
心の癒しブームと心理学 再掲2000年ころの記事
●心理学を学びたいと思わせるもの
まず第一に、青年期が、自分についての「心理学」を強烈に欲しがる時期であるということがある。自分のことを知りたい、自分の心をコントロールしたい、にもかかわらず思い通りにはいかない歯がゆさが、もしかして心理学を学べば解決できるのでは、という期待感を抱かせているようなところがあるように思える。
さらに、ひきこもり、不登校、家庭内暴力、果ては少年犯罪など、自分の身近に見られる心がかかわる特異な臨床事例が、「一体なぜこんなことが起こるの」という問題意識をもたらし、心理学へ向かわせるきっかけになっているようである。我々が開設しているインターネットの問い合わせ欄に頻繁に寄せられるのは、「犯罪心理学やプロファイリングは筑波大学で学べますか」である。
もう一つは、資格取得にからむものがある。文部省は、95年度からスクールカウンセラー派遣事業(99年度、小中高2250校)をはじめている。来年度はもっと充実させるべく予算請求している。そして、その派遣のための人材プールとなっているのが、臨床心理士の資格者(88年より民間の資格として発足、現在、7000余人の有資格者)である。その資格につながる心理学を学びたいということになる。ちなみに、臨床心理士の資格は、来年度から、協会指定の大学院(修士)を卒業した人しか試験が受けられなくなる。
しかし、こうした直接的な要因もさることながら、心理学への傾斜・期待への底流には、さらに次のようなこともあるように思える。
●心の癒しブームの底流にあるもの
一つは、心のボーダレス化が生み出す不安である。
人物金、そして情報が国境(ボーダー)をやすやすと越える時代になった。それと連動するかのように、心のなかにもあったはずのボーダー(たが)も緩みやすやすとあちこちへ越境するようになった。
たとえば、次のような事例にそれが反映されている。
・普通の子がとんでもないことをする
・子供が大人と同じ遊びをする
・振舞いや格好に男女差がなくなっている
・マナーや振舞いにお国柄がなくなってきた
こうした心のボーダーレス化は、旧守派からすると目をそむけたくなるようなところばかりであるが、心の自由、心の創発へとつながるので、悪いことばかりではない。
しかし、一方では、自由、創発は不安を伴う。たが(規準)が見えないだけに、心がどこに行ってしまうかわからない不安が高まる。それを鎮めてくれるものとして、もしかしたら心理学が役立つかも、という次第である。
もう一つは、心の管理の高度化圧力によるストレスの高まりである。
世の中が物質的に豊かになると、心への関心が高まるようなところがある。これも、心の健全な発達にとって悪いことではない。
しかし、みずからの心への関心を持てば持つほど、自分の心のしょうもなさにも気づかさせることになる。「これではいけない、もっときちんとしなければ(心の管理の高度化)」ということになりがちである。これの裏返しとして、身の回りの人々のちょっとした心の管理不全--ちょっと変よ---が気になる。親は子どもの、教師は児童生徒の「ちょっと変」が過剰なまでに気になってくる。かくして、自縄自縛のストレス状態に陥り、もしかしたら心理学が役立つかも、という次第である。
この2つの底流は、イラストに示すように、心のたがの緩みによる不安を、ある限定された領域、たとえば、友人関係の領域での心の管理の高度化---「ちょっと変」と思われたくないための心の自己コントロール圧力---によって擬似的に逃れようとしているところがあるように思えてならない。浅いが優しい友人関係、その対極としての強固な自己中心主義・自分主義(ジコチュウ・ミーイズム)はその現れではないかと思う。