いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

逗子・葉山散歩:逗子・葉山駅⇒ 逗子海岸⇒ 葉山港⇒ 森戸大明神⇒ 神奈川県立近代美術館 葉山館

2023年10月29日 08時13分29秒 | 散歩


1.京浜急行逗子・葉山駅;2.逗子海岸;3.葉山アリーナ;4.森戸大明神;5.神奈川県立近代美術館 葉山館

■ 1.京浜急行逗子・葉山駅 ⇒ 2.逗子海岸

■ 2.逗子海岸

▼ お昼は「大戸屋」

株式会社大戸屋が運営する SEASIDE ITALIAN「CANTINA」(シーサイドイタリアン カンティーナ)[google]

 

ランチ:サルシッチャと牛蒡のアルビアータ、鶏モモ肉と茸のフルカッセ

■ ⇒ あぶずり港(鐙摺港)・葉山港


あぶずり港(鐙摺港)


葉山港

 

「ヨットハーバー」のすぐ隣に「やつら」のアジトが目に入った。

■ ⇒ 森戸大明神

森戸大明神(もりとだいみょうじん)は、神奈川県三浦郡葉山町の神社。森戸海岸の南端に、森戸川を挟んで所在している。単に森戸神社(もりとじんじゃ)とも。
歴史
1180年(治承4年)に創建された。源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵し、紆余曲折はあったものの鎌倉を拠点とする勢力を築いた。頼朝は三嶋明神(現・三嶋大社)から分霊を勧請して神社を創建した。以降、歴代鎌倉幕府将軍が訪れる場所となった。当地を所領とする三浦氏の祈願所ともなっている。wikipedia

■ ⇒ 真名瀬海岸(しんなせ かいがん)

⇒ 真名瀬海岸 | 葉山を代表する映えスポットは白いバス停から

この日の散歩では白いバス停には寄らなかった。

■ ⇒ 5.神奈川県立近代美術館 葉山館

■ 5.神奈川県立近代美術館 葉山館

葉山館20周年記念 100年前の未来:移動するモダニズム 1920-1930google公式web site

肝心なのは、神奈川県立近代美術館 葉山。日本での近代は実際には1920年代以降に興隆。特に、関東大震災後の復興での近代化・モダニズムの興隆についての展示。ただし、御存じ、1931年に満州事変、1945年に大日本帝国瓦解。1920年代にモダニズムは1945年の破局への一里塚ともいえる。

企画概要

葉山館の開館20周年を記念して、当館が館名に掲げる「近代(モダン)」の文化が多様に展開した20世紀の20年代を再考します。
1917年のロシア革命と1918年終結の第1次世界大戦により国際的な移動と伝播の時代が到来し、スペイン風邪によるパンデミック後の世界で、芸術家たちは国境を越えて活動しました。中村彝と鶴田吾郎が描いたエスペランティストの詩人ヴァシリー・エロシェンコの肖像を筆頭に、夭折画家・久米民十郎、土田麦僊や前田寛治、藤田嗣治などの滞欧・滞米作品、石本喜久治らが招来したドイツ新興美術、MAVOや三科など1923年の関東大震災とその復興を挟んで都会に展開した前衛諸派、シュルレアリスムの端緒から魯迅の木版画運動まで、大正から昭和へと移る100年前の世界が夢みた新しさの諸相を紹介します。    

 

支那の踊り(久米民十郎 [google])1920年、  支那の賭博室(重松岩吉)1921年(画像ソース

この時代、ヨーロッパは遠く、日本に一番近い「ヨーロッパ」は上海であったとされる。上海には疎開地があり、ヨーロッパ人・アメリカ人と文化が興隆していたからだ。モダン:近代といえば、事実上、ヨーロッパ化:欧米化であるので、日本に一番近い「ヨーロッパ」である上海:支那は、モダンを求める日本人には特別であった。

▼ 上海、版画、魯迅

この時代(1930年頃)の上海での版画についの展示ブースがあった。以前読んだ本に書いてあった;

