月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

98.倒された龍、守られた龍(月刊「祭」2019.6月8号)

2019-06-10 19:26:55 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
俵藤太秀郷が勢多川(滋賀県大津市・琵琶湖から流れ出る唯一の川。)の橋を渡っていると、二十丈(60メートル)ほどもある、見るも恐ろしい大蛇が橋に伏していた。普通の人なら見ただけで卒倒してしまうほどの大蛇であったが、秀郷は何事もないかのようにその蛇を踏んづけて乗り越え、橋を渡って去っていってしまった。
 それから間もなく、小さな男が秀郷の前に現れた。その男が言うには、
 「私はこの橋の下に住んで2000年あまりになります(龍神です)。たくさんの人を見てきましたが、あなたほど勇敢なものは見たことがありません。私は、今の住処の場所を争ってきたものがいまして、その者にずっと悩まされています。で、勇敢なあなたにその敵を討ち取っていただきたいのです。」
 秀郷は即座に承諾し、その男を案内人に立て、今来た道を帰っていきました。
 勢多川の橋につき、川の中に入っていきました。なんと、その底には、美しい龍宮城が建っていたのです。
 そこで、飲み食いの接待をうけているうちに、深夜になりました。そんな時、敵の襲来だと周囲があわただしくなりました。
 秀郷は肌身離さず持っている大きな弓と、矢を三本用意して、敵の襲来を今か今かと待っていました。
 夜半を過ぎた頃、雨風は一通りすぎて、雷鳴が絶え間なく轟いています。
 しばらくすると、比良山のほうから二列に並んだ二、三千程の燃える松明を要した島のような物が龍宮に近づいてきました。それをよく見ると二列の松明は、全て左右の手に持ったものでした。
 なんとこれは、百足(ムカデ)の化け物のようです。
 秀郷は、一本目の矢を化け物の眉間に射かけますが、その矢は刺さりません。
 二本目の矢を同じところに寸分たがわず射たのですが、それでもその身を貫くことが出来ません。
 そして、三本目、最後の矢です。秀郷は唾を吐きかけ、また、同じところを射ました。
 唾を吐きかけた効果なのか、同じところを三度も射た効果なのかは分かりませんが、その矢は眉間を射抜き喉まで到達しました。化け物の手の松明の火は消え、その体が倒れるすさまじい音が大地に響き渡りました。
 近づいて、見るとその化け物の正体はやはりムカデでした。
 龍神は喜び、ムカデ退治のお礼として、いろいろな褒美を秀郷に与えました。
 太刀に巻絹、鎧。そして、頭を結った米俵と赤銅の突き鐘。
 その米俵は中を取っても取っても、米はつきませんでした。そこから藤原秀郷の別名を「俵藤太」と呼ぶようになりました。
 そして、鐘は三井寺に納められました。


俵藤太のムカデ退治の様子です。これは、平将門征伐とも関連があることを書きました。

この物語は、屋台の意匠としても好まれています。姫路市英賀神社の山崎屋台の欄干男柱などに使われています。

●倒された龍
下の写真は「三木の祭―屋台・獅子舞・写真集」(三木市観光協会)2002に掲載された、三木市岩壺神社大塚屋台の先代水引幕も俵藤太の「龍」退治となっています。ですが、藤太が退治したのは「ムカデ」で龍は藤太に守られています。
これは、源満仲が住居を定めるために放った矢が九頭龍に当たったという川西市多田神社の伝承を描いたものと思われます。

この龍は兄弟で住んでいて、もう1匹は逃げてしまったといいます。

●俵藤太に守られた龍
一方の藤太が守った龍はどんな龍でしょうか。
瀬田唐橋の雲住寺には下の写真の絵が張られていました。



跋難陀大龍王と書かれています。ウィ●ペディアによると、跋難陀龍王は難陀龍王と兄弟とされており、難陀龍王の像容は頭に九匹の龍を擁するそうです。となると先述の九頭龍の兄弟もまた、跋難陀と言えるかもしれません。

同じ龍が、あるところでは弓で倒された伝承を、あるところでは弓で守られた伝承をモチーフにするのも祭の面白さと言えます。