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「人肉食」も…旧日本軍のインド人捕虜への残虐行為、印紙報道 その背景とは

2014年08月16日 09時41分32秒 | 歴史問題
 日本とインドは、長らく友好関係を築いている。しかし、第2次世界大戦当時、インドはイギリスの植民地であり、連合国側に属していた。このインドの軍隊と、枢軸国であった日本とが、戦火を交えたこともあった。このとき、日本軍が捕虜として捉えた、インド軍将兵に対して行った残虐行為を、インドの英字日刊紙『タイムズ・オブ・インディア』が詳しく伝えている。

【日本軍が捕虜としたインド軍将兵に対する非人道的行為】
 1942年2月15日、日本は、当時イギリス領だったシンガポールを陥落させた。このとき、英領インド軍(英印軍)の将兵4万人が日本軍の捕虜となった。そのうち約3万人は、イギリス支配に抗しインドの独立を目指すインド国民軍に入隊した。この軍の設立にあたっては、日本軍が中心となって動いた。

 しかし、入隊を拒んだ1万人は、日本軍の強制収容所での拷問を運命づけられた、と『タイムズ・オブ・インディア』は語る。収容所でのインド人捕虜の扱いは、非人道的なものだった。過重な労働、乏しい食料、絶え間ない暴行。そして捕虜が、生きたまま射撃訓練の標的とされることが、何度もあった、と記事は語る。

 船で移送される際にも、寝る場所もないほど船室にすし詰めにされ、水や食料を満足に与えられず、目的地にたどり着く前に多くの者が死んだ、と記事は語っている。

【英印軍の将校らによる、日本軍の人肉食の証言】
「しかし、日本軍が行ったあらゆる残虐行為の中で、最も戦慄を覚えさせるものは、彼らが人肉食を行ったことである」と記事は伝える。

 英印軍のある将校はこのように告発にする。「Suaidという村で、日本軍の軍医が、周期的にインド人捕虜収容所を訪れて、毎回、最も健康な者たちを選び出した。その者たちは、表向きは任務を果たすためということで連れ去られたが、彼らは決して戻ることはなかった」。さらに日本軍は、インド人捕虜ばかりでなく、ニューギニアの現地人さえも殺害し、食していたと主張する。

 他の将校はこのように告発している。「自分と一緒にウェワク(の収容所)に行った300人のうち、50人だけがそこから出ることができた。19人は食べられた。日本人の医師――ツミサ中尉は、3、4人の小部隊を作り、インド人1人を何かの用事で収容所の外に遣わすのだった。日本人たちはすぐさま彼を殺害し、彼の体の肉を食べるのだった。肝臓、臀部の筋肉、大腿部、下肢、腕が切り取られ、調理されるのだった」。

【その他にも証言、証拠があるという】
 記事では、これらの告発内容についての裏付けは伝えられていないが、この他にもさまざまな証言があるという。しかもそれらは、連合国が設置した戦争犯罪調査委員会に対する、宣誓証言として行われたと伝えている。その証言に基づき、何人かの日本人将校とその部下が裁判にかけられた。人肉食によって有罪が宣告され、絞首刑に処された将校の名前を、記事は挙げている。訴えられた日本人は、これらの告発を常に否認したそうだ。

 1992年、田中利幸氏という日本人歴史家が、インド人や他の連合国側捕虜に対する、人肉食を含む、日本軍の残虐行為の明白な証拠を発見した、と記事は伝える(氏は現在、広島市立大学広島平和研究所教授)。その証拠がどのようなものかについて、記事は触れていない。氏は、1997年に『隠された惨事――第2次世界大戦における日本人の戦争犯罪』という本を英語で発表した。その本では、日本軍は食料の貯えが次第になくなったときに人肉食という手段に訴えた、という連合国側の下した判決が反論されているという。人肉食は上級将校の監督下で行われ、権力を表象化する手段として認識されていた、との主張だそうだ。

【英印軍の再評価の試みとも】
 このように、日本軍が英印軍の捕虜に対して行った残虐行為の数々が、記事では列挙されている。しかし、記事の狙いは、日本軍の非道ぶりを暴くことだけではないようだ。

