閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

12月初め、思うこと

2018-12-06 21:12:44 | 日記
 
先月の末、大牟田で30年近く出されていたある地方新聞が廃刊になった。社主の死去などで継続できなくなったということである。一般的には地方紙の廃刊といえば、多様な意見の発表の場が失われるというというような「表現の・報道の自由」といった基準で評価されるであろう「事件」のハズですが、大牟田市民の中でこの廃刊を本当に「良くない」ことだとおもっている人はほとんど居ないのではなかろうか。取材は杜撰、主張は明らかに偏向、紙面の文章は変換ミス多数、重複記事たびたび、という、およそ「天下の公器」とは言い難い「新聞」でした。「市民の本音」という投稿を載せる欄が「人気」と自画自賛していたけれど、その欄に頻繁に出てくる主たった筆者の文章・主張たるやまさに噴飯ものというのが多く、長屋の隠居然のつもりらしい傍目の無責任な与太主張をはばからず掲載し続けていた。これはおそらく主幹が社説では述べにくい言い分の代替わりだったと思われる。 かくいう筆者はこの欄で言外に攻撃された中の一人で何度か反論を試みたがまともな釈明はなかった。言論はなるほど自由であろうけれども、新聞という公器に思い付きの攻撃的批判の意見を検証も無しに出すのはいかがなものか、新聞の姿勢を疑わせる記事が多かったのは大方の認めるところだろうし、もしや廃刊を残念と思う人はどんな立場の人か。匿名の陰に隠れて無責任な言いたい放題だった連中が今後どこに発言するやら。
 少し前に買い受けて保管してあった品に手が付いた。中で新書版が6・70冊。どれも新品のように綺麗、持ち主がかなり潔癖な人だということは先刻承知。ところがである。ほとんどの品に鉛筆の線引きあり! 幸いにして柔らかい鉛筆なので消しゴムで消える。しかし!吾輩はそれを全部消さなければならない。品物の傾向が江戸から戦前の文学・風俗・民俗・武術などに関する物なので、線引きを消しながら粗々読んでしまうことになるわけだが、これが結構面白い。中ではこれは「取り除け」という例によって積読が増えることもあるけれど、このところ極力これは避けるようにしてメモを取って売る方に回すことにしている。新書版というのは「中間読物」だけれど、小生のような「聞きっかじり」で間に合う手合いには十分で、いろんなことを知り、参考文献に目を通せば古本屋の知識としては一応通じるのではないかと思っている。
 新刊・出版の世界では新書版の売り上げが減っていると聞いた。新書の購入層の中に「学校の先生」が大きいと聞いていたが、その先生方が買わなくなったというのである。今の学校の先生という層が「勉強」しなくなったのは、我が商売を通じて如実に実感できる。曰く「学校の先生は忙しい」。でも自分が本を読まず専門の研究もせず、で生徒に学問の何を教え、伝えるのだろうか。  これはまた話が長くなるので この度はこれまで。

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