閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

郵便局ってそんなに遠くて、めんどうなの?

2014-03-27 19:26:50 | 日記

10日ほど前に「日本の古本屋」を通じた注文がありました。すぐにその品はお送りできる旨、いつものように送信しました。ただ、送金について、「銀行振り込みで」という先方の希望があったのですが、吾店は「公的機関以外は振替でお願いしている」と お知らせしたのです、が・・。10日たっても連絡がない。そこで「どうなったんでしょう、保留期間を過ぎますが」と問い合わせると、その返事は「郵便振替は難しいので、この注文は取り消し」と言ってきました。  何のこっちゃ!というのが小生の感想。 おもえば、以前、同じような要求で「郵便局が遠い」という理由を言ってきたさるマスコミで有名な学者さんがありました。ところがその住所!小生も知っているところで、「おかしいな、すぐ近所に郵便局があったはずだが?」と ネットの地図を見たところ、少し先の角を曲がったところにあるではないか!  先様は小生がまさか土地勘があるとは思わず「遠いからダメだ」といったのだろうが、天網恢々・・・とは言いすぎか、ウソはちゃんとわかるのです。  しかし!吾店はそれなりの理由あって「郵便振替でお願いします」とあらかじめ表示しているのにである。 何のどこが 「郵便振替は難しい」のか、訳がわからない。手前の思うとおりにならないから、言いがかりをつけられたようにしか思えないのだがどうだろう。  それでは気に入らないといって注文そのものを取消し ということは その本はそう大事に思われているものではなかったということではないだろうか。  連休中にもかかわらず「すぐ。明日届いて!」などといいう人もいる。お客様あっての商売ということはそれなりにわかっているつもりだが、「神さま」とは、小生はまったく思っていない。このことは機会があれば書こう。ちなみに「お客様は神様です」というのはウソで、正確には「お客様は神さまのようなものです」というのが、彼が言った正確な発言。それを、ショウの狂言回しの漫才屋たちが面白おかしく短くして煽ってしまった言葉。しかもそれは「芸人」の世界のことであって、「物」を売る世界の話ではない。思えば「健全な精神は健全な肉体に宿る」という有名な言葉も「日本の語・文」でしかない。本当は「健全な精神は健全な肉体に宿れかし」、「宿ってほしい」!という「願望」の言葉・文章だ。それを日本人が勝手に短くしただけ! 要は現実には「健全な精神は健全な肉体には宿っていない」という事で、そうあっては困る、だから「願望」としてこの言葉が発せられていることを知るべきだ。クーベルタンのことをもっとしっかり理解しておくべきと思う。 最初の話から大分ずれたけど、 提示している要件を相談もなしに無視する、ゴリ押しする人が増えてきたことを残念とともに日本文化としてすごく危険だと思うようになった。

 

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(古)本屋に何をもとめているのでしょう?

2014-03-13 21:28:12 | 日記

先だって、ある「新刊」大型書店と、ブック・オフに行って見る機会がありました。いずれも本がいるので行ったわけではなく別の用事で、しばらく待つことになって、店の様子を眺めてみました。週日の昼過ぎというのに結構人の出入りがあって、次々と入店しては店内に散ってゆく、レジも休むことはほとんどない。 小生の関心は来店者の言動なのですが、見ている20分くらいの間で、店員に「あれはないか」「どこにあるか」と尋ねる人は一人もいない!皆さん黙って書棚へ向かって流れてゆく。  なぜこんなことを書くか、以前からこのブログを見ている方にはお分かりだろうが、吾店に来るお客さんと 全然態度が違うことです。 誰も店員にあれこれ聞いてはいない。ひるがえって吾店ではほとんどの(地元の)入店者は入ってくるなり「○○はないですか」「○○ば探しよっですたい」と言って、自分ではこの小さな店の棚を見渡すこともしない人たちです(これは誇張ではありません)  なんで吾店の来店者はこう我がままなのでしょうか?「どうぞお探しを」といえば「探せというのか」「分類はどうなっとるか」「この棚の本はいくらか」etc.  これも先日、珍しく続けて、これとは反対の来客有。関連のない3組4名ですが、いずれも入ってくるなりずっと書棚をあれこれ見て、二人組は少し買われて「こんなにいろいろあるとは思わなかった。云々」。お一人は次々と本を手にして熱心に見ている、結局初版本を数冊、「もっとほしいけどお金が・・」もう一方は大牟田出身で今は上方在。郷土史や三池炭鉱、水俣病と関心は広い、こちらも「旅先なので」と控えめながらそれなりにお買い上げ戴いた。 いずれも 大牟田の人 ではない!  

 このところ本を処分される話しが相次いでいる、12・13日は久留米で、14日は荒尾で、15日は地元で。いずれも捨てるには惜しい、さればとて一点、一点が素敵というものではない、しかも長年吾店とのお付き合いのあった方の片づけとあっては疎かにはできない。倉庫はすでに満杯。買い入れるときは数百、数千冊いっぺんにであるが、売れて出てゆくのは1冊づづ。

 

 

 

 

 

 

 

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