 インドでは、インド国民軍は、イギリスからの独立に寄与した存在として、特別視されている。戦後、イギリスがインド国民軍将兵を裁判で裁こうとしたため、イギリスへの反感が爆発し、独立への機運が一気に高まった。その後、1947年8月15日にインドは独立を果たした。

 反面、英印軍に対する評価は芳しくないようだ。記事によると、インドのナショナリストが第2次世界大戦を語るときには、ずっと、インド国民軍と邪悪な大英帝国の衝突として描かれてきたという。その構図では、英印軍はイギリスの手先の悪役だ。しかし、英印軍将兵が、日本軍の捕虜となり拷問を受けた際にも、忠誠を守り続けたことは、注目に値する勇敢さだと、記事は語る。

 記事は、この勇敢さ、不屈の精神を、英印軍だけのものでなく、インド人一般のものとして捉えようとしている。英印軍将兵の示した忠誠心も、実はイギリスに対する忠誠心ではなく、同胞や上官、自分の所属する部隊に対してのものだった。そして、この忠誠心と、インド国民としての強いアイデンティティーとが結び付いて、彼らをあらゆる種類の困難に耐え抜かせていたのかもしれない、と語る。そしてこのアイデンティティーこそが、英国による支配を揺り動かしたのだろうと、英印軍の中にも、独立に寄与するところがあったとほのめかしている。

 この記事を引用するかたちで、国際ビジネスニュースサイト『インターナショナル・ビジネス・タイムズ』(英国版)と、バングラデシュの『デイリー・スター』が取り上げている。前者は、人肉食を中心に、日本軍が行った戦争犯罪の非人道性に着目して、抜粋して伝えている。後者は、ほぼ人肉食のことだけを伝えている。
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中国、日本人戦犯の自筆供述を連日公表、強力な「世論戦」を展開―中国メディア

2014年07月15日 07時11分36秒 | 歴史問題
中国のニュースサイト・中国新聞網は14日、「中国、日本人戦犯の自筆供述を連日公表、強力な『世論戦』を展開」と題した記事を掲載した。

「(私の)殺人総数は831人・・・中国人女性を計34人強姦しました」。中国国家档案局が13日、公式サイト上である日本人戦犯の自筆供述を公開した。殺人の手段は射殺、刺殺、斬首、焼殺、生きたままの解剖など複数に及ぶ。今月3日から、同局は「1日1つの掲載」という形式で45人の日本人戦犯の自筆供述の公表を始めている。

これに先立ち公表された別の戦犯の供述では「自分は抗日軍人1660人、平民970人を殺害した」、このほか2人は「化学兵器の使用」を認めている。米華字紙・僑報は先ごろ、「侵略の歴史を美化する日本の言行を受け、中国政府は反撃を強めている。寝かされていた資料を引っ張り出して真相を守るための運動を起こした」と報じた。

ネット上にこうした資料を掲載すれば、学者の研究に役立つほか、海外の人々にも読んでもらうことができる。ロイター通信はこうした動きに対し、日本の集団的自衛権の解禁を受け、中国政府が新たな反日宣伝攻勢を始め、中日「世論戦」で優位に立とうとしていると報道、すでに10人の自筆供述が公表されたと紹介している。

(編集翻訳 小豆沢紀子)
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「日本軍は私たちを生き埋めにし、自殺強要した」 慰安婦、韓国HPで子供向けに

2014年05月21日 07時33分46秒 | 歴史問題
 韓国・女性家族省の公式ホームページに掲載されている慰安婦問題を扱ったコーナーで、元慰安婦たちの証言が、子供たちの教育資料として使われていることが5日までに分かった。

 同省のサイト内にある「日本軍慰安婦歴史館」には、子供たちにも慰安婦問題を分かりやすく理解してもらおうと、写真やアニメーションなどを使って制作された「おばあさんの一生」という動画コーナーがある。

