抜き書き1
足ばやに通りぬけながら、彼には、そこの一帯に楽しさが見られなかった。かえって、その窪地がもう一度高まって、小石川植物園をのせたあたり、そのへんに一種の楽しさが見だせていた。彼の暮らしている清水町の合宿、それを入れて上野公園へとつづくそこの高台、それから大学のあるこの第二の高台、それから植物園のある第三の高台、この三つの高台と、それに挟まれた八重垣町の窪地、指々谷町、八千代町の窪地の二つの窪地とが、自分の心理に不安定な混も雑をあたえているのを安吉自身も感じていた。三つの高台にも生活があり、二つの窪地にも生活があった。高台の方の生活には一種の合理性があり、窪地の方の生活には一種の不合理性があった。この合理性には小ブルジョア的なところがあり、不合理性の方にはプロレタリア的なところがあった。今では安吉に、ちんまりしたこの合理性が生理的にいやになっている。そこから生活を、引き抜いてしまいたい。しかしけない。それをそこに置いておくかぎり、過去からきて安心させるあるものがそこにある。彼は生活を、窪地の、乱暴な不合理性の方へ植えかえてしまいたい。しかし、できない。 (中野重治、『むらぎも』;江藤淳の『昭和の文人たち』の「『甲乙丙丁』の時空間 II」からの孫引き)
抜き書き2
「しかし何でまた文京区なんて馬鹿な名を思いついたのかいな。よりによって、そんな名を思いつくことが、そんな能力があるってことがおかしい・・・」 (中野重治、『甲乙丙丁』;江藤淳の『昭和の文人たち』の「時空間の変容と崩壊」からの孫引き)
抜き書き3
私が王執中と知りあったのは、いまから二十年ほどまえ、私が東京高等師範学校にまなんでいたころのことである。
東京師範学校は、大塚台から氷川下の谷に下ってゆく斜面の上につくられた三段のテラスからできあがっている。いちばん高いテラスのうえに立っている殺風景な校舎や図書館のあいだを抜けて、擬宝珠のある古風な陸橋を靴音をひびかせながら第二のテラスに下っていくと、そこはむかし松平大学頭の屋敷であったという占春園で、鬱蒼とした欅や樫の巨木が古い池をとりかこんでいる。池を迂回して、さらに道を第三のテラスに下ってゆくと、そこにはテニスコートやプールや武道館がならんでいて、それは垣根ひとつへだててすぐに氷川下の谷につながる。
私がはじめて王執中の存在に気がついたのは、私が高等師範学校の三年生になった年の秋、その占春園のベンチのうえであった。
(高杉一郎、「遠い人」、『ザメンホフの家族たち あるエスペランティストの精神史』、初出『新潮』1954,1)
おいらの最近の基本は「林芙美子チャンネル」であり(愚記事群)、あんまりぶれてはいけない。けれど、改造社の編集者の高杉一郎の一連の著作(『極光のかげに』、『往きて還りし兵の記憶』、『わたしのスターリン体験』、『ザメンホフの家族たち』)を読んだ。印象としては高杉一郎という人物はかなり怪しいとおいらは睨んでいる。でも、怪しさの分析の前に、そうでもなさそうな部分(ってかそこがなにより怪しい点かも)についてブログねたにしてみよう。
高杉一郎は中野重治が好きらしく、実際に交際もし、編集も担当。高杉の著作には中野重治への言及も多い。おいらは中野重治の本は一冊も持っていないし、読んだこともない。でも最近、中野重治は林芙美子の同時代人でしかも同じ改造社の新鋭文学叢書の仲間だと知った(愚記事)。さらにはおいらが四半世紀前から読んでいる江藤淳の『昭和の文人』で取り上げられている作家が堀辰雄と中野重治。ともに、改造社の新鋭文学叢書の仲間だ。なお、おいらは本は堀辰雄の本を一冊も持っていないし、読んだこともない。全く読んだこともない作家を論じた江藤淳の『昭和の文人』はとてもおもしろい。特に、堀辰雄の分析。その江藤の方法は作品の文章と作家の伝記的事実の両面から堀辰雄を分析していく。そして、堀辰雄は小説のフィクションというものを逸脱した「嘘」を書いていると明らかにするのだ。その江藤の堀辰雄の"解体ショー"は堀辰雄の本を一冊も持っていないし、読んだこともないおいらにもとてもおもしろかった。そして、江藤が堀辰雄の"解体ショー"を経て言いたかったことは、堀辰雄に激烈に認められる「臆面もない出世主義と変身願望のエネルギー」こそが戦後の高度成長経済の原動力として世間に発現した精神のプロトタイプだということ。
さて、”基本は「林芙美子チャンネル」であんまりぶれてはいけない”に立ち戻ると、高杉一郎も江藤淳も林芙美子に言及した文章をおいらは見つけていない。ましては、評論の対象とはしていないはずだ。特に、高杉一郎は改造社の編集者だったのに、改造社の看板作家であった林芙美子について全く言及していない。唯一の例外は宮本百合子の文章の孫引きでわずかに林芙美子の名が出るだけである。高杉一郎は『文藝』の編集者の時、コクトーの特集をやった。コクトーが来日したのだ。林芙美子はコクトーに遭い、『文藝』に寄稿している。高杉一郎と林芙美子は知らぬ仲ではないはずなのに、高杉一郎の回想には林芙美子は全く出てこない。対照的に、高杉一郎は宮本百合子が大好きで、実際に交流も深かった。高杉の著作には宮本百合子への言及も多い。つまりは、「高台」の女性は好みだが、「窪地」から這い出て来て、作家として成功し、三段テラスを私有しお屋敷を建てた女には含むところがあるのだろう。なにより、林芙美子は「侵略戦争」への従軍作家だ。
中野重治にもどって、中野は"台地"と"窪地"を描いている。その描き方を江藤は「文学的時空間」として分析している。なお、中野重治の"三つの高台」と「二つの窪地」"の高台の北(西)限は小石川植物園の台地のことらしく、抜き書き3の大塚台は含まれないようだ。それにしても、抜き書き1の中野の「文学的時空間」ってとても図式的だよね。
ところで、高杉一郎、「遠い人」。辛亥革命を経た中華民国からの留学生、王執中の思い出話。のち仙台で支那/中国問題で口喧嘩することになる王執中との出会いは占春園と知る。そして、占春園は段丘崖の「テラス」にあると知る。この「テラス」といういいまわしは、河岸段丘の英語river terraceからのものだろう。
おいらは俯瞰的にみるとこういう場所とは知らずに、占春園に行った(愚記事:占春園、 茗荷谷参り )と知った。もう9年も前のことだ。それにしても、鬱蒼とした園とベンチは80年経っても変わらない風景らしい。
上記抜き書き3の三つのテラスをT1,T2,T3として記入してみた。左が高低地形図、右が地図(同じ地域)。
愚記事、特におちはない。ただ、自分のための忘備だ。