いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第364週

2021年10月30日 17時24分48秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第364週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のつくば

スーパーで見つけた。「つくば」の名の故に買う。

バター風味で薄甘い。もちは本当のついた餅のような感触ではなく、もち「風味」の何か。

なぜ「つくば」なのかわからない。バター餅とは、北秋田市で40年以上前から地域で食されてきたという郷土菓子。水に一晩浸したもち米をつき、ほかの材料(バター・小麦粉・卵黄・砂糖など)を加えて混ぜて作られている、ものとのこと(wiki)。

■ 今週の「さよなら京都」

9月の京都旅行のおみやげのちりめん山椒がこれで最後となった。さよなら、京都。

■ 今週の日の丸

日の丸が認められるので、海上自衛隊の哨戒機と思われる。プロペラではないので、P3Cではない。そもそも、今調べるとP3Cは退役したらしい。P-1と思えるのだが、尾翼の形が違うようにも見える。

■ 今週の航行の自由

同省統合幕僚監部によると、中国艦5隻とロシア艦5隻は、18日に津軽海峡を通って日本海から太平洋に出た後、太平洋を南下し、伊豆諸島の須美寿島と鳥島の間を通過。22日に大隅海峡を抜けた。領海には侵入しなかった。 (中露の艦艇10隻、大隅海峡も初めて同時通過…中国駆逐艦ヘリ発着で空自が緊急発進 )

アメリカさまの核兵器搭載艦船通過のためわざと公海にしている海峡を、中露さまが通過したのだ。

つまりは、戦勝国がやりたい放題ってことだ。 ここで中共は戦勝国ではないだろう、という御仁がいたら間違いである。中共は常任理事国である。中共を常任理事国に引き入れて世界を支配しようとしたのは米国、ニクソンとキッシンジャーである。そして、50年後、こうなった。そして、今さら!、あわてて、台湾肩入れに躍起だ。虎児に餌を与え続けた結果なのに。地域を分断して、場当たりで都合の良いほうに肩入れして自分の覇権を維持しようとする米国のやり方も無理が見えている。ことが起きれば、横須賀も沖縄もミサイルを撃ち込まれる。日本は本当の「自衛力」が必要だ。自衛隊の米衛力ではなくて。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20211023-OYT1T50247/様より無断転載

■ 今週の確認

漱石は『三四郎』にて、日本は「亡びるね」と、三四郎にとって初対面の男、のち広田先生に言わせている。

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。

すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った


  --漱石、『三四郎』、東海道線浜松駅での三四郎と初対面のやせた男との会話-- (愚記事;「滅びるね」 @浜松駅

江藤淳(昭和7年12月生まれ)は敗戦時12歳であり、その年の5月の大久保の生家の屋敷を戦災で失なった。焼け野原の自宅を父と訪れ、惨状を目の当たりにした。早熟であり、のち漱石論でデビューした江藤が敗戦と焦土東京の前に『三四郎』を読んでいたのか、おいらは知らない。でも、漱石の「(日本は)亡びるね」発言を江藤がどう思っていたのか知りたいと思っていた。おいらは、『漱石とその時代』を読んだことがなかった。でも、この夏買った。みてたら、あった;

『三四郎』の(一の八)が「東京朝日」のたのは9月8日、米艦隊の来航に先立つこと一か月と10日である。 その後現実に起こった日米関係の歴史を顧みると、この時期に漱石が自作の登場人物に「亡びるね」と予言させているのは、ほとんど信じがたいほどの洞察と言わざるを得ない。思えば今日に至るまでの全てがこの時期に始まっているからである。あるいは、漱石は、米艦隊歓迎に浮き足立っている民心の底に澱む無力感を、言い当てていただけだったのかもしれない。バルチック艦隊を撃破して 、「日露戦争に勝って」も、それで泰平の世が戻ってくるわけではないまるすぐまた新手の「白船」がやって来る。そしてこの「白船」はいくら「一等国」の国民が総出で歓迎してみても、それで引き下がるような生易しい相手ではない。今回はおとなしく帰って言っても、いつかまたもっと強力な「黒船」となって、日本を「亡ぼし」にやって来るに決まっている。 (『漱石とその時代 第四部』)

