閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

ネットの在庫管理

2015-04-30 09:13:20 | 日記

もともと、小説というのはあまり読まないで、読むといえば「これは目を通しておかねばならない」と、半分以上は品知識を増やすための「読書(といえるかな?)」というのが現実です。その速度がめっきり落ちてきました。こんなはずではなかった、と思うことしきり。後で読もう(目をとうそう)と思った本がどんどん増える。本屋の商売だけでなく、他にいろいろ関心を持っていまして、時々は投書ということで世間の目に触れるもあるけど、ほとんどは自分の知識の構築・整理・強化のためとしか言えない。 たまにはお客さんへの本の紹介で役に立つこともあるけれど 今のように来客が少なく、「接客・お客様との対話」というものが絶えてしまっては・・・。  そろそろ経年・老人性健忘症・ボケがはじまったか?と思わせる場面も増えてきました。  話変わって、ある同業者はネットに登録している数が15万点、さらに増やすとのこと、2万・3万は当たり前ということらしい。 ひるがえって吾店はといえば、以前は小さな店といえどもよく売れて回転が速く、またいわゆるセットもの(全集・叢書類)が好きでないこともあって、在庫は少ない店だった。即売会をするようになって在庫が増えたのはどこでも同じ現象であったようだ。いまのネットの時代、「品切れです」というのがあってはいけないと、別に保管をするようになったわけだが、少ない点数の内は良かったが、もともと想定していない家の作りなのでだんだん置き場に困ってきた。前記の店の数パーセントの在庫ですでに「どこに置く?」  店売りでは長く居座っている本は順次二軍落ちさせていたけれど、ネットの在庫ではそうはいかないだろう、値段を書き換えるにしても、数万点というのは吾店にとっては 実に遥かな彼方の話としかおもえませんが・・・。 

以前、タバコ屋を守るために販売店の規制をする話を書いた、今度は酒の販売規制(安売り規制)をするという。 いずれも既存の小売店を守るためだそうだ。本に関してはこのところ「町から本屋が消えた」という記事を目にすることが増えた気がする。 ではなぜコンビニの雑誌販売を規制する話にならないのだろうか。記事を書いた者もそれを掲載する編輯者も わかっていて触れないのか、本当に分かっていないのか。 単にノスタルジアに浸る程度では何の進展も望めないだろう。

 

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ごまかされてはいけない

2015-04-27 21:32:00 | 日記

大川・柳川のみなさんへ

 先日、オスプレイの騒音を調べるためにと、佐賀空港周辺で試験飛行が行われました。使われたのは陸自のAH1攻撃ヘリだったのですが、これがオスプレの代わりになることを納得した方があればとんでもない大問題です。攻撃ヘリAH1は自重3t、発動機は出力1400hpの単ローターの機体。本命のオスプレイは自重15t・発動機は6150hpを2台、しかも双ローターという今回使われたAH1のざっと5倍の大きさの機体なのですよ。 その騒音はAH1とはまず比較にならない。また双ローターの共振も重なれば、低空飛行での聞こえ方はもっとひどいものになること間違いありません。筆者はこの試験飛行には自衛隊が持つ双ローターのCH-47輸送機、せめてこれを持ってくるものだと思っていました。いくら攻撃用とはいえ、こんな小さな機体での騒音比較飛行は意味をなさないのは全く明白でしょう。ではなぜこうしたのか。それは俗にいう「行政の説明会」と同じ構図で、彼らの予定通りことを運ぶための、消化の「帳面消し」にすぎません。本当の騒音の大きさは住民には知らせないままで「説明会」はやりました、と。なぜ佐賀空港かという大前提の問題はここではおくとしても、このような「ごまかし」の騒音試験は住民を愚弄するものだと怒るべきです。騙されてはいけません。この試験飛行は無効です。絶対に容認してはならないと皆様へお伝えしたい。2015・4・27 有明新報