 このコーナーでは、アニメで元慰安婦のおばあさんが登場し、「日本軍慰安婦とは何ですか」「“慰安婦”たちはどのようにしてどこへ行ったのですか」といった子供の質問に答える形で、慰安婦問題を説明している。

 その内容をみると、慰安婦については「日本軍の性的奴隷になった女性たちをいう」と定義した上で、「日本の軍人に虐待されて死に、生きて帰ってきた人は多くなかった」と証拠もなく、真偽が疑われる内容をそのまま紹介。また、「朝鮮総督府が警察と憲兵などを動員して暴力的に女性たちを強制的に連れて行ったりした」と説明している。
 さらに「拒否すれば鞭(むち)で打たれ、徹底的に日本軍が監視していたので逃げるのも難しかった」「日本軍は性犯罪の残虐性が世の中に知られるのを恐れ、戦争に負けると同時に私(慰安婦)たちを生きたまま土に埋めたり、自殺を強要するなどさまざまな方法で殺そうとした」。

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軍医論文ヒントに「完全な創作」世界に増殖 誤りに謝罪しながら訂正せず

2014年05月21日 07時12分36秒 | 歴史問題
 「千田夏光という作家に父が慰安婦制度の考案者のように嘘を書かれ、大変な目に遭った。平成3年ごろから、私の診察室にまで内外からいろんな人が押しかけ『民族のうらみをはらす』とか『謝れ』などといわれ罪人扱いされました」

 こう振り返るのは福岡市在住の産婦人科医、天児都(あまこ・くに)(79)だ。天児によると、千田の著書『従軍慰安婦』には、戦時勤労動員制度の女子挺身(ていしん)隊と慰安婦を同一視するなど63カ所に及ぶ問題記述があるという。

 天児の父でやはり産婦人科医だった麻生徹男は戦時中、陸軍軍医少尉として中国各地を転々とした。昭和13年1月に上海で慰安婦約100人の検診をした経験から、14年6月に「花柳病(性病)の積極的予防法」という論文をまとめ上官に提出した。

 麻生はこの中で、検診では「(朝鮮)半島人の内、花柳病の疑いある者は極めて少数なりし」と記し、その理由として日本人慰安婦より若年者が多かったことを挙げている。ただ、軍の命令で行った検診結果の一例を書いただけだが、千田はそれを論理を飛躍させてこうこじつけた。

 「レポートの結果として軍の目は当然のようにそこへ向けられていく。それは同時に、朝鮮人女性の怖るべき恐怖のはじまりでもあった。朝鮮半島が若くて健康、つまり理想的慰安婦の草刈場として、認識されていくことになるのだった」
 千田は別のページにも同様の記述をし、麻生の論文が朝鮮人強制連行のきっかけのように書いているが、同書にはこれに関する実証的な裏付けも何もない。匿名の元経理将校が関連がありそうに証言をしている部分はあるが、この将校が語っているのは13年のエピソードであり、麻生の論文と時期が合わない。

 むしろ麻生は論文で「娼楼にあらざる軍用娯楽所の設立も希望す」「これに代わるものとして、より高尚なる娯楽施設を必要とす。音楽、活動写真、図書あるいは運動が良い」と提言しているのである。

 「千田は自分の都合のいいところだけ拾い読みし、初めから結論ありきで書いている。完全にフィクション(創作)だ」

 こう憤った天児が千田に抗議し、訂正を申し入れたところ、平成8年4月にこんな謝罪の手紙が届いた。

 「朝鮮人女性の比率が高くなったのは麻生論文のためではないということで、ご指摘の通り論文を発表されたのが年のかわってからであったことも明確です。私の記述が誤解をまねき、ご迷惑をかけているとすれば罪は私にあります」

 ところが、作者自身がこれほど明確に著書の根幹部分での間違いを認めたにもかかわらず、結局、それらの部分を訂正した改訂版は出版されず、『従軍慰安婦』の誤った記述が改められることはなかった。
 そして、錯誤の連鎖はこれにとどまらず、「千田が事実として書いた嘘が増殖していった」(天児)のだ。例えば、慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した1996(平成8)年2月の「クマラスワミ報告書」には、オーストラリア人ジャーナリスト、ジョージ・ヒックスの著書『慰安婦』が引用されているが、天児によると「索引には参考文献がたくさん並んでいて立派な学術書のようだが、千田の本とそれを孫引きした著者のものばかり」だという。吉田清治の名前もある。