 また 魯迅は木版芸術の 複数性と民衆性にも注目していた。廉価な費用により 一枚の版木から100枚以上の絵を刷り出すことができる版画は、民衆の現実をテーマとして優れた技術で表現すれば革命の武器たりうると考えたのである。一九三一年八月成城学園の美術教師で夏休みに 兄・内山完造を訪ねて上海に来ていた 内山嘉吉に講師を依頼して、その後は内山完造の協力を得て外国版画展を開いた。またドイツのケーテ・ コルビッツやソ連の芸術家たちなど、多数の外国プロレタリア版画集を刊行しており、中国現代版画復興の父とも称されている。(藤井省三、『魯迅 ー東アジアを生きる文学』)

「木版画講習会記念撮影」 魯迅は前列右から3番目。 内山嘉吉と木版画

展示版画に作家・陳普之(google)の一連の作品があったのだが、題名が印象的だった:「疲れた」、「こんな生活倦きた」、「十字路で迷う」、「金は使い果たし、家にでもいるか」など。作品の画像はネット上にはなかった。


鄭洛耶(鄭川谷)《風景》 1931年 

 
チラシ(ママ)

■ バスでJR逗子駅へ帰る

まとめ

通過町

逗子市 逗子、新宿、桜山、

葉山町 堀内

 


新しい街でもぶどう記録;第467週

2023年10月28日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第467週

■ 今週の武相境斜面


公園の地面

■ 今週の草木花実

■ 今週の国旗掲揚

■ 今週の半額道産品

「栗やサツマイモのような風味」とある。確かに色は濃い、黄色の度合いが強い。そう甘味は強くなかったと感じた。そう栗やサツマイモのような風味は感じなかった。食感・歯ごたえで栗感、サツマイモ感はあった。

・良食味で栗のような風味がある。
・活性酸素の消去能を有するカロチノイド系色素ゼアキサンチン色素を含有し、濃黄肉色を呈する。
・「男爵薯」、「キタアカリ」に比べ、でん粉価が高く、調理加工性に優れる。
(農林水産研究に関する国内の論文・情報が探せるデータベース(アグリナレッジ) インカのめざめ [ばれいしょ農林44号] )

■ 今週の初もの

ラ・フランス、山形産。

■ 今週のスカジャン

<やつら>だ。なんだ!?AC&W SQDNって。
AC&W SQDNなる言葉を初めて知る。調べた。AC&W SQDN=Air Control and Warning Squadron。

トーヨーエンタープライズ(株)のサテンスカジャン TEXAS KATE

848th Air Control and Warning Squadron(Google

北海道にもいたとある(リンク元)。 奥尻島の米軍施設

■ 今週の海

葉山の海岸

■ 今週の展示会

葉山館20周年記念 100年前の未来:移動するモダニズム 1920-1930google公式web site

神奈川県立近代美術館 葉山

肝心なのは、神奈川県立近代美術館 葉山。日本での近代は実際には1920年代以降に興隆。特に、関東大震災後の復興での近代化・モダニズムの興隆についての展示。ただし、御存じ、1931年に満州事変、1945年に大日本帝国瓦解。1920年代にモダニズムは1945年の破局への一里塚ともいえる。

企画概要

葉山館の開館20周年を記念して、当館が館名に掲げる「近代(モダン)」の文化が多様に展開した20世紀の20年代を再考します。
1917年のロシア革命と1918年終結の第1次世界大戦により国際的な移動と伝播の時代が到来し、スペイン風邪によるパンデミック後の世界で、芸術家たちは国境を越えて活動しました。中村彝と鶴田吾郎が描いたエスペランティストの詩人ヴァシリー・エロシェンコの肖像を筆頭に、夭折画家・久米民十郎、土田麦僊や前田寛治、藤田嗣治などの滞欧・滞米作品、石本喜久治らが招来したドイツ新興美術、MAVOや三科など1923年の関東大震災とその復興を挟んで都会に展開した前衛諸派、シュルレアリスムの端緒から魯迅の木版画運動まで、大正から昭和へと移る100年前の世界が夢みた新しさの諸相を紹介します。    

▼ 支那2作品

 

