このところ我店の前の人通りがめっきりと少なくなった。世の言う「コロナ渦」のせいでしょうね。もともとほとんど出入りのなかった我店は文字通り「閑古鳥」。 それでも最近はぼちぼち「暇を持て余した」らしき若い人が入ってくるようになったと実感しているところです。ただし売れるものは均一本・文庫・新書程度。売上はもとより「我店の本が売れた」という実感を得るにはちょっと遠い。 というところに、このところ炭鉱関連の買い入れが続いた。
三池のものも含んではいるけれど、いずれ「新太郎さん」ばかりでまるで面白くない。売り手はネットなどで「相場」のようなものを知ってのことでやりにくい。価格はつけ放題で
いくらでも付けられるけれど、果たしてその価格で「売れるか!」 素人衆は高い値段のついているのを見て「これは幾らくらいするぞ」と思う(らしい)けれども、安い価格の出品がその横にあることを見ていない。 バブリーな頃の価格をほったらかしにしていまだに変えていない店は多い。「今時そんな価格で売れるかよ、それよりそんな価値のある本か?
」と思うけれどよそ様の値付けにケチはつけられない。説明書きをよく読んで頂いたうえでの「お客さま」の良識的判断をひたすらお願いするほかはありません。
ところでわが身の恥ですが、このところ「読書力」がめっきり減ったと実感しています。通俗小説でさえ持続して読む気力がなくなった(とは言いたくなくて「減った」としておきたい)ようで心底困ったと思っています。 小説ではない、かと言って論文でもないのは何というのか、「〇〇ニ関する云々」といった本はよく目を通すのですが、最近では「細雪」に関した本が面白かった。 ずっと以前、神戸・山の手、芦屋、西宮あたりの「お金持ち」は大変なものだがマスコミが東京一辺倒なので知られていないだけ、本当のお金持ちは「目立たない」ものだと聞いたことがある。実際、以前芦屋のある個人美術館を訪ねたことがあるが、〇丁目の番地一つが一軒の家、手入れの行き届いた植栽と長塀に門構え、という家がいくつもある。 九州の田舎にもこんな家はないわけではないけれど、現在の「資産価値」だけでなく、実業家としての実際の収入はおそらくけた違いではないかという家々。
羨んでも仕方がないけれど、そういう階級の人が「伝統文化」をささえてきた、し、これからもそうなんだろうと思う次第。プロレタリアートが生む文化とは「意味」の違う世界があると認識しておいた方がよい。「成り上がり・成金」にはマネのできない世界があります。