はらこめし。仙台のおみやげ。材料キットでつくりました。
だしのついたご飯に鮭の身といくらを混ぜ込んだいろごはん。
(いろごはん、って久しぶりに使った。)
いくら丼(白いご飯にいくらのしょゆづけをかけたもの)とは違います。
はらこめしは、親子丼ですね。
インド関連の本を2冊読んでいる。笠原真澄『恋は忘れてやられ旅』(アマゾンの中古で通販購入)と山折哲雄『学問の反乱』(近所の公民館の図書)。後者・山折の本に日本のインド学についての描写がある:
その結果、日本のインド学の世界には、まことに珍妙な現象が見られるようになった。第一にインドの哲学・宗教・言語を研究せんとする学者・研究者たちは、まずドイツやフランスやイギリスに何年か留学して、そこで西洋のインド古典学の研究蓄積、ノウハウを吸収して帰ってくる。その帰国の途中にインドにちょっとのあいだ立ち寄るという留学パターンである。このパターンは明治初年からくりかえされ、現在まで本質的にはあらためられていない。
つまり、近代の日本の学者はインドを理解するとき、つまりインド像を獲得するとき、近代ヨーロッパのインド像の獲得に励んでいた。そしてインド像@近代ヨーロッパ産を獲得したあと現実のインドに行き、獲得したインド像に合致する現実を拾うのである。いや、獲得したインド像だけしか認識できないのである。
誤解なきように申しそえるが、インド像に本物や偽物があるわけではない。近代ヨーロッパ産のインド像が偽物であると言いたいわけではない。ただ日本人が自己本位のインド像を獲得せず、安直に近代ヨーロッパ産のインド像を摂取してきたことは問題である。これはインド像に限る話ではない。近代ヨーロッパは、あらゆることを対象化し像を生産してきた。日本の学者は、田舎者がするように、没批判的にそれらを勉強してきた。勉強こそいちばん楽な道だからである。
その一方、無意識過剰にインドを廻った旅行記が、笠原真澄『恋は忘れてやられ旅』である。やられ旅とは思わせぶりなタイトルではある。べつにインド人とずこばこやって廻ったわけではない。笠原真澄はライターで、著作もたくさんある。彼女は知識にたよってものを書いているわけではない。つまり、たくさんの知識を獲得して像を作り上げた上でものを認識してものを書いているわけではない。でもこれは彼女の像を貶めるものではない。どんな人間も像を持って生きている。知識に頼らない笠原真澄のインド像である。その3ヶ月のインド旅行記、徹底して日常的である。そもそもなんでインドかよく考えるとわからない。同伴者のひとりがカレーを毎日食べられるからという理由が冒頭にでてくるが。この旅行、まるで障害物競走のようであり、メンバーの闘病記のようでもある。タージマハルでの「確かに綺麗だけどどうってことないなあ。3分も見ていると飽きるなあ」には参った。とまれ、インドの歴史や社会状況を鳥瞰的視点から見ることを一切排除して、自分の見たこと感じたことを書くことに徹しているインド旅行記である。
いか@ ゾッキ本を漁る。
仙台旅行ではいくつかの『ブックオフ』に行った。★4号宮城白石店、★仙台西口店、★栃木氏家店の3店。さいきんネットやブログで「せどり」という言葉をよく目にするようになった。せどりとは「古書店や即売展などで買って、高く販売できるところに回して口銭をとること」である。本来従来の古書店員がやってきたことなのだろう。ところが最近、ブックオフで仕入れて・アマゾンでネット販売する、そうだ。せどりということばに気づく前に、おいらはアマゾンで古本をちょこちょこ購入していた。本の価格と送料が同じか、むしろ送料の方が高いことが多い。*註 それでも新刊で買うより安い。なにより、クレジットカードで買って、職場に郵送してもらえば、本当に便利である。自宅宛だと昼間不在で受け取りが面倒。さらにそれをやっているのが、古書店ばかりではなく、一般個人らしい。
