閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

教会へ行った

2014-12-28 22:00:39 | 日記

先の24日夜、正山町の日本基督教団の教会でイブの礼拝に参加しました。わが家は母が聖公会の信者で、小生は幼稚園からこの教会に馴染んできたのだけれど、大牟田の教会がなくなって、行き場がなくなってしまっていたのです。日基の教会の信者さんには知り合いが数人いて、特別な緊張がいるわけではないので参加することにした。 日基の礼拝は初めてで、細部についてはやはり聖公会とは違っていた。讃美歌の歌詞も違うような・・・。小生は洗礼を受けてはいない単なる「善意の雷同者」にすぎません。かつてある聖職者と話した時、基督教の中の宗派のどれに属するか、はどこで決めるのだろうか、というとき、「馴染み、偶然のきっかけ、出会い」です、それで十分。という話になんとなく納得してしまった覚えがある。 物ごとを決めるとき、加算法と消去法とがある。恋愛や、積極的信心は加算法、「あばたえくぼ・いわしの頭も信心から」 という塩梅。反対は「本当かな?」とか「根拠はあんのかよ」といった理屈をこねて削ってゆく方。 小生は如何! どうだろうか、自分でも判別は付かない、ただ実感としていえることはお葬式に参列した際に仏式の葬儀のつまらなさ、形骸ブリには我慢がならないと思う、これははっきりしています。、輪廻だの来世、浄土・地獄等々、丸で空虚なことで付き合い切れませんね。ただその場に雇われてきただけの僧侶が、訳の分からないお経をなお解かりにくく節をつけて唸る、死者との関わりもない司式のどこが有り難いのか理解できないのですが、どんなもんでしょう。さればこそ基督教か、と問われるとこれもまた考えることあって、全面受け入れとは言い難い。そこがすでに頭でっかちのいいぶんで 信心ではない といわれるところです。わかっちゃいるけど 踏み込めない。 我々が享受している西洋文明の根っこは基督教、その科学の行きつく先が原子力他の最先端科学、その限界といえる様子が見え隠れしている(と思っている)時になお基督教か? また無教会派という存在を知ってなお教団という組織に馴染めるか? 小生は「善意の雷同者」という言葉が好きな 「さまよえる子羊」です。

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NHK,使っていいのか!これは「隠語」でしかないだろう

2014-12-25 20:53:02 | 日記

 この本は後で読もうとおもって脇にのけて置くのが溜まると一般的には「積読(ツンドク)」という名称が与えられる。吾輩もその例外ではなく、あちこちにそういう「今はまだ目を通していないので売れない」というものだらけという状態です。さらに、新聞切抜きの方もせっせとやっていてその方もすでに収拾がつかないくらい溜まってしまっている(これはなんと呼ぶのでしょう)。それでも時々「整理せねば」と思い立つのだが・・・。 と思って手をかけたその中で1993-5-25朝日新聞の「窓」というコラムの切抜きを見つけたので紹介しようと思う。題は「前倒し・反対」というもの。今、マスコミでは当たり前のように使っている「前倒し」は広辞苑に採用されたのは1991刊の第4版だという。ちなみに小生の机のわきにある小学館の国語大辞典1982版には載っていない。このコラム子によると1973年頃大蔵省主計局の説明に使われ、わけがわからずびっくりしたということである。「前倒し」とは警察用語の「ホシ」「タタキ」「デカ」などと同様、予算作業の中の大蔵省の「業界用語」「隠語」なのである。ニュースの中で「デカ」といったような表向きではない警察用語を使うことがあるだろうか。NHKはじめマスコミはできるだけ正確、かつ綺麗な日本語を使い、日本語の手本になる言葉遣いを心がける「義務」があるのではないか。古来の「繰り上げ」ないしは「先取り」というまともな常套ともいえる日本語があるにも関わらず「隠語」を大ぴらに使う、つい最近も毎日新聞の下の方の小さなコラムの極短い文の中に2度も「前倒し」を使ったものを目にした。こういう記事を書く記者が言葉づかいに全く無神経というのが腹タダシイのだが如何なものだろうか。はっきりと「止めてくれ」といわなければならない。

