小原乃梨子篇はこちら。
わたしは山形県酒田市の人間だから、彼のことはまず酒田市美術館の館長として認識している。彼がどのような経緯で館長に就いたかは判然としないが(想像はできます。この美術館の収蔵品が誰のものかを考えれば)、彼のような著名人が来てくれたことが素直にうれしかった。
というのも、矛盾するようだけれど、わたしにとって、彼はやはり「朝まで生テレビ」の人だったからだ。極端なサヨクでもウヨクでもなく、大島渚のように怒鳴るでもなく(笑)、一歩ひいて冷静な発言をするのが石川好という人だった。
山形新聞のコラムに彼のことが紹介されていて、1985年にPL学園の野球部を取材しに行って、さぞや猛練習をしているのかと思ったら、グランドには中森明菜の曲が大音量で流れ、桑田真澄は芝生に寝っ転がっていたそうだ。
しかし自主的に淡々とノルマを自らに課す桑田を擁したPLは、その年の夏の甲子園で東海大山形を29-7という記録的な(というか記録だけど)スコアで破ることになる。まあ、清原までマウンドに立たせる展開は、それはそれで面白かったわけだが。
田中敦子篇につづく。
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