月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

118. 祇園祭間近の京都(月刊「祭」2019.6月28号)

2019-06-29 22:22:29 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
明日から祇園祭が始まります。
京都の東、実質の中心地が最も熱くなる一月が始まります。
その前日の様子です。
あえて山鉾関係者ではなさそうな方を中心にしました。

●提灯取り付け
四条河原町あたりから東側の八阪神社前までを歩きました。


提灯取り付けです。
祭をするときの重点項目の一、どれだけ高いところに登れるか。祇園祭も例外ではありません。

朝になるとついていました。


地図でみると上が赤線、下が青線です。


賀茂川より河原町通りは上のような屋根の下に提灯がある飾り付けでした。橋をわたり東側の八阪神社まえまでの方は水引の間に提灯です。水引が紅白でなく紫白なのは、祇園祭が御霊会で祝祭ではない名残??



●大道芸
かつての无骨?を思わせる祇園社近くでの大道芸。祭まえだと熱が入るように見えるのは気のせいでしょうか。いろんな人が集まって、一つの祭になっていくんだと感じさせられます。


鰻谷饅頭氏のベースプレー。東儀秀樹さんとも共演歴があるそうです。ベースはカッコいいということに気づかせてもらえます。



某氏の水晶玉芸。見事な技。




●祇園祭に関して聞いた話
お店をだすことも考えたけど、衛生面を考えると難しい。

主役はお神輿

宇治市民にとって祭は祇園祭でなくて、あがた祭。








117. 都東側の三条小鍛冶番外-小狐と祇園会に残る藤原氏-(月刊「祭」2019.6月27号)

2019-06-29 12:34:24 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●道真太政大臣に
『日本紀略』正暦四年(993)十月廿日条
「重贈故正一位左大臣菅原朝臣太政大臣」
と、猛威を振るった道真の怨霊に、ついに太政大臣の地位を与える日がきました。
この時の天皇が小鍛冶宗近に刀剣作成を命じたとされる一条帝です。

●祇園会にほんのり残る藤原氏、かすかに残る道真

祇園会で神輿に匹敵して大切とされるだしものが、久世駒形稚児です。祇園社内で馬上渡御が許される唯一の人間(祭期間は神)です。


久世駒形稚児は京都市南西部の綾戸国中神社の国中神社より出されています。
由緒書き(後に別文献確認します。)を見ると、興味深いことが書いてありました。





国中神社は、もとはすぐ北の光福寺・こうふくじ境内にあったと言います。光福寺は、延暦寺が東北鬼門を守る寺院であるのに対する裏鬼門の守りの寺院であると言います。
ここには、祇園系寺院の藤原氏の氏寺伝承が今まで色濃く残っていると言えます。





そして、この、寺院の創建は浄蔵貴所となっています。浄蔵は道真の怨霊である火雷天神が清涼殿落雷で時平や醍醐帝を襲った時に、彼らを守るように祈祷を担った天台僧です。
本堂は蔵王権現、右側に浄蔵貴所がいらっしゃいます。


天神縁起では、蔵王権現が浄蔵貴所の弟・日蔵を冥界招待し、地獄の業火に苦しむ醍醐帝や大政威徳天となった道真と巡り会わせます。

つまり祇園会で最も重要な役割を果たす久世駒形稚児を出していた光福寺は、天神縁起絵巻そのものの寺院と言えます。このような伝承があったからこそ、摂関家の作刀伝承を持つ三条小鍛冶もまた、祇園社の長刀鉾の長刀として取り入れられたと言えるでしょう。


116.都東側の三条小鍛冶-祇園に組み込まれた小鍛冶-(月刊「祭」2019.6月26号)

2019-06-29 04:50:28 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
小鍛冶シリーズ再びです。
ここでは、三条小鍛冶宗近の伝承が祇園会と結びついた理由について考えます。