そんな、セドリな人の仕入先がブックオフらしい。写真は村上春樹のエッセイ本。すべて105円。そうか世間の評価はきびしいなァと思いつつも、おいらにはお宝なのでがっちりかいましょう。そして、田中角栄著、『日本列島改造論』これも105円。この本おいら、がきのころから20年古本屋に出入りして、はじめて見た。ネットの古書検索で調べたら700円以上してた。空想するにその昔改造ブームの頃い中、角栄ファンの「保守」(実はなりあがり)おやじが買って、古本屋に本を売るなんて感覚は当時なかったから、30年後の今遺族が整理がてらブックオフに「棄てた」んだろうと。
*註 このころ新書を買っていたので。新書はおおむね300円以下。送料もその程度。
こんにちは。インドから出稼ぎにきた いか@です。
東京もすっかり涼しくなり安心しています。7月の暑さならおいらのいなかのデリーとたいしてかわりなかっただす。
毎日東京を散歩していて、やっとみつけました。さむらいニッポン。日本人はみんな日頃、刀を隠してるでしょう。せっかくインドから来たのに、サムライにっぽんを見られず残念ですた。デリーでみた日本の写真はみんな刀をもっていた。でも、東京に来て、みんな持ってない。なにやら、刀は武士の魂らしいので、隠しているらしい。ほんとシャイなんだから。さむらいニッポン。
で、ついに見つけました。さむらいニッポン。ちゃんばらの稽古。
いか@の東京日記の華となりました。インド人は見てくれるかな?
なんちって。
いか@ ずんだなある日
仙台駅のずんだカフェに行った。1年半前に見かけたので、今回は行こうと仙台駅へ。探し回るもない。お土産やの店員に聞くと1階とのこと。行った。あった。ずんだ茶寮っていうんだって。ずんだシェークを飲んだ。こくのある甘さで、疲れているせいもあってか、とてもおいしい。ずんだの香りも嫌味ではなかった。
ずんだ茶寮は三全というお菓子屋に経営されている。この三全、菓匠などと冠をかぶっている、はあの『萩の月』を作っているところだ。萩の月はすごい。まねっこが全国に多産した。おいら、ガキのころお菓子屋でバイトしていた。観光客あいてにみやげ用の菓子をつくる会社。鼻息の荒い経営者がきのう・今日はじめた会社だった。職人さんはいいひとたちだった。小さい個人経営の菓子屋をたたんで、サラリーマン・菓子職人になった人たちだった。そのひとりが「三全は秋保か作並だかの温泉宿でのまんじゅうをつくってたんだよ」と教えてくれた。うそかほんとかおいらは確かめるすべはないが、萩の月が大当たりしたのは事実。こんどはずんだ。
でも、おいらがずんだもちに騒ぐのは、ずんだもちを食べたことがあり、知っているからだ。おいら宮城県人ではないが家ではずんだもちを作っていた。宮城県文化圏にいたのだろうか?ただおいらが生まれた街には伊達家の移民のまちがある。
ずんだなブログ1
ずんだなブログ2
デリーの街角。お昼ころ。学校は午前中で終わるらしい。子供たちが下校していた。歩いて帰る子供やがいる。リキシャで帰る子供がいる。
インドで日本人がリキシャに乗るには、ちょっと勇気がいる。なぜなら、外国人価格を要求されるからだ。最低2倍以上、時には10倍要求される。ただし2倍といっても、10ルピー(30円)が20ルピー(60円)になるのではあるが。そんなリキシャに平然と乗っているデリーの子供たち。もちろん、親がリキシャを雇っているのか後払いをするのだろう。つまり、リキシャは客を選んでお金を取っているのである。これはリキシャにかぎらず、インドでは普通のことである。さらに外国人ばかりでなく、知人の中産階級インド人はオートリキシャにやや高いお金を要求されていた。