先日、毎日新聞の読書特集(日曜日)のコラムが目に付いた。 ある雑誌の記事だが、それが「特集・古本屋」とあった。 この頃減っていると思っていた古本屋が いや増えているらしいと伝えているのだが、それぞれが個性的な魅力ある店だとの紹介までは良いとしても、その文末がいけない。例によって「掘り出し物があるかも知れない」と。
先に 新聞記者の古書に関する「眼力」不足を書いた。 そのことを裏書する記事といえよう。 そもそも「掘り出し物」とは何ぞや!?
ある分野に一定の価値観を持っていて、とある店において主人の価値観(売価・付け値)杜違ったものを見つけ、「自分が想定した価格より安かった」とき此れを「掘り出し」たというと思われる。それはたとえ数百円でも、数十万でもおなじだろう。 ところが「何か掘り出し物はありませんか」とか「ほう!こんなところに古本屋があるぞ、何か掘り出し物があるんじゃあない」かなどと宣うてご来店の皆様方に「掘り出」せる訳は無い。
おそらくこの記事を書いた記者は自分では引用を多用した「論文・記事」を書いたことは無いだろう。きちんとした裏付けのある主張・新年に基づいた文・記事を書いたことがあれば「掘り出し」がどんな意味かわかるはず(でもないか?)と思う。いずれ記者のいわゆる「教養」の無さを天下にさらした記事というべきと思う、このような「興味本位」の「出歯亀」的記事は願い下げである。
ここまで書けば我店の「掘り出し」経験をお披露目しなければならないだろう。
戦時中に半島で書かれた百ページあるか無いかの粗末な本、あれこれ調べてこれは珍しそうト思って、さる研究者に知らせたところ大喜び!「良くぞ見つけてくれました」と、本の見てくれ(外見)とは大違いの金額でお買い上げいただいた。 ところがその本をまだ届けに行かないときに、福岡のある出張販売の店先で「500円均一」の中にその本があったのだ。しかもそれを買うとき「同業者だし、今日は良く売れたから負けときますよ」といって他の本も一緒だったが300円見当に値引きしてくれた。
その主人にしてみれば何の変哲も無いザラ半紙に毛の生えたような薄汚い本にしか見えていないし、それでも儲かる。買い入れるときこの本の価値を知らないから十把一絡げに買った、
また店に出すときもそれを知らなかった。そこで小生の「掘り出し」が実現したというわけです。でも騙して上前を撥ねたわけではない、誰も損はしていない、「掘り出し」とはこういうのを言うのではないだろうか。 ところがこの本、その後20年を超えても次の1冊を見出せないでいます、「日本の古本屋」でも見たことが無いと思う。
この傳の話では以前触れた長澤節氏について、面白い話と聞いているが、又の機会に、、。
「掘り出し物」という看板を鼻の先にぶら下げていては「掘り出せる」ことは無いでしょう
先に 新聞記者の古書に関する「眼力」不足を書いた。 そのことを裏書する記事といえよう。 そもそも「掘り出し物」とは何ぞや!?
ある分野に一定の価値観を持っていて、とある店において主人の価値観(売価・付け値)杜違ったものを見つけ、「自分が想定した価格より安かった」とき此れを「掘り出し」たというと思われる。それはたとえ数百円でも、数十万でもおなじだろう。 ところが「何か掘り出し物はありませんか」とか「ほう!こんなところに古本屋があるぞ、何か掘り出し物があるんじゃあない」かなどと宣うてご来店の皆様方に「掘り出」せる訳は無い。
おそらくこの記事を書いた記者は自分では引用を多用した「論文・記事」を書いたことは無いだろう。きちんとした裏付けのある主張・新年に基づいた文・記事を書いたことがあれば「掘り出し」がどんな意味かわかるはず(でもないか?)と思う。いずれ記者のいわゆる「教養」の無さを天下にさらした記事というべきと思う、このような「興味本位」の「出歯亀」的記事は願い下げである。
ここまで書けば我店の「掘り出し」経験をお披露目しなければならないだろう。
戦時中に半島で書かれた百ページあるか無いかの粗末な本、あれこれ調べてこれは珍しそうト思って、さる研究者に知らせたところ大喜び!「良くぞ見つけてくれました」と、本の見てくれ(外見)とは大違いの金額でお買い上げいただいた。 ところがその本をまだ届けに行かないときに、福岡のある出張販売の店先で「500円均一」の中にその本があったのだ。しかもそれを買うとき「同業者だし、今日は良く売れたから負けときますよ」といって他の本も一緒だったが300円見当に値引きしてくれた。
その主人にしてみれば何の変哲も無いザラ半紙に毛の生えたような薄汚い本にしか見えていないし、それでも儲かる。買い入れるときこの本の価値を知らないから十把一絡げに買った、
また店に出すときもそれを知らなかった。そこで小生の「掘り出し」が実現したというわけです。でも騙して上前を撥ねたわけではない、誰も損はしていない、「掘り出し」とはこういうのを言うのではないだろうか。 ところがこの本、その後20年を超えても次の1冊を見出せないでいます、「日本の古本屋」でも見たことが無いと思う。
この傳の話では以前触れた長澤節氏について、面白い話と聞いているが、又の機会に、、。
「掘り出し物」という看板を鼻の先にぶら下げていては「掘り出せる」ことは無いでしょう