 この本には7カ所「ドクター・アソウ」の名が出てくるが、千田の著書を引用する形で「最も健康な慰安婦供給源への基礎をおくのに手助けした」と書いたり、「上海の慰安所の主唱者」と記したり、およそデタラメな記述が多かった。

 さらに『慰安婦』には、麻生が撮った写真が無断掲載されていたため、天児はヒックスに「著作権侵害だ」と手紙を出したが、なしのつぶてだった。

 天児は法的手段に訴えることも考えたが、弁護士は「日本弁護士連合会はあなたと立場が違うから弁護できない」と断られた。日弁連は、慰安婦は「軍事的性奴隷」であり、「軍の強制は明白」との立場を取っているからだ。

 吉田と千田という2人の作家が扇情的に書きつづった創作作品は、当事者や関係者の「それは違う」という異議をかき消し、事実として世界に広まった。それには、検証も確認もせずに彼らを持ち上げ紹介してきたメディアが果たした役割も大きい。(敬称略)


麻生徹男



麻生徹男(あそうてつお、1910年1月7日 - 1989年7月11日)は、日本の医師、大日本帝国陸軍軍医として日中戦争、太平洋戦争に従軍した。



目次 [非表示]
1 略歴
2 著書など 2.1 共著

3 千田夏光と慰安婦問題との関連
4 家族 4.1 天児都

5 脚注
6 参考文献
7 外部リンク
8 関連項目


略歴[編集]
1910年(明治43)1月7日生まれ[1]。
九州帝国大学医学部卒業。産婦人科を専攻[1]。
1937年11月応召。大日本帝国陸軍衛生部見習士官として14号兵站病院に勤務[1]。中国の上海や南京を転勤。
1939年(昭和14年)、報告書「花柳病ノ積極的予防法」を作成。この報告書は、戦後、慰安婦問題に関して千田夏光らの著作で度々引用された(後述)。
1941年4月応召解除。
1942年、独立野戦高射砲第34中隊としてラバウル上陸[1]。マラリア対策に従事。

戦後、1946年に麻生産婦人科医院を再開[1]。

福岡助産婦学校長、福岡YMCA主事代行、福岡女学院理事、日本基督教団福岡中部教会日曜学校長等を歴任した[1]。

著書など[編集]

麻生は戦後、戦争体験を著作などで発表している。1957年に博多の雑誌『うわさ』に証言を述べた[2]。1977年に毎日新聞「不許可写真集」に写真を提供した[2]。
1986年、私家本『戦線女人考』を出版[2]。作家の森崎和江はこの本での朝鮮人慰安婦についての記録に感動したと述べている[3]。
『上海より上海へ──兵站病院の産婦人科医』(1993年8月、石風社)
『ラバウル日記──一軍医の極秘私記』(2000年、石風社)。

共著[編集]
天児都との共著『慰安婦と医療の係わりについて』(梓書院、2010年)。

千田夏光と慰安婦問題との関連[編集]

慰安婦について書かれた作家千田夏光の『従軍慰安婦』(1973年双葉社、三一新書1978年。講談社文庫1984年)において、麻生徹男へのインタビューが掲載されている[4]。そこでは麻生軍医は「はじめ陸軍慰安所という文字を見て、演芸か何かをやる場所だと思いました。ですから待機中の婦女子というのは、内地から慰問に来た三味線を弾いたり歌をうたう芸能人だと考えてきました。」などと千田に語ったと記されている[5]。このほか、麻生軍医の作成した報告書「花柳病ノ積極的予防法」が同書では全文掲載され、千田による解釈注釈が付されている。