これは文の最後にあるように 大牟田にある地方新聞へ投稿した文章です。佐賀空港にオスプレイの基地を持ってくる話は、それ自体が随分とキナくさい、おかしな話だが、それはいったん置いておいて。 本当に、小生は試験飛行にはCH-47を持って来ると物だと思っていました。本来ならオスプレイ自体を持ってくるのが筋です、自衛隊がまだ入手していないから ある程度はやむを得ないとしても、騒音の試験にまるで小さなヘリを、しかも攻撃ヘリという見た目の派手なものを持ってきて「ごまかそう」という神経が我慢できない。単ローターと双ローターでは地上で聴く感じはかなり違う、まして風向きや速度でローターが同調して聞こえるときは相当な大きさになる。おそらく自衛隊側では十分に分かっていて、一方住民側にはそんなこと話わかるまい、というなめた「予測」があったとしか思えない仕打ちである。このような「ごまかし」が、沖縄や諫早の例を引くまでもなく。このところ行政のやることに目立って増えてきていると感じる。  なぜなら住民がまともな抗議をしないから、役所のいうことに効果的な反論をしないから、要するに「なめられている」! 小生の知る限りの知恵であたうかぎり発信して行こうと 直思った次第。

 

 

 

 

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 とんでもないお坊ちゃま。

2015-04-18 22:09:12 | 日記

 

 近畿大学の卒業式に来賓としてしゃべった「ほりえモン」の舞台がネットに出ていて、見ることが出来た。曰く「将来、未来なんて誰も予測できない、ネットを活用して情報を集め、自分の判断で行動せよ」「日本が豊かであるというのはすでに幻想になりつつある」「これからの社会はネットの広がりをいかに自分の物にするかにかかっている」などというご宣託はいかにも至極ごもっともであろう。しかしその話に取り上げられる「例え」は実に陳腐な「成金」連中の話でしかない。ご本人が「成金」そのものであるからしょうがないにしても、世の中「お金儲け」がすべてではない。彼の視野には「貧困」「心身障害」「天災」「不慮の事故」といった「負」の要素は全くないようである。小さい時からちょっと出来のいい子で、トントンと上級学校へ進み、大して大事とは思いもしないまま東大に入ってしまったかなり恵まれた能力の人で、おそらく挫折感など縁のない人である。我々の身の廻りにもそのような「出来の良い」人はいる。広く見れば中曽根、石原、小泉、石破あたりがそうだろう、作家でいえば三島がそう。堀江がしゃべっている映像を見ていると自信満々のその様子がありありと見て取れる。彼の話は大学生の旅立ちへの言葉としては社会性が足りないといえるのではないか。世に言う「勝ち組」の話でしかない。彼を来賓に呼んだ近畿大学の「感覚」の粗雑さ、壇上に居並んだ「偉いサン」がたを見下した態度に反論も出来ない「教授」連のお粗末さに背筋が寒くなる思いである。彼が見ていた居並ぶ卒業生の映像を見ても実に悲しい思いでしかなかった。映っている限り彼の話を真剣に聞いているとは思える姿はなく、その目線の空虚なこと、まさに正視に堪えない。この二重三重の擦れ違いは看過すべきことではない。日本は本当におかしな社会になっていると。

 ついでながら、この講演の司会していた女性も問題であるが、このことは別の機会に譲る。

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資源の無駄使い

2015-04-14 21:24:50 | 日記

昨日につづいて 一軒のおうちの片付け。 いずれも元の持ち主は80歳を越えて亡くなってさらに時間がたっているという共通項。

伺うといずれも相当の量の「本」。方や宗教、かたや教育と分野は違っても、この世代特有かもしれない「捨てない」精神の凝縮。

そして百科事典、日本の美術、中国美術、文学全集・・・。お家が広いからあちこちに押し込んであるのだが、今それを次の世代の子や孫に継承してほしいというのは、全く無駄、無茶、無謀、無理 ことばはどれでもよい、要するに不可能。しかも今古書としての価値を得ているものはきわめて稀。殆んどは「ゴミ」 日本中この調子であることは間違いないことで、本の価値が下がった、変わったという以前に「造りすぎ、売りすぎ、儲けすぎ」を糾弾すべきではないか。その矛先は出版社に対してでなければならない。バブリーな時代にその雰囲気に悪乗りして売りまくった結果が今わが業界に降りかかっているのだが、古本の価値云々もさることながら、全国規模で見ればいかに大規模な資源の無駄使いをしてきたのか、その方がずっと気にかる。今の新聞の下段に出る新刊の広告を見ていても、実につまらない本、無意味な本が多い。3年もたったら誰も見抜きもしない本が多すぎる。もっと整理さるべきと思う。これは一つには出版社が多すぎることにも由来しているだろう。出版社は電話一本と机、看板があればやっていける。ある出版屋に勤務して、個人的にコネをつけた執筆者なり、良い原稿を持っている人を得て、印刷屋を(支払いを待ってくれる)見つければ「本」は造れる。あとは自分で卸て廻るか、取次店に頼むか、で、在庫は無しでも始めることが出来る。これが重版することが出来れば言うことなし。5・6点出版して2・3点重版できれば生き残って「出版社」として通用することになるのだ。「本を世の中に出すことが出来れば損得無しででも」といった特攻隊的美学の持ち主が多いこともけっして褒められたこととは思わない。一方では、ガタイばかり大きくなって、人件費を生み出すためにいい加減な本を「広告」に任せて売りまくる大手の出版社も問題。大手出版社の給料の高いことは有名。出版は編集者と執筆者の関係で決まるので、個人能力が資本、ゆえに給料も高い、というののがその弁明。これは新聞記者でも言われることだ。理屈はさもありなん。しかし、30年前後たったいま、この本の処分される様子を見て如何思うのか。かつて百科事典、美術全集などが大当たりのころ、その出版社のボーナスは札束の入った封筒が立つほどであった。 時流に乗ることは経済としてはよいことかもしれないが、ことは「本」である。2・3年で消えてしまうような「際物」を宣伝して売りまくることが正当化される世界ではないのではないか。 今電子化などで「本」の価値・存在が問い直されている時期にある。1千年の命が可能であることが判っている「本・書籍」をもっと大事に考えたいとつくづく思う次第。


