朝、目覚めてもまだ夜が明けずまっくらというのは勤労意欲を著しく阻害するものですね。「ネバならない」事情がなければ起きる気にならない。で、温かい布団の中であれこれ空想、妄想をめぐらすのも楽しいひと時でもあります。考えることは形而下の事ばかりなので「瞑想」とは言えないのが恥ずかしい。 考えるのは色々な人とのやり取りや、時事に関することなど雑多、この時思いついた対人関係のことを即刻文字に移し替えることが出来れば立派な小説が書ける、時事に関しては評論家になれる、それができないのは空想の持続性のなさと自分の筆力のなさ、に尽きる。「書かずに居れるか」という言葉がいつも頭のなかをよぎっている。
このところ「カルタ・和紙」に関して十数冊の本を目通ししたけれど 当方の目指す情報は得られなかった。反対に 相当著名な人の書いたものでも結構間違いや、根拠不明の
断定があることに驚いている次第。そっちの究明という余計なことが派生して愈々収拾がつかなるではないか。 文献を読むとき「鵜呑み」してはいけないという教訓はえたけれど、それは手前にも跳ね返ることで、「書く」には相当な覚悟がいるぞと教えられたということだ。
増えた探索要件の一つが、少し前に手に入れた本の中から出てきた、ある人の原稿と それとは違うかもしれない掲載文の(現在確認のため掲載誌をある図書館からとりよせつつある)昭和28年に一万数千円の原稿料の支払書がついている。この金額を見てびっくりしたわけだが、今の金額にすれば三十万円以上にはなろう。大手の雑誌にこんな金額の支払いをされる文章を書いていた人が大牟田の近在にいたとは!!!。 PCで探すがなかなか、ある大学教授に聞いてもダメ、本家の出版社に聞いてもダメ、あれこれやっているうちに少しずつ情報が見つかって今 取り寄せの到着を待っているところです。かなりの手間と時間を食ったのだけど、これがはたして「お金」になるかどうかは極めて疑わしい。しかし、こういうお金にならないことの方が楽しくて「その気」になってしまうという困った性格なのですが、「わかっちゃいるけど、やめられない」