東京電力福島第1原発事故の発生当時、現場で事故収束作業の陣頭指揮をとった吉田昌郎元所長が9日(2013年7月)、食道がんのために都内の病院で亡くなった。58歳だった。
責任感ゼロの東電本店幹部との対応に苦慮しながら作業員らを指揮するなど、9か月間にわたる闘いの連続だった。
本店幹部の言いなりにならない反骨「ディスターブ(邪魔)しないで下さい」
吉田の真骨頂は反骨精神だという。本店とのテレビ会議でこんな一幕があった。事故発生翌日の3月12日午後7時過ぎ、1号機で冷却するための真水がなくなり海水の注入を始めた。
本店「いきなり海水というのは材料が腐ってもったいない」
吉田「いまから真水というのはないです。水源を切り替えていたら時間がいくらあってもたりない」
この後、本店が海水注入の中止を命じてきたが、事態が悪化するのを心配した吉田所長は指示を無視し、部下に小声でこう指示したという。「これから海水注入の中断を指示するが、絶対に注入をやめるな」
この言動は後に英断と評価されたが、そのときの気持を吉田氏はこう語った。「一言で言えばあの時点では現場は生きるか死ぬかだった。あれをもし止めていたら死ぬかもしれない。そういう気持だったことだけは伝えたい」
本店との間にこんなやり取りもあった。最も深刻な状況に陥った14日深夜、2号機の圧力を下げるベント(排気)が焦点になった。
本店「ベントできるんだったらすぐやれ。早く、余計なこと考えるな」
吉田「はい」
本店「吉田所長、開けて(ベントして)くれよ」
吉田「いろいろ聞かないで下さい。いまベントを開ける操作をしていますので、ディスターブ(邪魔)しないで下さい」
菅首相がポツリ…「吉田所長だけが頼りだ」
生前にたびたび吉田氏にインタビューしたノンフィクション作家の門田隆将はこう話す。「この事故は歴史に残さないといけないと本人は思っていたようです。無事な北海道と西日本、アウトの東日本に日本が3分割されるかもしれないという極限状態に立って奮闘した男ですよ。僕は戦死だと思っています。役割を終えて去っていった」
当時、菅政権の内部にいた片山善博元総務相も「あのとき菅総理も『東日本はダメになるかもしれない』『吉田所長だけが頼りだ』とポロッと言ったことがありましたね」と思い出した。
葬儀の日取りは未定という。
責任感ゼロの東電本店幹部との対応に苦慮しながら作業員らを指揮するなど、9か月間にわたる闘いの連続だった。
本店幹部の言いなりにならない反骨「ディスターブ(邪魔)しないで下さい」
吉田の真骨頂は反骨精神だという。本店とのテレビ会議でこんな一幕があった。事故発生翌日の3月12日午後7時過ぎ、1号機で冷却するための真水がなくなり海水の注入を始めた。
本店「いきなり海水というのは材料が腐ってもったいない」
吉田「いまから真水というのはないです。水源を切り替えていたら時間がいくらあってもたりない」
この後、本店が海水注入の中止を命じてきたが、事態が悪化するのを心配した吉田所長は指示を無視し、部下に小声でこう指示したという。「これから海水注入の中断を指示するが、絶対に注入をやめるな」
この言動は後に英断と評価されたが、そのときの気持を吉田氏はこう語った。「一言で言えばあの時点では現場は生きるか死ぬかだった。あれをもし止めていたら死ぬかもしれない。そういう気持だったことだけは伝えたい」
本店との間にこんなやり取りもあった。最も深刻な状況に陥った14日深夜、2号機の圧力を下げるベント(排気)が焦点になった。
本店「ベントできるんだったらすぐやれ。早く、余計なこと考えるな」
吉田「はい」
本店「吉田所長、開けて(ベントして)くれよ」
吉田「いろいろ聞かないで下さい。いまベントを開ける操作をしていますので、ディスターブ(邪魔)しないで下さい」
菅首相がポツリ…「吉田所長だけが頼りだ」
生前にたびたび吉田氏にインタビューしたノンフィクション作家の門田隆将はこう話す。「この事故は歴史に残さないといけないと本人は思っていたようです。無事な北海道と西日本、アウトの東日本に日本が3分割されるかもしれないという極限状態に立って奮闘した男ですよ。僕は戦死だと思っています。役割を終えて去っていった」
当時、菅政権の内部にいた片山善博元総務相も「あのとき菅総理も『東日本はダメになるかもしれない』『吉田所長だけが頼りだ』とポロッと言ったことがありましたね」と思い出した。
葬儀の日取りは未定という。