閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

人口減・訂正です

2017-01-23 08:47:51 | 日記
前稿で 人口減が「月に1200人」と或るのは「120人」の間違いです。0を一つ多く打っていました。年間平均1500人減です。まとまってなら一つの村落が消えてしまう数。薄く広く減っていくので目立たないだけ。これだけ減れば床屋・ガソリンスタンド八百屋・肉屋・魚屋そして医者も・・。「まちに活気を」何ぞ望むべくもないではないか。断っておくと、小生は人口減そのものが悪いと思っているわけではない。まとまりのない空疎な生活空間・環境がまずいというのだ。いっそ周辺の市営・県営の住宅を集約してそれこそ「コンパクトシティ」にすべきと思うけれどスプロール化を何とも思っていない市役所の無責任連中には意味も分かるまい。
 本のことから外れたけれど今市や商工会議所のやり始めた「町起こし」に問題ありと思うので一言。
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買い入れの減少

2017-01-23 08:44:38 | 日記
 昨年末から年明けに 本を処分したいという依頼が一件もなかった。さらに言えば9月以降いわゆる「宅買」というこちらから出かけて行って買い受けるのが全くなかった。これまでは 里帰りなどを含め 年末の整理での依頼が数件はあったものだけれど・・。
 この町では月に1200人平均人口が減っている、出生と死亡も30対100 という状況だ。当然亡くなった方の遺品の整理などがあるはずと思うのだが、「本の整理」という話がない。聞けば骨董・古道具屋さんも似た様子である。
いくつかの話はあっても殆んどが電話でのこと、かけてくるご本人は本のことを全く関心なく、当然前所持者の 読書傾向を知らずにただ「本がある」というので こちらから聞き返してもまともな受け答えはまず望めない。 ある問い合わせは、「父の本だが自分は全く関心がない」「引き取ってもらいたいが、来てもらうについて 本を縛って持ち出しできるようにしておかなければならないだろうか」というのだ。まるでリサイクルに出す話である。「トンでもない、片付けないでください、今ある其のままの状態でまず見せてください、どんな傾向なのかをまず把握してから私の方で整理し、要らないものは処分なさるよう相談します。縛ってしまわれると本の中に線引きや印のあるなしなどの確認が出来なくなりますからせいぜい積み上げて置くくらいで結構です、紐も箱もこちらで用意していきますから」と行っても「理解」できない様子。聞けば持ち主はある分野の専門家だというではないか、さすればなおの事 手紙や ノートも目を通したいと思って「まずそのまま見せてください」と重ねて頼んだけれど、「また後で連絡します」と言ってその後何も言ってこない。おそらく「面倒な」と思われたのだろう。 この話も前所持者はすでに亡くなって住まいは無人、かけてきた息子は離れたところに住んでいて時々しか見に行かないという。 結果として1日だけ・半日だけしか時間がないとか、電気が切ってあるとか、このところ似た話が実に多い。本を大切に思う人がいかに少ないかという証しでもある。
別の話。最近 福岡の複数の同業者が 柳川・八女・久留米周辺で買い入れをしたという話が聞こえてきた。 いずれもそう長いキャリアではない、ではなぜ彼らに話が行ったかというと 多量の「買い入れ広告」である。ことにスマホ対応で「買い入れ」を入力すると出てくるようにしているという。 これまで吾店は 古いお客様の口コミ というのが多かったけれど 次々と亡くなっているし、そのあとの若い人たちにとっては我家の存在は知られていないということになっている。

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「目からうろこ」的

2017-01-14 07:35:27 | 日記
  福田和也「作家の値打ち」なる本に目を通した。 吾店には真新しい本は殆んど入ってこず、結果として新刊・新作の本は殆んど読まない、というか「目を通す」機会がない。この本も 2000年の刊行で 当時生存中の直木賞・芥川賞受賞作家が対象で 取り上げられている百人の内、今となってはすでに亡くなった人も含まれている。断ってあるように2000年の時点で新刊で読める本 に限ってあるので、彼の評価が如何なものか聞いてみたいが取り上げていない作品もある。 それにしても小生は近々の小説をいかに読んでいない・知らない か を知らされたわけだけれど、逆に見れば 読まなくてもどうでも良い作品が多いと思うのは 頭が高いといわれるだろうか。 個々の作品の批評・点数付はもとより面白いのだけれど、作家への評価が大変面白いと思った次第。新聞や雑誌、ラジオ、それにこっちへきて講演する記事などでしか知らずにいた作家への評価・評判が 小生の思い入れとかなり違っている人もいて、まさに「目からうろこ」的発見がありました。もちろん福田氏の独断と偏見なのだけど 東京の文藝雑誌出版の事情をよく知っているわけだから、九州の片田舎で「広告の惹句」くらいしか目にしない立場としては大変面白い話というわけだ。「はじめに」にあるように「ワインガイドの様な」というのもしかるべし、多少「ケンカ」になるようなことがあっても「文壇・文藝村」の身内同士でじくじく言うよりまし。 「批評家・評論家」を名乗るお方々はこの様な本をもっと出して、甲論乙駁あった方が本人達はもとより野次馬にとっても「面白い」のではないかと。
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承前

