店頭に出しているのでまさにその店の「個性」そのもの。今一点売れたら次にまた同じものをと言ってもできない品物ばかりなのだ。 今お客さんに「受ける」ものではなく、「この品を見て・買って」という店主の主張なのだ。私事ながら我店の品ぞろえは地元には全く受け入れられていない。来店客の9割は「他所の人」地元大牟田の人が買ってくれるであろうことは考えにくい。長年何とか地元に受け入れられるよう努力してきたけれどまったく「無駄」と分かって「大牟田のお客のため」ではなく「この品を見て!世の中にはこんなものが、そしてここにあるぞ」という我店の「主張」の本しか並べないことになってしまった。
古書店にはそれこそ江戸時代の物から並んでいてどうかすると博物館で触ることのできないような品も転がっている。ひと昔評判だった本が均一にあったり、逆に出た時定価350円の本が数千数万円などというのは全く当たり前の世界。要するに「定価」と関係なく時空を超えて今の価値観を表しているのが古本屋の店頭なのだ。それが自分にとってどんな価値を持つかは客自身で判断しなければならない。「新刊」を買うのはその価値・価格は定価任せで本当に「自分にとって」の価値ではない。
「古本屋」の店頭こそ「多様な価値」の現実・可視化であろうと思います。
「新刊屋」ってそんなに魅力的なの?という素朴な疑問です。そしてその取り上げられた店が果たして何年続くか? 3・4年後まだ活きているかどうかの「後追い」検証記事もあってしかるべきではないかと。(現に八女市2・3年で止めた店が2軒あって、開業時はマスコミの取材があってもそれが撤収するときは何にも報道・検証しないですね、もっとも本屋にかぎらないけれど・・)