●時代が変わった三条小鍛冶宗近(詳しくは111号)
三条小鍛冶宗近が生きたとされる時代は、1367年頃は後鳥羽院(1180-1239)番鍛冶として記述されていました。ところが、応永三十年(1423)の奥書をもつ「観智院本銘尽」では
「一条院御宇 宗近 三条のこかちといふ 後とはいんの御つるきうきまるといふ太刀作、少納◻︎(言)入道しんせい(藤原通憲)のこきつね 同し作なり」
と、相槌稲荷伝承の設定に似たものとして語られています。
一条帝は980年〜1011年、永延時代存命な天皇なので、小鍛冶もまた永延の刀鍛冶として語られるようになりました。そして、小鍛冶が藤原家伝来の小狐の刀鍛冶としても語られるようになりました。
そして、小鍛冶が永延時代の刀鍛冶として語られるようになったことが、後に祇園会と小鍛冶が結びつくきっかけにもなったと考えられます。

●九世紀末の祇園社
では、小鍛冶が生きたと「された」時代に祇園社はどのようなことが起きていたのでしょうか。


天延時代
『日本紀略』天延二年四月七日条*29
「以祇園。天台別院」

とあるように、祇園社は藤原氏の氏寺興福寺の末寺から天台(延暦寺)別院となりました。
この頃の延暦寺は、座主の良原を中心に他の教団を圧し、末寺や荘園も増加し、世俗的にも強大な存在となっていました。ですが、檀越であった摂関家の援助に負うところが大きかったようです(編・青木和夫ほか『日本史大辞典6』(平凡社)1994)。

そして、
『日本紀略』天延三年(975)六月十五日条には、
「十五日丙辰。被公家始自今年。被奉走馬并勅楽東遊等御幣感神院。是則去年秋疱瘡御脳有此御願。」
昨年秋の疱瘡の悩みの祈願のために、公家が(祇園)感神院で走馬、東遊等、御幣を奉ずるのを今年より始められたとあります。「公家」の中心となったのは、祇園社が昨年まで氏寺・興福寺の末寺であったこと、昨年より祇園社が自分たちが経済の後ろ立てとなった延暦寺別院だったことを考えると、藤原氏であると考えられます。かつての氏の長者・時平が作った道真の怨霊であったと考えるのが自然でしょう。
しかもその六年前(安和二年、969)、当時の氏の長者であった藤原伊尹の時代に安和の変がおき、源高明が太宰府に左遷されました。天禄二年(971)には罪を許されて帰京し、そして祇園会が定例化された年の八月には封300戸が与えられます。
源高明の太宰府への左遷劇もかつての道真を想起させたことでしょう。高明の帰京、封の付与はそのような悪いイメージを払拭し、祇園会の定例化で道真の怨霊を慰撫したと考えて差し支えない。。。?と思います。多分。いやもしかしたら、ひょっとしたら、。




天延時代別伝
元亭三年(1323)頃成立した、社務執行晴顕筆の祇園社の歴史を記した『社家条々記録』によると、
「天延二年六月十四日、被始行御霊会、即被寄附高辻東洞院方四町於旅所之敷地、号大政所、当社一円進止神領也」
とあり、天延二年(974)に御旅所が設置されたとあります。
「日本紀略」より一年早いですが、祇園会が定例化による御旅所の設置伝承と言えるでしょう。
 そして、江戸時代に祇園社に伝わる社伝を集めた『祇園社記』にもその御旅所についての記述が見られます。その文は以下のとおりです。
「当社古文書云、円融院天延二年五月下旬、以先祖助正居宅高辻東洞院為御旅所、可有神幸之由有信託之上、後園有狐堺、蜘蛛糸引延及当社神殿、所司等怖之、尋行引通助正宅畢、仍所司等経 奏聞之劇、以助正神主、以居宅可為御旅所之由被 宣下之、祭礼之濫觴之也、自余以来不交異姓、十三代相続、于今無相違神職也云々、保元馬上 差始之、助正、助次、友次、友正、友延、友吉、友助、助氏、助重、助直、助貞、亀壽丸、顕友」

 蜘蛛の糸を手繰っていくと現在の御旅所である助正の居宅で糸が終わっており、神託どおりそこを社殿とした。助正の子孫がその社の神主となりそれを世襲しているといった内容の文章です。


これらのことから、江戸時代まで、祇園会の定例化が天延期になされたことは伝わっていたことがわかります。
祇園会の定例化は、小鍛冶が活躍したとされる永延時代にもかなり近くなります。このような祇園会定例化の史実や伝承が伝わり続けたことにより、小鍛冶の伝承が長刀鉾の長刀製作伝承につながっていったと思われます。