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飛行機のこと

2015-04-12 21:49:43 | 日記

小生は子供のころからの乗り物好きをいまだに引きずっている「幼児性」を否定できない。マニアには汽車・電車・自動車ほか色々あって、さらにその中でもメカ、スタイル、写真等種類色々。 吾輩は電車はあまり関心がない。その理由の一つが、どっちを向いて走っているか、止まっているのか が わからないということは大きいように思う。自動車は身近すぎて、実用としか思っておらず、大排気量の必要を認めないのでこれも省く。新幹線は基本的に電車であるし、ある別の根拠でもって小生は可能な限り乗らないことにしている(新幹線は怖いです)。では残るのは何かというと、船と飛行機、そしてトラック、ほかの「働く自動車」ということになる。飛行機については全く何も関与も出来ない一「ファン」に過ぎないが・・。かつてYS-11について「純国産」という表現はオカシイとあちこちに投書・投稿したけど取り上げてもらえなかった。今日 三菱のMRJについて、YS-11とおなじような 感情的・無批判・無節操な記事が目立つのを危惧している。なぜYS-11が「失敗」したのか、マスコミの態度はそれをわかっていないとしか思えない。 2月の搭載エンジンの始動試験の記事と関係者の感想はおよそ客観的とは離れた記事で背筋が寒くなる思いだった。この機体が「全体にまがっていて、あたかも飛ぶ鳥のようで流麗な素敵なデザイン」「流麗な姿の飛行機は高性能の証し」だそうでそれは低翼で床下に貨物室を置かないことでそうなった、と書いてある(手荷物などは機体後部に積むそうである)。 さてはて はたしてこれはそんなに単純な事だろうか?ボーイングの機体がお世辞にも「カッコいい・スマート」と言えないのは昔から。707とDC-8、727・737とDC-9DC-10を見てもわかる。でも結局ボーイングの方が勝ってしまった。この理由は何だろう。YS-11の開発とき、遅れに遅れている間に英国では同じエンジン・プロペラでほぼ同じ性能の機体を3年で仕上げて進空させた、しかも最初から軍用輸送機を想定した床構造だったので一般の民間路線だけでなく広く売り込むことが出来、二百数十機生産した。 日本では7~10年で機種更改されるが、中古機になったのの多くは貨物機に改造されて世界中を飛んでいる。それだけの空間・許容量があるからこそできる技で、MRJははじめから荷物室がない、機体の上部は細くて微妙にまがっていては大型の貨物ドアをつけることは出来ない。ということはこの機体は改造しようのないいわば「観光バス」専用機であるということだろう。さすれば、日本のような税制で数年たてば新規変更で古くなった機体は中古でさばけばよいという感覚では世界中には通用しないのではないか。 YS-11のときも売り込み先の余剰機の売りさばき、そして YS-11が古くなったとき代替機の用意ができないというのは大きな障りだった(フィリピンで、中南米で、USAのローカル線で)。 こんなことを頭によい人たちがきずいていないはずはないと思うけれど・・。マスコミはこんな点をこそきちんと把握して報道すべきではないかと。

こんなことはもっと詳しく話すべきだけど、このブログに見合う話かどうか・・。というので今回はおしまい。本に関することではないのでちょっと反省しています。

 

 

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