先日FMで西洋音楽の始まりは「鳥の声」という番組があった。ながら聴取だったので完全に聞き取ったわけではないがちょっと考えることがあった。
音の発見は一般的には身の周りにあるものを叩くと出る音を回数や強弱を替えて一種の言語とも共通の通信手段から始まったというのではないか。ジャングルなどでの実際はよく知られている。動物の皮を利用して太鼓ができ、スジを使って撥弦楽器の原型ができたのも知られている。これらはいずれも音を持続させることはできない。一方草笛・葦笛なども相当早くからあったことは遺跡・壁画などで知れる。これに金属の利用が広がって「ラッパ」が現れた。信号ラッパだ。これ等は「持続音」が出せて、いくつかそろえて鳴らすと「和音」ができる。人の声も幾人かが一斉に持続音を出すと和音ができ「和声」の発見になった。
この和音の発見が西洋音楽の起点だと小生は思っている。東洋・中近東では殆ど関心を持たれなかった分野だ。
その後、動物の皮の利用で手風琴のようなもの、バグパイプ等が発達し、オルガンになったことも知られている。打楽器はその先「ピアノ」たどり着いた。
西洋音楽は「鳥」からというのは、例えばギリシャ時代の遺跡・壁画などに描かれた楽器を持った姿の周りに鳥が飛んでいるのをよく見かけるし、キリスト教の色々な逸話のなかにも「鳥」との会話等あって、少なくともこのような「記録」のある時代から西洋では音楽と鳥は相当意識され近親感を持たれていたと察しられる。近代になって、無調や十二音階等の考えが広がると、かえって「音楽の原点」に思いをはせる人が出てきたのはある意味当然のことで幾人もの作曲・音楽理論家が出てきてそこに「鳥の声」が再度注目されることになった。
しかし、これはあくまでも西洋音楽でのことでしかないと思う。東洋ではついに「和音」が生まれなかったし持続音の楽器も「草笛」が少し上等になった程度の物しかない。中国でラッパ系の物が出来はしたが信号ラッパの程度を超えなかった。雅楽・ガムラン・京劇を見ればすぐに分かる。
哲学的・思惟的には考えられるとしても、和音・和声のことを思うと如何な物か。モーツァルト・ハイドン・ベートーヴェン・ラベル・等「鳥」を表現・題材にした作曲家がいるけれど、そしてカザルスの「鳥の声」も「名作」と言えるのかなあ?
というわけで小生にとっては「鳥の声」が原点という説には乗れないなあというお話です。