大牟田は「文化不毛・貧困の地」という言葉を時々耳にみします。「なるほどご説ごもっとも」、と思うこともあれば、「いや、それほどでは・・。」という場面もあります。吾店のように、明治以降の大牟田という時間を通した目で見れば、素晴らしい光を発していたと思われる時期が2度あると思うのですが このことは別の機会に・・・。
話変わって、新聞雑誌などの読書に関する記事にはよく散歩が取り上げられる。植草甚一、井伏、内田、池波。近いところで升添、紀田、池内など記事になる人はあまたいる。ほとんどの人が喫茶店 と同時に 古本屋というキーワードがあるのはお分かりかな。 今大牟田の街を見ていて、「散歩」する人をついぞ見かけない。 いわゆるウヲーキングという人はあまた見かけるが、この人たちは「寄り道する」ことはしない。 むかしから、健康に気を取られると本を読まなくなる という(古本屋の)定説の通りです。 これは高齢者で、自分の齢と健康を誇らしげに語る(それしか話題のない)人で、本のことを話題にできる人はいないという現実を見ればわかりますね。吾店でも 30年くらい前までは、「散歩の途中で」という方がいらっしゃった。いずれも若くははなかったけど、その方々がなくなったり転地された後のこの頃、まったく「散歩」する人をみかけなくなった。先に 丸善と 大牟田のお客さまの態度の違いを書いたけど、まさにここでもいえるわけで、いきなり「○○はないかね」などという御仁は「古本屋」の利用方法、あるいは存在価値の認識を間違っているとしか言いようがない。散歩とウォーキングの違いと同じ要因がそこにある。「健康のため」というのは同じでも、かたや「健康・それだけ」、散歩は手段であって目的ではなくsomething else があってこそです。要するに精神的・文化的余裕の有無でしょう。散歩する人の数は「文化に比例する」と 断定できます。大牟田は精神的余裕のない人ばかりの「貧しい」街です。
天神・丸善ギャラリー展が終わったのですが、吾店の成績は点数も、金額もやや下がりました。目録の成績も悪かった、吾店だけでなく全体に注文が少なかった。そして問題の嵩、重量は以前と同じくやはり少なくて、秋の即売会都の区別を考える必要があるし、吾店の扱い品もその方向にもっと切り替えなければ、と思う。体力からしても 軽くて小さい方が楽に決まっている。