<白船が来た1908年>

気付かなかった。『三四郎』が発表されたのは、白船が来た頃なのだ。米国の軍事的示威の時代だ。

1898年、米西戦争に勝利したアメリカはフィリピン、グアム、カリブ海のプエルトリコを得て、1903年にはパナマ運河の建設に取り掛かっており、海軍力の整備が急務であった。1904年から1907年までに11隻の戦艦を新造し、海軍力を誇示するタイミングをうかがっていた。

アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは1907年に大西洋艦隊を太平洋岸のサンフランシスコへ回航すると議会で発表する。発表当時はまだ世界一周航海であることを伏せていた。同年12月16日、ルーズベルト大統領をはじめとする大勢の見物人の見送る中、バージニア州のハンプトン・ローズを出港する。翌年の3月11日にメキシコのマグダレナに到着すると、3月13日にルーズベルトは航海の目的が世界一周だと発表する。

航海の目的はアメリカの海軍力を世界中、特に日露戦争に勝ったばかりの大日本帝国(日本)に誇示すること、アメリカ西海岸のアメリカ国民に軍備拡張の支持、具体的には戦艦4隻を新造するための予算を取り付けることが目的だったといわれている。カリフォルニア沖では艦隊遭遇演習を行なう予定で、米国が渡洋作戦を予期していることがうかがわれた[1]。GWFはアメリカ大西洋艦隊に配備されていた新造の戦艦16隻を基幹に編成された。旗艦はコネチカット(16,000t)であった。動員された海軍人の数は、14,000人にのぼる。 wikipedia[グレート・ホワイト・フリート]

 

日本に対する影響

アメリカは当時、大西洋に艦隊が集まっており、太平洋には装甲巡洋艦が1隻配備されているだけであった。まだパナマ運河も建設中で太平洋側で有事があった場合の不安が強くあった。また日露戦争でロシア艦隊が消滅すると、太平洋上には日本海軍だけが突出する状態となった。アメリカの保守派や軍人たちはアメリカの植民地であったフィリピンの孤立を恐れていた。

日本側にはアメリカへの日本人移住制限の検討が行われたことに対する世論の反発や、ポーツマス条約の仲介を行ったルーズベルト大統領に対する批判や不満もあり、日米関係は緊張状態にあった。また日本政府は前年の1907年の帝国国防方針で初めてアメリカを第一の仮想敵国としていた。

艦隊が世界一周航海を始めると、アメリカやヨーロッパ諸国での世論は日本とアメリカの戦争が間近であると騒ぎ立てた。駐フランス大使の栗野慎一郎は「フランスの新聞は日米戦争不可避と書き、日本の外債は暴落した」と伝える。また駐スペイン公使の稲垣満次郎は「スペインの貴族や資本家から軍資金の提供の申し出があった」(スペインは米西戦争に敗北直後)と伝えてきていた。またアメリカの新聞も右派系を中心として連日に渡り、日本との戦争不可避と伝えた。

セオドア・ルーズベルトの伝記では、日本艦隊との交戦の可能性は1割ほど捨てきれなかったと回想したと伝えている。

一方、日本政府は6日後の3月19日に艦隊に日本への招待の申し入れを行った。1908年10月に入り入港が迫ると連日歓迎・友好の記事で新聞が賑わった。アメリカ艦隊はその姿から、幕末の黒船との対比として白船と呼ばれるようになった。10月18日、横浜港に入港すると最高潮に達した。10月18日の朝日新聞に大隈重信は「艦隊来航観」という文章を寄せている。

艦隊の乗組員の日本上陸の許可をするか否かが大きな問題となっていたが、艦隊を率いる将校は連日に渡る園遊会、晩餐会に招待された。当時、海軍軍令部長だった東郷平八郎大将は戦艦三笠の艦上で歓迎会を催した。また水兵3,000人の日帰り上陸が許可され、浅草・上野などの観光を楽しんだといわれている。こうした歓迎ムードのなか10月25日に艦隊は横浜を出航した。  wikipedia[グレート・ホワイト・フリート] 

■