2017-01-10 21:23:55 | 日記
  
 続いて 森銑三郎著先集からの話です。正編の大きな著作は いくつかかじっただけでこれまで過ごしてきたわけだけれど、少し前に入手していた不揃の「続編」はいわばほったらかし でありました。綺麗なので売れるかもしれないと思い直してみての発見です。「続編」なのでまとまった論考ではなくいわば雑文・随筆の集まりですが 
これが なかなか!  戦中から昭和30年代くらいに発表された文なのだけれど、今小生が読んでびっくり、という物ばかり。
曰く、こんにちは出版物が多すぎる、玉石混淆どころか 石だらけで「著作」の権威がまるでない。 とは 戦後すぐの意見。 
 また 日本人でありながら江戸期の版本はもとより 写本・肉筆の書簡を読める人がいない、日本文学専攻と言いながらでも 読める人は殆んどいないと。これは近々に文化勲章に選ばれた中野三敏氏が このところ「リテラシー」という新語を使って盛んに警鐘を鳴らしておられることで、すでに五〇年前に提唱されていたとは知りませんでした。これは中野氏を貶めることではなく いかに今の古典研究が偏っている、あるいは直截に言えばいい加減かということを、しかも全く反省の色なく旧態依然であることを物語っている。
 小生に言わせれば、明治政府・権力の「徳川憎し」の政治方針が今なお生きている証しの一つと言えると思う。 今の我々の生活文化の大方は江戸期に完成していたという場面はいくらでもある、ことに趣味の世界。演劇・本草・生花・茶道・料理・謡・囲碁将棋・金魚・虫・盆栽などきりがないし、そして堕藝と呼ばれる民間の雑多な文化は殆んど江戸期に完成され、手本帳に始まる種々の版本で「目からうろこ」であり、今に流布する本のネタは殆んどここによっていて、まずそろっているといえることを もっと知るべきであろう。
 さらに、この頃の学生は脇に週刊誌をはさむのが流行で、文庫本を忘れている。というのはたぶん「朝日ジャーナル」の流行を指しているものと思える。基本的なことを忘れて「ジャーナル」的になっていることへの警鐘で、週刊誌がはやるということは週刊誌を作っている編輯・取材の連中がすでに週刊誌的教養しか持ち合わせていない、という指摘は鋭い。
 大宅壮一の「一億総白痴」という提言と時をほぼ同じにしているのも興味深いではないか。 
 まだ 色々ある。 教養的巨魁 というべき人はまだほかにもあることと思う。
 この年になって「いまさらながら」と実に思う次第。浅学菲才を実感しています。
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あけましておめでとうございます。

2017-01-08 22:40:53 | 日記
 あけましておめでとうございます。 本音は少しも「おめでとう」という気にはならないのですが、ここは世間の習いにしたがってご挨拶です。
年末から年始へは 当然ながら日々事件はあったのだけれども 「読書」に関することは書くべきものを見いだせず 過ごしてしまいました。 在庫を少しでも活かそうとあちこちをゴソゴソやっています。 中で 森銑三著作集の続編のいくつか欠けて不揃、しかし保存状態良を 以前から何時か目を通そうと思っていたものを 引き出しました。さて「月報はあったかな。状態は如何かな」と思ってぱらぱらとめくっていて 目の留まるところが次々とあって 「これは売れない」と思った次第。 なんとまあよくいろいろなことに目の届いていた人でしょう、 挿まれている月報に書いている人を見ても半端ではない。 一個の学者について 数十人の「今の」学者が関与したことを書いているのだけれど 反対に 今の学者で「全集・著作集」を出したとしても、その月報にこれだけの後輩の学者を連ねることのできる人がいるだろうか、普通の単純な博覧強記と違って 話題の出所が まず全部示されており そして今の自分にわかることはここまで、ということもはっきりしているのは全くすごいと思う。
 小生の関心ごとである「カルタ」については 惜しいことに「製造」という方面に関心を寄せておらず 直接に参考になることは少なかったけれど、「いろは」「譬」カルタが江戸期でもそう早い時期の物ではないことを書いてある。  今の歴史感覚では江戸時代というと一括りに見る向きがあるけれど 江戸時代・徳川家の支配の時間は260年 という長さであって、決して一括りにできるものではない。明治政府の「徳川憎し」という教育が今にも徹底していることを思いしらされることである。 結局著作集は当面 家蔵品ということになりそうです。
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