閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

ぜひ読んで頂きたい本 

2022-06-20 08:11:01 | 日記

 鴻上尚史:「不死身の特攻兵」軍神はなぜ上官に反抗したか

   講談社現代新書 2451  ISBN9784062884518 

例によって新刊ではない物しか見ないので2017年刊のこの本は我店としては比較的新しいです。 一か月で4刷出ているので 或る程度の反響の有った本であるらしい。もとより「特攻」という戦術の馬鹿馬鹿しさを知っていたのと、出撃した兵の遺書類にうさん臭さを感じていて、また「美化・賛美」する連中に今の世情からうそ寒い思いがあったところに入手して 一気に目を通した。著者も書いているように実に奇跡のような出会いで書かれた実に貴重な一書。 主たる佐々木伍長のこまごましたことはさておき、読み進むページごとにおこがましいけれど「そうだ!その通り!」と声を出しそうな記述、付箋だらけになってしまった。 参謀部の連中の硬直思想、現場を知らないにもかかわらず机上プランを意固地に押し付け、反省の色なしの様子は今の霞が関、永田町の様子と全く変わらない、前にも書いた「失敗の本質」を全く学習していない。(防衛庁のことはわからないが多分同様なことだろう) 又 マスコミの責任に触れた部分も大事、今の報道を見ていても感情を「あおる」傾向は一向に治っていない、反省をしない、後追い記事を書かないのも変わっていない。

 文才のない小生ではうまく伝えられません。ぜひ読んで頂きたいです。

 小生は子供の頃より「動く機械」大好きで、数学がまるでダメにもかかわらずいまだに乗り物・機械への関心は高い、軍用の物は機械、兵器、すべてが民間要より頑丈、かつ機能的であるこことは自明、現物はもとより其運用についても同等の関心を持っている。例えば「新幹線」がなぜ欧米で関心が低いか。それは鉄道は大量・重量物の運搬に用するもので、人しか運ばない「鉄道」(ことに電車)は意味がないと思われているからだ。その大量・重量物とはなにか?まず戦車、戦闘車両、そして兵站である。ウクライナの戦闘ではしなくもそれが一般にも見て取れるようになった。いわゆるロジスティック、今民間の流通に使われる言葉だけれど始まりは軍隊用語、タスクフォースもおなじ。(新幹線批判はまた別の機会に、小生は乗る気になりません) かように素人の聞きかじりながら軍・戦闘への関心は大きい。そして今の日本を動かしている連中の見識のなさ、反省のなさに とことんあきれている。

 このブログにふさわしくないけれどひとこと、安部晋三の拾年にもなる首相の間、何をしてきたか、プーチンとの事もさることながら国内外に全く成果を上げられず、多量の国費の無駄遣い、しかも民主政治の根幹にかかわる「事件」ばかり起こしたのに責任を取るどころか全く反省の色なし!これこそ戦中戦後の政治家・参謀部のすがたと全く同じである。日本人はもっと賢くならないと、それこそ有事に政府・軍隊を監視・コントロールできないことになる。

