11月15日の「なでしこ会」(法専寺女性の集い)でのこと。
蓮如上人のお手紙・「御文章」の中の「白骨の章」をご一緒に味わっていました。
「白骨の章」の中に「朝には紅顔ありて 夕べには白骨となれる身なり すでに無常の風きたりぬれば すなわちふたつのまなこたちまちに閉じ ひとつの息ながくたえぬれば 紅顔むなしく変じて 桃李のよそおいを失いぬるときは・・・」という一節があります。
朝には、血色よく元気いっぱいでも、夕べには白骨となってしまう身です。無常(刻々と移り変わる)風に吹かれると、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息は、ながく絶えて、元気な顔も様変わり、美しい姿も失ってしまいます・・・
いつも、拝読しながら、私は何も気づかぬままだったのですが、さすが、女性陣、
「桃李って、どういう意味ですか」
「みずみずしく美しいという意味です」と私。
「そうなんですね。(俳優の)松坂桃李の「桃李」と一緒なので、何かなあ~と思って・・・」
あ、なるほど、言われてみたら、松坂桃李さんの「桃李」ですね。
改めて、調べました。
桃はモモ、李はスモモ。
『史記』に
桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す(桃や李は物を言わないが、美しい花にひかれて、自然に道ができる。徳のある人には自然と人が集まる)
という言葉があるそうですから、松坂桃李さんの「桃李」は、『史記』から名付けられたのでしょう。
さて、「白骨の章」
すでに、桃李のみずみずしさもなく、かと言って、年を重ねただけで、全く徳もない私ですが、
仕上がって来い ではなく、そのまま至らぬ私を摂取してくださる浄土を 阿弥陀さまが ご用意くださっています。
いつ「無常の風」が吹くとも知らず、「私が先か、人が先か、きょうとも知れず、明日とも知れず・・・」ですが、いつ、どんな死に方をしても安心の いのち を生きさせていただいていること、本当に仕合わせに思います。
蓮如上人のお手紙・「御文章」の中の「白骨の章」をご一緒に味わっていました。
「白骨の章」の中に「朝には紅顔ありて 夕べには白骨となれる身なり すでに無常の風きたりぬれば すなわちふたつのまなこたちまちに閉じ ひとつの息ながくたえぬれば 紅顔むなしく変じて 桃李のよそおいを失いぬるときは・・・」という一節があります。
朝には、血色よく元気いっぱいでも、夕べには白骨となってしまう身です。無常(刻々と移り変わる)風に吹かれると、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息は、ながく絶えて、元気な顔も様変わり、美しい姿も失ってしまいます・・・
いつも、拝読しながら、私は何も気づかぬままだったのですが、さすが、女性陣、
「桃李って、どういう意味ですか」
「みずみずしく美しいという意味です」と私。
「そうなんですね。(俳優の)松坂桃李の「桃李」と一緒なので、何かなあ~と思って・・・」
あ、なるほど、言われてみたら、松坂桃李さんの「桃李」ですね。
改めて、調べました。
桃はモモ、李はスモモ。
『史記』に
桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す(桃や李は物を言わないが、美しい花にひかれて、自然に道ができる。徳のある人には自然と人が集まる)
という言葉があるそうですから、松坂桃李さんの「桃李」は、『史記』から名付けられたのでしょう。
さて、「白骨の章」
すでに、桃李のみずみずしさもなく、かと言って、年を重ねただけで、全く徳もない私ですが、
仕上がって来い ではなく、そのまま至らぬ私を摂取してくださる浄土を 阿弥陀さまが ご用意くださっています。
いつ「無常の風」が吹くとも知らず、「私が先か、人が先か、きょうとも知れず、明日とも知れず・・・」ですが、いつ、どんな死に方をしても安心の いのち を生きさせていただいていること、本当に仕合わせに思います。
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