お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

本願寺の東西分裂

2008年08月19日 | 本紹介
 「教如上人と東本願寺創立」東本願寺出版部

「へ~」「そうなんだ」と興味深く拝読いたしました。

 ご存じない方のために

 教如上人とは、本願寺第11代門主・顕如上人の長男として石山本願寺(大阪)で誕生。
 顕如上人と共に石山合戦で織田信長に対抗するが、和睦をめぐって父と対立。宗門も顕如上人派と教如上人派に分断。
 父・顕如上人亡き後、一旦、本願寺門主を継職したものの、後に秀吉の命により弟・准如上人に本願寺の門主を譲った。後、徳川家康の時代になって、幕府の許可を得て、東本願寺を創立した方であります。

 今回、オバサンが「へ~」と初めて知ったこと

1,父・顕如上人以前のご門主は、親鸞聖人と同様に青蓮院で得度(とくど:僧侶になること)をされていたが、顕如上人から本願寺で「得度式」を執り行うことになった

2,教如上人の母・如春尼は、三条西公頼の末娘(3姉妹)で、長姉は細川晴元の妻、次姉は武田信玄の妻だった

 私オバサン、教如上人の母上と弟・准如上人の母上は別人と思いこんでいた(夫・顕如上人亡き後、教如上人を排し、弟・准如上人が門主継職すべく、前門主夫人が秀吉に直訴した・・・と聞いて、教如上人は前妻さんのお子さんで、やはり「我が子に継いで欲しかったのね~」と勝手にそう思いこんでいた)

しかし・・・

3,如春尼は、15歳で教如さんを、34歳で准如さんを出産されていて、お二人は19歳違いのご兄弟、如春尼さんにとって、どちらもご自分の息子であった

4,東西本願寺分裂は、石山戦争の教団内分裂に起因するところが大きかったが、教如上人は利休と昵懇であったため、反・利休派の石田三成が教如上人の失脚を支援したのではないか

ふむふむ・・・そうかもしれない。歴史は「オモロ~」であります。



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3 コメント

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戦国に始まり幕末まで (ふくろう)
2008-08-19 17:06:15
対織田戦で東西に分裂した本願寺が、幕末にまた東西の政治勢力の対立に巻き込まれるのも、歴史の面白さでしょうか。

というよりは、宗教が大きな勢力を持っている以上、時の政治とは無縁ではいられない、という単純な話でしょうか。
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やはり~ (維真尽(^^))
2008-08-19 21:32:13
政治にとって~
宗教を
コントロ~ルすること(失礼ではありますが)は
大きな命題ではないでしょうか

現在のイスラム教がそうであるように
返信する
Unknown (法専寺)
2008-08-20 11:09:17
ふくろうさん、

そうでしょうね。
仏の道に生きる者とは言え、大きな集団であり、現実、この社会で生活している限り、政治と全く無縁というわけにはいかないでしょう。





維真尽さん、

戦国時代
一向一揆(一向宗=浄土真宗)により、守護大名を倒し、100年に及ぶ門徒領国制を行ったパワーですから、戦国大名にとって、大変な脅威だったでしょうね。
門主は一揆を極力止めようとするんですが・・・現場は、そうは、いかなかった・・・

現在、一部のイスラム教過激派のテロ行為が恐怖となっていますが・・・
「イスラム教」自体が危険で、政治上問題を起こしているとは思いません。

結局、「教え」そのものは尊いが、信者は凡夫(欲も、怒りも、腹立ちも持つフツーの人間)ってことです。
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