昨日は、第16次 組の連続研修会 が、始まりました。
第1回目の会所が、法専寺でしたので、私も接待で、ウロウロしつつ、お話を聞かせていただきました。
ご住職方の熱意が伝わる研修会でした。
グループの話合い法座で、参加者会員さんが発言なさることにも、私、こっそり聞き耳たてていましたが、
ある方が、「お線香は立てるものなのに、『浄土真宗では、香炉に寝かせて供える』と聞いて、非常に違和感を感じる」
と仰っていました。
それが、私たち各人の経験値ではかった各人の「常識」「思い込み」です。
その方にとって、「線香は香炉に立てるのが常識。それ以外は、おかしい」
と、自分の「常識」にこだわるのですね。
線香の供え方一つとっても、こうです。
お釈迦様は、各人が「常識」と思う「自分の経験による物の見方」を超えないと、自分が心やすらかに生きてゆけないし、人を責める心につながることを説かれたのです。
浄土真宗本願寺派の作法では、
「線香は、立てず、香炉に入る長さに折って、横に寝かせて供える」
ことになっています。
これは、「こだわり」ではなく、「作法」です。
第1回目の会所が、法専寺でしたので、私も接待で、ウロウロしつつ、お話を聞かせていただきました。
ご住職方の熱意が伝わる研修会でした。
グループの話合い法座で、参加者会員さんが発言なさることにも、私、こっそり聞き耳たてていましたが、
ある方が、「お線香は立てるものなのに、『浄土真宗では、香炉に寝かせて供える』と聞いて、非常に違和感を感じる」
と仰っていました。
それが、私たち各人の経験値ではかった各人の「常識」「思い込み」です。
その方にとって、「線香は香炉に立てるのが常識。それ以外は、おかしい」
と、自分の「常識」にこだわるのですね。
線香の供え方一つとっても、こうです。
お釈迦様は、各人が「常識」と思う「自分の経験による物の見方」を超えないと、自分が心やすらかに生きてゆけないし、人を責める心につながることを説かれたのです。
浄土真宗本願寺派の作法では、
「線香は、立てず、香炉に入る長さに折って、横に寝かせて供える」
ことになっています。
これは、「こだわり」ではなく、「作法」です。