閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

歴史認識 「昔、橋は有ったかい?」

2015-01-25 22:41:17 | 日記

  商売柄、歴史好き、郷土史を調べている、といった方々と接する機会は多いです。いろいろな話が出るのですが、一体に自分の郷土のことを「誇りたい」という気持ちがありありという方が多い。自分の郷土に誇りを持つこと自体は決して問題アリとはしません、生まれ育った人の自然な感興であることは論を待たないのです。しかし、多くの方が、基本的な「歴史認識」の根拠が薄弱なままに「思い入れ過剰」ということが実に多いと感じます。  

 たとえば、昔の(江戸時代以前)の「道(みち)」が今の国道や県道と違って山に入ったところにあるのはなぜ! ということが判っていない人が実に多い。奈良時代の荘園制度が確立して以来、全国(東北以北を除く)に「道」が一応敷かれました。その後少しずつ整備され、信長がかなり力を入れ、徳川氏が天下を握ってより整備されたことは知られています。そして「街道令」が出て大名の参勤などには宿駅が定められました。しかし、それはあくまでも幕府の息のかかった全国の五街道など(街道と正式に呼べるのはこれだけなのです)の主要なほんの一部分だけの話にすぎないのです。五街道以外では「宿」そののもが殆んど無く、鎌倉時代以降江戸期に至っても、一般の通行人はまずは野宿か農家の納屋や庇を借りる、村はずれのお御堂でもあれば十分ありがたい、という状況でありました。当然、湧水のあるところ、野宿するときの焚火の材料の手に入る、あるいは山菜などを採って食べることのできる場所を選んでつながれた結果が「道」であった。ことに我々が住む、有明海に面した地域については、有名な大きな干満の差がありました。当時の堤防は貧弱でしょっちゅう川筋が変わり、海辺もまともに通れるものではなかった。まず足元が悪い、日陰もない、飲み水を考えても海辺近くは徒歩で通るときに選ぶべきところではなかったでしょう。さらに言えば、驚くことはこれら「歴史好き」の方々は「橋」がなかったことをまるで考えていないことです。

橋は江戸時代を通じて「在」には存在していません。橋があったのは「城内」に限られていました。TVのドラマなどで橋が出てくるのは、いずれも城下の場面であることに気付かなくては「歴史を見る目」ではない。人間が通ることのできる「橋」は明治以降の設置です。最近大牟田市内のある地区で、干拓の歴史変遷を示した地図が作られたのですが、ここでも「橋」と「干拓堤防」についての感覚がずれていることが判ります。今の様なコンクリートで固められた堤防などあるはずはなく、「塘・代」と呼ばれる土を突き固めた「土手」にすぎませんでした。近在の大小の川にも橋はなく、通行人は浅瀬を見つけて、着物を端折ってザブザブ歩く、荷駄は馬の背に、というもの。ほとんどがせいぜい川中に杭を連ねて打ち込んで板を渡す程度であったのです。筑後川、矢部川などの大川にはいくつかの「渡し」が許されていましたが、基本に江戸時代には橋はなく、このことは、江戸時代に支配方から建設を認められ築かれた石造のメガネ橋が全部灌漑用の通水橋であって、人間が通る橋ではなかったことに気付けばわかることです。また運搬は「一人力・一馬力」の世界であったことを忘れては歴史を完全に誤ってしまいます。重たいもの、大きなものは分解するか「舟」で運ぶ、すなはち「水運・川、堀、水路」が重要な働きをしていた(橋がないから自由に通れる)ことに今思い至らない、忘れられているのは大変重要な間違いであると考えます。

 「街道・往還・みち」について、「橋」について、このあとまた書くことになるでしょう。NHKの時代劇が「すべて」ではなく、もっと注意してみなければいけないことを認識しましょう。

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百の文章

2015-01-06 22:06:07 | 日記

 文藝作品というものはそれこそ星の数ほどあり、作家の数もまた数えきれない。

その中で名文と言われるものは数少ないし、名文を書くといわれる作家となるとずっと少なくなる。なかには、「××の名手」といった限定版の評価もある。(たとえば淳之介、新一など)鴎外、漱石、龍之介といった大物は別格として、評価のいくつかの切り口がある中でも内田百の名前はよく出てくるように見受けられる。 百の「名作」と言われる「ノラや」はズット以前、若い時に読んだ。両親も小生も猫好きにかけては人後に落ちないと思っているけれど、この作品には感心する、というよりもいっそあきれてしまった。なぜこれが「名作」なのか不思議だった。この作品が発表されたとき、「男子たるものがなんと女々しい」「天下の文士が世間にさらすべき事か」といった評判があったことを後日に知り、さもありなん、と納得した次第。またかなり後になって、ネタ元ではないかというものがあると知ってなお小生の中での評価が下がっていた。そのネタとは、月岡芳年である。幕末から明治にかけての錦絵の大家。妖怪絵や歴史もので有名だが、猫好きも大変なものであったことは色々な記録でわかっている。「ノラや」の中に描かれた溺愛と周章狼狽ぶりは芳年の行状記録にあるのとそっくりではないか。百は漱石山房に連なった人であるから、その周りの人を見れば彼が芳年を知らなかったことはありえないだろう。百はそれを換骨奪胎、わが身に置き換えたに過ぎないと、小生は思っている次第です。しかるに、そのことが「名文家」という評価を汚すと言っているわけではない。

 昨年暮に、文庫の整理中、百の物がいくらかあって、その中、「内田百集成・間抜けの実在に関する文献」があった。表題の面白さにひかれて手元に残し読んでみた。大変面白い。小生は語彙に乏しいし、うまく表現できないのだが、普段の周りの人とのやり取りを掬い取り、平易な言葉で実にうまく纏めてあると感心した。収録されているほかの文も読んでみたけれど、特段の事件でもないことをよくまあ描けるものだなあと。一見「これなら自分にも書けそうだ」と思わせるところが「名文」たる所以かもしれない。

 他のを読み進んでいくと、自分の身の回りの出来事の「報告」ばかりで、だんだん面白味は減じて、これもまた興ざめなのだが、堅からず、柔らからず、適当な漢語の配分、どこか落語の語り口にも似たところはいかにも山房の形骸に触れた人の文章かと。うーん、やはりこれは名文ということかなあ。

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