しかし、麻生徹男軍医の娘で女医の天児都は千田の『従軍慰安婦』に裏付けのない記述や矛盾が多いと批判して、次の点を挙げた[2]。
千田が造語した「従軍慰安婦」という用語では「従軍」に強制の意味が含まれるため、容易に「強制連行」に結びつき、「性的奴隷」を容易に想像させたため、混乱のもととなった[2]。また、千田は根拠なく強制連行と慰安所・慰安婦を結びつけた[2]。
ヨーロッパの軍も植民地に慰安婦制度を置いてたことは千田が引用している麻生報告書にも明記してあるのに、日本軍を「娼婦連れで戦った唯一の軍隊」として流布させた[2]。
1939年6月30日の軍医会同での講演で発表した麻生軍医の論文で80人の朝鮮人と20人の日本人を診察したことを根拠に、麻生軍医が「朝鮮人慰安婦強制連行」の責任者であると千田が主張した。
麻生論文では娼館(娼楼)ではない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書等)を提言しているのに、麻生軍医が娼婦を不可欠と主張したかのように千田が描いたこと。

千田は、麻生軍医を慰安婦制度を考案した責任者のようにほのめかしてしまったことを娘の天児に1996年4月15日消印の手紙で「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪した[2]。この千田による謝罪と自著否定発言を踏まえて天児は出版元の三一書房と講談社へその部分の改訂を要請したが、二社とも改訂しなかった[2]。

天児は「慰安婦問題は千田夏光の誤りを検証せず、事実として平成3,4年頃出版した人たちが誤りを再生産して日本中に広め、それが海外へ流出して不幸な日本叩きの材料とされた事件だ」と、日本軍慰安婦問題(いわゆる「従軍慰安婦」問題)についてコメントを述べている[2]。

麻生徹男軍医は上海の慰安所と日本人慰安婦の写真10点を残している[2]。このうち慰安婦の写真とは、1937年12月の南京陥落前後に日本軍の行動が国際問題となったので、婦女暴行の対策として北九州地区で支度金1000円を支払って急遽集めれて上海に行った日本人女性の写真である[2]。
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「日本軍が慰安婦施設運営」…米国の機密文書公開

2014年03月18日 08時08分07秒 | 歴史問題
日本の安倍晋三首相が慰安婦強制動員を認めた河野談話を議論の末に受け入れると明らかにした中、強制動員が事実であることを立証する新たな資料が発見された。

聯合ニュースが14日に米国立公文書館(NARA)から入手した機密解除文書によると、1945年4月にビルマ(現ミャンマー)で米軍が日本軍捕虜を尋問する過程で日本軍が直接慰安所を運営したという証言が出てきた。当時米軍は捕虜に「部隊便宜施設のひとつとして慰安婦を置いているか」を尋ね、ビルマのメイミョーに慰安婦がいたという答えを得た。花代は3.5~5円で、日本軍兵士の月給は24円だったと証言した。

ほぼ同じ時期に米軍の情報部員が中国人女性看護士をインタビューした文書も出てきた。日本の陸軍軍医官が毎週金曜日に旧満州に位置した慰安所を訪問し慰安婦を定期検診したという内容だ。慰安所には日本女性20人、韓国人女性130人がおり、全員が性病を患っていた。軍医官は性病が深刻と診断された女性には兵士の相手をさせるのを禁止させたといった。2つの文書はそれぞれ米軍G・F・ブルンダ中佐とジェームス・ケデス少佐が作成したものとなっている。

文書の内容は日本軍が慰安所を直接運営したことを語っている。93年の河野談話には、▽慰安所が日本軍の要請によって設置され▽慰安所の設置・管理と慰安婦移送に軍が直接的・間接的に関与し▽募集・移送・管理などが慰安婦本人の意思に反して行われた――と明示されている。談話は米軍が作成した膨大な日本軍捕虜尋問調書と戦犯裁判当時にオランダ人女性らが慰安婦として強制動員されたという証言など広範囲な証拠を基にしたものだった。

だが、日本の右翼らは、「敵性国によってねつ造された可能性が大きく信頼できない」などという口実で河野談話を認めようとしていない。

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