月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

105.船に乗る観音(月刊「祭」2019.6月15号)

2019-06-16 23:53:04 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●當麻寺にて
その仏像を見たのは當麻寺にてが行われた日でした。




當麻寺の練り供養は、中将姫が御本尊の当麻曼荼羅を織り上げ、西国浄土に行けたという伝承に由来します。
観音菩薩たち二十五菩薩が中将姫を現世まで迎えに来て西国浄土に連れて行く様子を表しています。では観音菩薩はどこから来られるのでしょうか。

●石光寺の観音
石光寺は中将姫が曼荼羅を織るための糸を染めた所だと言われています。
そこに残るのが、この観音像です。


たしか18世紀ころの作品だったと記憶していますが、全くの見当違いもしれません。観音菩薩は補陀落と呼ばれるインド南部の山にあるといいます。インドなので日本からは船で渡る必要があり、補陀落渡海と呼ばれる帰らぬ行に臨む人もいました。

「でも、観音さんが船漕いで迎えに来てくれたら、補陀落渡海もせんですむ」
そんなことを思って作られたのかもしれません。

●もう一つの船乗り観音
さて、同様の作品はないかとネットサーフィンしたところ、出てきたのが宇治平等院内にある船乗り観音です。
こちらは座ってます。さすがに補陀落は遠いのでしょうか。
宇治平等院も、當麻寺も平安時代半ば頃から阿弥陀信仰、西国浄土信仰の聖地として知られつづけたところです。迎えにきてくれて、送ってくれるそんな観音さまのお姿を描きたくなるのも当然なのかもしれません。



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104.船鉾の工芸(月刊「祭」2019.6月14号)

2019-06-16 11:06:14 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●播州人に人気!? 船鉾
祇園祭の話を播州の祭仲間とするとき、かなりの確率で話題に上るのが船鉾です。
応仁の乱前からその存在は他の山鉾などとともに文献で確認でき、桃山時代や江戸時代になるとその姿が絵に描かれるようになります。
修士論文(妄想拙文?)作成用に管理人が作成した絵図をもとに当時の姿を見てみましょう。
もとにした絵は「祇園御霊会細記」とよばれる宝暦七年(1757)の本です(リンク先は鈴鹿文庫所収の本書当該ページ)
そして現在はこんな感じです。


「祇園祭細見」の著者である松田元氏も指摘していますが入り組んだ屋根や、華やかな装飾が取り付けられています。

●播州屋台との共通点
播州人が船鉾に親近感を抱くのは、全体で「神功皇后の三韓遠征」を表しているからだけではありません。それは、梵天を思わせる、金塗りの鷁(げき)の彫刻や、両舷の水引幕の浮き物刺繍によるものでしょう。そこで、それぞれの作品の来歴を見ていきます。参考にしたのはやっぱり「祇園祭細見です。

●鷁

龍頭と一対にして水難避けのお守りとして貴人の船に用いる習慣があったそうです。
製作は宝暦十年(1760)で、長谷川若狭という者により作られたそうです。
ちなみに龍頭は三韓遠征から帰ってくる様子を表した、最近復興した凱旋船鉾の先端についています。↓


●浮き物刺繍
播州の祭マニア垂涎の作品が、下の両舷の水引幕でしょう。糸縒りによる微妙な色の変化に加え、他の祇園祭の作品よりも立体感に満ちた作品となっています。

作者は円山応挙門下であり船鉾町生まれの西村楠亭の下絵だそうです。天保七年(1836)の製作です。

●屋台文化の工芸が花開いた江戸末期
こうして見ると、屋台、太鼓台が広がり始めたころ、その工芸も花開きはじめたことが見て取れました。絹常が幕末に京都から小野へ移り住んだという伝承も納得できる気がします。
祇園祭の場合、どうしても舶来品に目が行きがちですが、日本の歴史や文化を考えるには、刺繍や彫刻をより細かく見る必要がありそうです。
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