もりもいやがる 盆からさきにゃ
雪もちらつくし 子もなくし
くせのだいこんめし きっちょうのなめし
またも竹田のもんばめし
早よも行きたや この在所こえて
向こうに見えるは 親のうち
……ご存じ、「竹田の子守唄」だ。といっても、歌詞が憶えているものとちょっと違うな、と思われた人もいるだろう。
そもそも「竹田の子守唄」が赤い鳥によってヒットした経緯はこうだ。1966年、東京芸術座で「橋のない川」を上演するにあたり、その音楽に被差別に伝承されてきた曲をモチーフに使うことになり、音楽監督が京都市竹田地区をたずね、一人の老婆から子守歌を聞かされた。このとき採譜された曲をベースにアレンジが加えられ、解放同盟の合唱団が唄っていたものを関西フォークのアーティストたちがライブで歌い始め、これまたそれを聞いた赤い鳥のリーダー後藤悦治郎(現紙ふうせん)がレコーディングをした、と。上の歌詞は元のものに近い形。後藤はこの曲を大分県竹田市のものだと思っていたぐらいだから、赤い鳥のなかに当時どれだけの覚悟があったかはわからないが、その成り立ちから言って、「竹田の子守唄」は完璧に“の唄”なのだ。
この曲が放送禁止に指定された論拠は、歌詞のなかに出てくる「在所」という言葉のためらしい。在所、とは被差別を指す呼称だという。
「竹田の子守唄」に限らず「通りゃんせ」や「かごめかごめ」までが“要注意”になってしまうという差別の問題は、実は山形生まれの山形育ちであるわたしには実感として理解できない部分が大きい。差別用語としての【特殊】の数が全国最小に近い県の人間にとってはしかたのないことかもしれないが、同和教育が必須だったらしい関西人とは、その心構えからしてちがう。
だいたい【】という呼び方など、山形のど田舎では【地区】ぐらいの意味しかもたず、国体が来るあたりで急いで【自治会】などというしゃらくさい呼称に変更になったぐらい。過剰防衛もいいところ。わたしもあなたも民、でけっこうだったのに。
ただ、だから能天気に解放同盟=解同の、かの有名な糾弾戦術が過剰なものだったかというと、ここは微妙なところだ。以下次号。
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