月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

114.都東側の三条小鍛冶-平安の春日社としての祇園社-(月刊「祭」2019.6月24号)

2019-06-23 23:20:51 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

祇園社や祇園祭と藤原氏の関係はどうなのか、を見ていきます。そして、次号以降で小鍛冶伝承と祇園会が結びついた背景も考えます。

●平安京の春日社としての祇園社  

 鎌倉期あたりに編纂されたと言われる「社家条条記録」(『増補 続史料大成 第四十四巻(八坂神社記録二)』(明文堂)1978) によると、祇園社の前身の観慶寺(別名・祇園寺)の創建伝承に、藤原基経(時平と唯平の父)の土地を寄進したという伝承が残っています。 そして、平安末期に編纂された「今昔物語集」の三十一巻二十四にはの「祇園成叡山末寺語」では 「今昔祇園は本山階寺(興福寺・藤原氏の氏寺)の末寺にてなむありける と昔祇園は興福寺の末寺だったと書いています。それがやがて、比叡山の末寺になるというのが、この物語のストーリーです。「日本紀略」では天延二年(974)に祇園が天台別院となったとしており、逆に言えばそれまでは興福寺の末寺だったことになります。藤原氏の氏社である春日社は、興福寺系統の神社でした。都の東側という位置も春日と祇園社では共通します。つまり、祇園社は平安京版の春日社であるとも言えるでしょう。 では、興福寺の末寺の時代、祇園社ではどのようなことが行われたのでしょうか。 ↑2018年再建中だった興福寺の金堂

●祇園社での祈り ・忠平の奉幣

藤原時平の弟・藤原忠平の日記『貞信公記抄』延喜二十年(920)閏六月二十三日条 「為除咳病、可奉幣走祇園之状、令真祈申、又令鑒上人立□送願」 咳病を取り除くために祇園社に奉幣したとあります。その11年前に時平、7年前には道真追放一派の右大臣源光が泥沼に溺れこの世をさっていました。咳病もまた、道真の祟りとして考えられていたのかもしれません。 しかし、その三年後、延喜二十三年(923)三月二十一日、道真追放時から当時も在位していた醍醐天皇の皇子で、そして時平の甥でもある保明親王がこの世を去ります。これらの怨霊の猛威を恐れたのでしょう、太宰の権帥として左遷された道真は、その年の四月二十日、追放前の官位である右大臣にもどされました。道真死後二十年のことです。 しかし、怨霊の猛威は止まりません。二年後は保明親王の子・頼康親王も幼くしてこの世をさりました。そして、延長八年(930)。有名な清涼殿(醍醐天皇の住まい)落雷事件が起きます。

天神縁起絵巻承久本

その年に醍醐天皇もこの世を去り、後に作られた天神縁起などでは、醍醐天皇もまた地獄の業火に焼かれることになります。

延喜帝(醍醐天皇)さえも地獄の業火に(英賀神社本 永正本)

参考文献および、本記事以上の全ての絵の写真の引用 「日本の美術 299 絵巻=北野天神縁起」 (至文堂) 1991

・東西賊乱の東遊走馬十列

『日本紀略』天慶五年(942)六月廿一日条
六月廿一日癸酉。奉東遊走馬十列於祇園社。東西賊乱御賽
とあるように、「東西の賊乱」をおさめるための祈願が、成就した祭礼「御賽」をおこなっています。 西の賊乱は藤原純友の乱、そして東の賊乱は平将門の乱です。 平将門の乱後まもなく成立したとされる「将門記」では、「新皇」を名乗った将門に対して道真の霊がしたことが残っています。 「平将門其位記左大臣正二位菅原朝臣霊魂表者右八幡大菩薩」 訳があっているかは分かりませんが、「平将門にその(新皇)の位記を左大臣菅原道真の霊魂が八幡大菩薩の名の下に表した。」少なくとも新皇の位記に道真が関わっていることはわかります。 道真の怨霊が関わっているとされる将門の乱平定に関する祭や、道真猛威を奮っている時代の祇園社の隆盛は、祇園社が道真の怨霊を意識した祭礼を興福寺末寺時代に行なっていたことが見てとれます。 では、上記の祇園社で道真の怨霊の平定がなされようとしたことは、小鍛冶の相槌伝承や長刀制作伝承、「小狐」の道真怨霊平定伝承の時代まで意識されていたのでしょうか。 続きは次号よりあとになります。次号、次々号は少し短めになます。

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113.都東側の三条小鍛冶-小鍛冶と祇園、もう一つの小狐伝承-(月刊「祭」2019.6月22号)

2019-06-23 14:37:36 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●小鍛冶と祇園
祇園会の長刀鉾に小狐を打ったとも言われる小鍛冶の伝説が結びついたのでしょうか。

●感神院新宮
粟田神社付近は小鍛冶の邸宅跡と伝わっています。そして、粟田神社はかつては感神院新宮などと呼ばれていました。感神院とは祇園感神院、つまり祇園社のことで、史実の真偽は別として、江戸期に信じられていた小鍛冶という人物は祇園系の神社のお膝元で刀を打っていたことになります。そうなると、長刀鉾の伝説と結びつくのもある意味自然なことと言えるでしょう。





●「戴恩記」の小狐伝承
相槌稲荷伝承によれば一条帝の時代に三条小鍛冶が作ったという小狐には、もう一つの伝承が生まれました。
「戴恩記」天和二年(1682)には、
天子には三種の神器有。臣下には三宝あり。三宝と申は、一には大織冠の御影、二には恵亮和尚の遊ばされし、紺紙金泥の法華経、三には小狐の太刀なり。此小狐の太刀と申すは、菅承相百千の雷となり、朝廷を恨み奉り、本院の時平公を殺し、晝夜雨風やまず。おそらしかりし此のなかにも、猶はたゝお神のおびたゞしく御殿さくる計になりさかりし時、御門大いにさはがせ給ひ、『今日の番神はいかなる神にておはするぞ』と貞信公にとはせたまへば、御はかしのつかゞしらに、白狐の現じ給ふを見て、『御心安くおぼしめされね。稲荷の大明神の御番にておはす』と答へ給ひければ、程なく神もなりやませたまひ、雨も晴れはべしとなり。其御太刀を小狐の太刀とは申侍る。
と、小狐の太刀は、大織冠御影(鎌足の絵?像)、恵亮和尚の持っていた紺地金泥の法華経と共に臣下三宝の一つとなっていました。そしてその刀を持っていたのは一条帝(980-1011) よりさらに時代を上る藤原忠平(880-949)です。時平を祟り殺した道真の霊を恐れた御門(天皇)は、忠平に今日の番をしてくれる神さんは誰やとたずねます。すると藤原忠平の太刀に小狐が現れたので、お稲荷さんだも答えたことが、その刀の名の由来となったとしています。
ここで道真の怨霊が出てくるのは、小狐が藤原氏伝来の刀だったことによるものでしょう。


次号では祇園信仰と藤原氏の関係を見ていきます。






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