月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

112.京都東側の三条小鍛冶-弁慶から和泉小次郎へ。長刀鉾の長刀-(月刊「祭」2019.6月22号)

2019-06-22 17:06:26 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

前号では、小狐の刀にまつわる伝承を見てきました。ここでは小狐や三条小鍛冶の伝承がどのように変容したのか、それは何故なのかを考えます。

●長刀鉾の長刀、持ち主の推移
三条小鍛冶宗近で祭オタクとして忘れてはならないのが、長刀鉾の長刀の奉納です。「祇園御霊会細記」などによると、祇園社(八阪神社)に小鍛冶本人が奉納したと伝わっています。しかし、その長刀は我々はみることはできません。
宝暦七年(1757)の祇園御霊会細記には、長刀が小鍛冶によるものであることが書いてあり、小鍛冶が稲荷を信仰していたことが書いてあります。また「世に伝えて稲荷明神鍛冶小槌を合わせ給へりといふ」とあり、稲荷が相槌を小鍛冶の相槌をつとめたことも書いてあります。


「祇園祭細見」では、文化11年(1814)の「増補祇園御霊会細記」や「祇園山鉾考」大正元年(1912)を参考にして、
「小鍛冶宗近が娘の病気平癒を願い、祇園社に長刀を奉納したことが書かれてあります。また、後に和泉小次郎親衡はこの長刀を所望し愛用したが、何かと異変が起こり、祇園社に返納することにした。だが、一時預かった長刀鉾町で長刀は重く動かなくなったので、神意によりここにとどまることになり、長刀鉾ができた」
という伝承が残っていると書かれています。ですが、「増補祇園御霊会細記」を実際に見ると、「三条小鍛冶宗近の長刀を元々和泉小次郎のもので、家臣の勧めに従い祇園社に奉納した。疫病がはやってこの長刀を持ち出すと疫病は病み、祇園社に持ち帰る時に現長刀鉾町の地から動かそうとすると、重くなって動かなくなったことなどが書かれています。とあります。
いずれにせよ、持ち主は和泉小次郎たる人物となっています。

ところが、延宝六年(1687)の「京雀跡追」(『新修京都叢書第一』(臨川書店)1967 所収)では
くじとらず一番にわたす長刀はむさし坊辨慶か持し長刀也-〈中略〉- 古へより有けるはふかく町内に納置けるよし是三條小かぢむねちかうちたる長刀なり
とあり、小鍛冶の打った長刀であること、そして持ち主は弁慶だったと書いてあります。
そこで先述の宝暦七年(1757)の祇園御霊会細記では鉾部分の中程の天王像を見てみましょう。長刀を持っています。頭には烏帽子風のものがあり、僧というよらも武者風ですので、この時点では和泉小次郎と伝わっていると思われます。また、和泉小次郎は船を担いだとの伝承が伝わっており、よく見ると船を担いでいる様子が分かります。


では、なぜ長刀を持っていたとされる人物が弁慶から和泉小次郎に変わったのでしょうか。それを教えてくれるのは、宝暦三年(1753)に新たに長刀鉾にとりつけられた長刀です。
宝暦七年(1757)の「祇園御霊会細記」の長刀鉾のページの最後にはこのような記述があります。
當時鉾の上にあるハ延宝三年(1753)あらたに作る法橋和泉守来金通作にて真の小鍛冶か作ハおさめ置也
とあります。この長刀は、現存しております。

 

また、「京雀跡追」を見ると
「比より伊賀守金通打上けるをほこのさきにさすといふ」
とあります。伊賀となっているのは、現存の長刀から考えると、活字版を書籍として発行する時か、当時の著者の間違いだと思われます。
つまり、延宝三年に和泉守を名乗る者によって長刀が作られ、そのことにより小鍛冶の長刀を持っていたと者も、混同か和泉守の権威付けのためによって、弁慶から和泉小次郎に変化したと考えられます。

思わず長くなったので、次号は小狐のもう一つの伝承と、小鍛冶、小狐伝承の背景について考えることにします。