閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

好みの酒

2018-04-25 07:35:56 | 日記

 自分から読んでみようという小説はあまりない。しかも商品として買い取ったもののなかから「これは!」と思ったもの、あるいは何らかの必要があって読むもので、近々の流行りのものを読むことはほとんどない。 で、このところ2点続けて読むことになった。
いずれもよい作品でした。作者の力量、ことに「読ませる筆力」を感じるものであったけれど、それ以上のことをうんうんする能力は残念ながら持っていない。 ところでその一冊のなかに 小道具として「I.W.ハーパー」が出てくる。しかも「12年」という限定で。 小説のなかではいかにもうまそうに思えるのでどんなんものか飲んでみたいものだと思うのは自然の成り行きでしょう。 若い時、面白半分・恰好つけもあって結構あれこれ手を出して飲んで見た。バーボンもジャックダニエル、ワイルドターキー、ほか一般的なものは一応飲んだと思うけれど、この「I.W.ハーパー12年」というのは知らない。 そこで近在の酒屋で見てみると普通のハーパーはあっても「12年」が置いてない。ネットで取り寄せでも仕方がないかと思っていたら見つけました。 他の酒と違って四角、細かいカットの独特の瓶。さて如何な味わいかいな、とちょっとわくわく気分でした。しかし 「12年」というだけに深みのあるいい酒だということはわかるのだけれど、小生にとっては バーボンはバーボンでした。特有の焦げ臭さは好みとは言えない、という若い時の記憶がよみがえって、年をとっても酒の好みは変わっていないのを確認した一幕でした。ちなみに小生はブランデーもダメです。焼酎の芋臭いのはあまり気にならないけれど、洋酒の香りの強いのは合わないようですね。 それにしても小説の中の食べ物を食べてみたい、食堂などに行ってみたいというのはあるけれど「酒」を買う気になったのは初めてでした。久々に読み応えのある2冊でしたがいずれも20年くらい前の作品です。作者の造詣の深さ・広さと筆力を改めて知ったことでした、一人はすでに亡くなっている。
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来客の違い

2018-04-21 06:50:40 | 日記
 少し前、ある県庁所在地でやっている同業者と話す機会があった。その中で、彼の店には博物館、美術館、県立図書館などの職員がくるそうで、「先日ですね、店先のものを手にして、これはいいと言って買ってくれたんですよ、ところがね、たった650円の品なんですよ、それを公費でっていうんです。しょうがないから書類を書きましたよ。これまでいろいろ買ってくれてますからね。」というのである。ちょっと待てよ、ひるがえってわが店は如何。国立・県立を問わず関係職員が来店して店の品を見て拾い上げるということは過去全くない! 市の諸部署からもない。まれに何かの要件で来店しても棚の本を自分の意志で見ていくものはいない。これまでのことを思い出しても、公費買い上げはあるのだけれど、いずれも、「いかがでしょう、これは必要なのではありませんか」と、すべて我が方からの持ち込み提案の結果であって、彼らのほうから「買います」というのはまずない。わが店に来て現物を見て買い上げが決まったのは、まず遠来の研究者たち。ことにここ数年は三井三池に関しての話が多くまず関東・関西、そして北海道などの機関からの話である。この差は何であろうか。顔を知っていて何も買わずに帰るのが気まずい、という話が聞こえてきたことがあるけれど、小生は買うことを勧めることはめったにない。かえって図書館で済ませることを、あるいは店の手持ちではない本・資料を紹介することのほうが多い。「古本屋ってどんなものがあるか時々のぞいてみるものではないですか」と言ってくれた信州からの来客は「古本屋」をわかった発言。以前にも書いたけれど、本を買ってもらうよりも周辺の情報をもたらしてくれるのがありがたいのだ。その人が探している・あるいは読んだ本について。あるいは勤務先の、先生・仲間のことなどで結構。もちろん黙って出てゆかれてもあれこれ言う筋ではない。高々8坪強の小さな店である、目下の探し物がある方が珍しいだろう。なければどうするか、という相談には乗ります。ただしその本が今棚にあるかどうかは自分の目で確かめてください。 
 先の店の話のようなのを聞くと この町で店を続けるのが嫌になる。
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王義之展を見に行った その2

2018-04-02 23:05:47 | 日記
承前
我々は今、王義之に連なる能筆、顔真卿 虞世南 褚遂良 欧陽詢 などを知っている。それらがどの時点でどのようにして日本にもたらされたか、については今小生の知るところではない。 行書の王義之、楷書の褚遂良という評価は鎌倉期くらいまでには日本でも知られていたらしい。仮名の書き方、連綿体に至る話では王義之の影響・連なりで説明はつくであろうけれども、良寛は褚遂良を手本にしていたことは常識の範囲。江戸期の手習いの手本では欧陽詢のほうが勝っていたのではないかと何かの説明にあったように思う。良寛の展示はすごく違和感あり、江戸初期・中期の光悦・信尹などはどう見ても「日本流」。王義之の流れの云々の範疇だろうか。さらに言えば 蕪村・隆盛 崧翁もそして最後にあった蒼海・副島種臣はまさに一個の天才の書であって 誰それの影響などということではないと思う。
 要するにこの「特別展」は王義之の作品がまとまって(といっても、摸本であり全部で8点でしかないのだ)という持ち込みの企画に乗っただけではないかと思った次第。
 年間にいくつもの企画展示をしなければならないご苦労はわからないでもないけれど、宣伝が勝ちすぎたようで、やはり「高い」」という気持ちはぬぐえない。展示の説明も「足りない」と思った。音声ガイドにどのように説明されているかは知らないけれど、「そんなのネットでわかるわい」あるいは「書道全集」に書いてある。程度。その物の背景・履歴などがもっとあると見るほうも楽しいのになあ、と思った次第。これで展覧会については了。

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