そんな報われない状況がわかっていても、多くの子は体が不自由になった親を必死に介護する。そこに利害などない。あるのは、自分を生んでくれた親に少しでも長く生きてほしい、苦労して自分を育ててくれた親の面倒を見てあげたい、という純然たる「恩」の気持ちである。
ところが、介護生活が長期に渡るにつれ、子にとってのそれは、己の生活を限りなく浸食してしまう「負担」と感じられがちになる。それが徐々に「怨」の気持ちを生むのである。
このように介護生活は、親への「恩」と「怨」という「2 ON」の間で揺れ動く。その気持ちの綱引きの中で出てくる答えは、「罪悪感」である。親への恩義に報いようとすればするほどに陥る怨みの感情に、子の「罪悪感」は刺激され、心が千々に乱れていく。
(DAIMONDO ONLINE,2018,1,19より)
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介護地獄と呼ぶのが、一番、現実的な命名ではないかと思う。
自分は、おやの介護は、実家におまかせで何もしなかった。
ときどき、慚愧の念にかられることもある。
いま、被介護者になっている。
周りからの温かい介護支援には大感謝である。れ
しかし、気になるのは、介護者の負担である。
金銭的な処理で解決できるのは、気楽であるが、
使命感にかられての介護支援には、被介護者としては、
なんとももうしわけなさが伴う。
その典型が、家族などの身近な人々からの介護支援である。
経済的な負担はないように最大限配慮しているが、
心理的負担への配慮はなかなか難しい。
自分では自立できていると確信はしているが、
意外とはたからみると、危うい自立に見えることもある。
このギャップが、しばしば、介護空間に、恩のなかに怨が持ち込まれることになる。
こじれると、病気に関連する介護地獄にもう一つの、心理的介護地獄が発生してしまう。
成熟した介護空間を構築するなら、
まずは、物理的に離れること。
さらに、心理的には(とても難しいことだが)それぞれの生活に戻ること。
とりわけ、介護者の仕事の充実を最優先することではないかと思う。
とたんに、経済的介護地獄に落ち込む。
そのためには、お金で片がつく介護支援を最大限活用することではないかと思う。
もっともそこでもめることもあるから、事は簡単ではない。
生きるのも大変だが、死ぬのも大変と実感。