このコラム子同様に「前倒し・反対」と声を上げようと思う。ほかにも使いたくない、聞きたくない放送の言葉使いがある。それは天気予報での「××のおそれがあります」なのだが、これもおかしい。漢字で表現すれば「恐れ・惧れ・畏れ・虞」の区別も正確につくであろうが、話言葉・音声ではそれらの区別はつかないし、これだって「見込み」という普通の言葉があるのだから「大雪が降る虞があります」ではなく「雪が降る見込みです」の方がずっと事態を「正確に」伝えられると思う。どうして変な漢語を使うのだろう。この点皆様の見解は如何なものだろうか。でも、このブログを見た方はせめて自身の文章でお使いになりませぬよう願います。

 

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寒くなりました。

2014-12-23 21:42:48 | 日記

寒くなりました。本格的に「冬」ですね、寒さもさることながら朝明るくなるのが遅いのが嫌です。

ブログの間が開きすぎて書く調子、リズムが変です。 この間書くべきこと、書こうと思ったことはいくつかあったのですが、なかなか・・。

在庫の本の量を何とか減らしたいと思っているのですが、減らない!要するに店頭売りがまったく減ってしまって、日本の古本屋やAmazonに出品する以外は 市場で売るか、即売会でしか出ていかない。特価や百均にはできない、しかし・・という本がいっぱい。店頭には「売れる本」ではなく「売りたい・大牟田の人に手に取ってもらいたい、買ってもらいたい」ものを並べているので、そのギャップの問題であることは承知の上。それにしても 以前から書いているように帰省客であったり、散歩の途中で という人がいなくなってしまった。これは商業経済関連機関の福岡の人で本に関心のある人と話した時も 大牟田の町・商店の様子として同意見だった。 この街で商売をやっていくうえでは実に悲しい、困ったことです。 HPにも載せている朔太郎の「氷島」をショウウィンドウに出しているけれど関心を寄せる人は皆無。そのわきには芳年の「元治店」の2枚続きのきれいな舞台絵も出しているけれどこれも関心なし。  そういえば10月終りに古典的電話問い合わせがありました。「古本屋さんですね。××クッキングの先々月の置いてあります?」「ありません・扱ってもいません」「なんで?おたく古本屋でしょ!本の古いの置いてないって? 本屋の売れ残こり置いてるんでしょ」 もう一件、夜の10時ころ「もしもし、××のセット(マンガ)なかでしょね」「それ、マンガでしょ、うちは漫画は扱っていませんね 電話帳にもHPにも漫画は扱わないって表示しています」「そげんいわんたっちゃよかやっか、ウチは104に聞いたらあんたんとこの番号ばいわしたけんかけたっちゃっか」  お二人とも若いとは言えない女性でした。他の町でもこんな話はあるのでしょうか。   あまりグチは言いたくはないけれど、福岡・丸善でのお客さんと、本の売れ方を見ていると ついつい比較したくなります。 HPといえば これまで契約していた会社が蒸発しました。「運営はA社に移行します」という封書が来たけどこのA社も連絡取れず。さ てどうなることかと思っていたら次に東京に本部のあるB社から封書到来、この会社が「運営全部引き受けたので今後の心配はありません」とこちらは顧問弁護士と社長の連名・捺印で来ました。1月中に正式に契約引き受けの案内が来るそうで、一応安心か と。 それにしても吾店のHPは最初っから御難続きです。 いい加減な会社が多い。飛び込みのセールスには乗らないようみなさま気を付けてください。日本の古本屋が 来月全面改訂するという通知が来ています。またあれこれ取扱いの説明を読んでもそもそやらなければならないかと思うと憂鬱です。

 

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