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小説と歴史と

2022-06-14 07:50:46 | 日記
 このところ「本を読む」機会がすくない。 「目を通す」のは商売柄毎日の「茶飯事」なのだけれども一から腰を据えて、または読み通す というのはこのところない。もとより「小説」はあまり読まないせいでもある。
 小生の「目を通す」というのはまず目次、巻頭言(前書き)そして跋(後記)を見ることだ。ことに古い雑誌はこれが欠かせない。思いがけない人の作品・文章が掲載されていたり、挿絵があったり、「〇〇の作品掲載」というのも目録の説明に大事なことだ。
 或る歴史に関する機関誌・同人誌を、いつものようにパラパラ見ていて目が止まったのがあった。司馬遼太郎の「竜馬が行く」の有る場面の「ウソ」を書いてあった。全体は太宰府への五卿落ちを取り上げたものだが、竜馬が大宰府で会見した場面についての「ウソ・フィクション」を指摘している。それは小説として非難しているのではなく、うまく「ごまかす」「上手なウソ」だという事を指摘してあって、小説と事実は違うという事を知らなければいけないことを書いてある。言われるまでもなくごく当然のことと思うけれど、世の中そうはいかない。
 司馬、吉川、あるいは近々の歴史小説を「本物」と思い込む人は大変多いのだ。
 司馬・松本の記念資料館に残されている膨大な資料を見た人でも、それが「書く」ための「上手なウソを作る」ための基礎材料であって決して歴史学者の資料ではないことに気が付かない。この近在でも自称「小説家」という方々(マスコミがそういう肩書を付けたがる)がいて、思い付をもとに書かれた作品は多い、それが私小説的な範囲のことなら周りからとやかく(個人情報のことは別にして)いうことはないけれど、こと歴史に関してはいい加減では困る。いったん本になって世に出ると一つの「権威」になり(マスコミもすぐ乗る)図書館に納入されるとズット目に触れることになり消しゴムで消すわけにはいかず、それを事実と思い込んでしまう人が多い(本当です)のが困る。この文にも書いてあるように、その場に居合わせたわけではないので「会話」はもちろん、記録にある事実と事実の間隙をいかに埋めるかが「小説」であることは当然、ただし歴史の事実を曲げる、欠落させては単なる「講談・娯楽小説」でしかないのだけれど、書いたご本人はいっぱしの歴史家になったつもりでいる人がほとんどで本当に困る。事実と虚構の間隙を心しておかねばならない、小説をけなす、いけないといっているのではない。鵜呑みにしてはいけないという事です。


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 棚の本はなんのために?!

2022-06-01 23:18:17 | 日記
 
今日、店のエアコンの内部掃除をプロにお願いしてやってもらった。
そのことは特段言うことはないのだけれど、その作業のために周辺の本を 退避させねばならなかった。 昨晩閉店後に作業した。 さて、清掃が終わって元の棚に返す作業をしていて、ミカンコンテナ5函の本、これらを今本に戻したとして、大牟田の人たちにどれだけ見てもらえるか?あくまでも「見て」であった「買ってもらえる」とはまず鼻から思えない品々。Amazonはともかくも、
「日本の古本屋」で注文を受ける品々をみるにつけ、先ず大牟田では売れまい、という物ばかり! 古い文庫で500円とか800円あるいはそれ以上の価格のものを大牟田の誰が買うだろうか? まず望めない。特装本、限定本、署名本などに至ってはここ何年と接触も話題も何もない。  均一・特価を覗く人はあっても目の前のショーウィンドウに並んだ品に目線を当てる人は殆どない。かつて盛んであった即売会のお客について、いわゆる売台にある品々(目線は下向きになる)をみるお客はお金は出さない、棚に並べた品(目線は上になる)を見る人はまとも(?!)な客だ、という話しがあった。我店に引っかる人たちを見ていると全く其通り。  さて、その環境の中でいかに「古本屋」を維持し世間に見せびらかすか! そして食っていけるか?  これまでにも書いてきた「来客なし、3日連続」というのは冗談ではないのです。
 マスコミはさびれてゆく町の中に「本やが出来ました」というのは良く取り上げるけれどそれはまず「新刊店」であり、しかも専業ではなくキャフェなどの併設がほとんど、そして数年ののちに撤退した店のことは取り上げない。またあくまでも「新刊店」であって古本屋の記事は殆ど見たことがない。書く記者自身が「古本店」に立ち寄ったこともないのだから仕方がないとも言えるけれども、神田の古書街を取り上げるなら、地方の古本屋だって「個性」という点では引けを取らない店は沢山ある、というより「古書店」は「個性」があってこそなので、新規開店の「個性ある小さな(新刊)本屋」などという「惹句」は片腹痛い。新刊屋に「個性」があるか?出せるか? たとえいくらか他所と違う品揃えといっても「新刊」なら其「個性」たるやたかが知れているではないか。本屋の中身を知らない「アホ」な記事としか言いようがない。
 国会図書館の蔵書のほとんどがデジタル化され「タダで」見れるようになったそうで、郷土史などの厚い本などはこれから全く売れない、紙クズになるらしい。
 さて本当にそうなるまで我店が生きているかどうかわからないけれどいずれにせよ資料・古典籍・古美術以外はやっていけなくなるのは間違いないだろう。
 さすれば、大牟田の云々 などと言わずに済む、言っておれない、ことになる。
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