支那の踊り(久米民十郎 [google])1920年、  支那の賭博室(重松岩吉)1921年(画像ソース

この時代、ヨーロッパは遠く、日本に一番近い「ヨーロッパ」は上海であったとされる。上海には疎開地があり、ヨーロッパ人・アメリカ人と文化が興隆していたからだ。モダン:近代といえば、事実上、ヨーロッパ化:欧米化であるので、日本に一番近い「ヨーロッパ」である上海:支那は、モダンを求める日本人には特別であった。

▼ 上海、版画、魯迅

この時代(1930年頃)の上海での版画についの展示ブースがあった。以前読んだ本に書いてあった;

 また 魯迅は木版芸術の 複数性と民衆性にも注目していた。廉価な費用により 一枚の版木から100枚以上の絵を刷り出すことができる版画は、民衆の現実をテーマとして優れた技術で表現すれば革命の武器たりうると考えたのである。一九三一年八月成城学園の美術教師で夏休みに 兄・内山完造を訪ねて上海に来ていた 内山嘉吉に講師を依頼して、その後は内山完造の協力を得て外国版画展を開いた。またドイツのケーテ・ コルビッツやソ連の芸術家たちなど、多数の外国プロレタリア版画集を刊行しており、中国現代版画復興の父とも称されている。(藤井省三、『魯迅 ー東アジアを生きる文学』)


「木版画講習会記念撮影」 魯迅は前列右から3番目。 内山嘉吉と木版画

展示版画に作家・陳普之(google)の一連の作品があったのだが、題名が印象的だった:「疲れた」、「こんな生活倦きた」、「十字路で迷う」、「金は使い果たし、家にでもいるか」など。作品の画像はネット上にはなかった。

■ 神奈川県立近代美術館 葉山に来たのは3度目。
第1回目


新しい街でもぶどう記録;第21週目 2015年03月21日

第2回目


神奈川県立近代美術館・葉山の「木魂を彫る 砂澤ビッキ展」は6/18まで

紹介ブログ記事は6月だったが、行ったのは4月だった:新しい街でもぶどう記録;第129週 2017年04月22日

■ 今週の3度目はあるのか? 3度目の天安門事件


Google [李克強 首相死去]

10月27日、中国の李克強・前首相が68歳の若さで死去した。2013年に首相に就任後、今年3月に退任するまで10年にわたり中国の経済政策を牽引してきた“功労者”に対し、中国の国営メディアは当初、その訃報を淡白に伝えるのみだった。その裏には「ライバルの死」によって独裁体制の完成を目指す、習近平・国家主席の企みがあるという。 (ソース、 google

今の日本人にとって「天安門事件」といえは、1989年の六四天安門事件だろう。これは胡耀邦の死去に伴い、弔いの集会をすることで始まった。一方、その前に1978年の天安門事件というのがあり、これは周恩来が死去した際に、追悼集会が天安門広場で行われたことから始まり、反文革運動が起きた。四五天安門事件

李克強の追悼のための集会(=習近平体制批判)が起きるのか?

■ 今週、先週の購書

角川文庫、『【討論】三島由紀夫 東大全共闘』実売り価格300円。「全共闘C」さんが、誰であるかわかった。の「全共闘C」の発言を文字で読みます。

 


座間・大和散歩:芹沢公園、泉の森

2023年10月24日 19時50分55秒 | 散歩

座間の散歩は3回目。①座間散歩; 座間丘陵、開析谷、台地・段丘、段丘崖 ②座間散歩 2022年;座間駅 ⇒ 座間谷戸山公園 ⇒目久尻川の谷 ⇒中央林間駅。これまでは主に座間の北の方を散歩した。座間には地形の多様性を利用した大きな公園が多い。南東側の芹沢公園や座間市のとなりの大和市の大きな谷戸公園、泉の森へは行ったことがなかったので、散歩した。芹沢公園は、昔、海軍工廠の一部があったとのこと。海軍といっても航空隊の飛行機をつくっていた。そして、そこでは三島由紀夫がいたというのだ。

1.小田急相武台駅;2.小池坂/目久尻川/栗原 谷筋;3.芹沢陸橋;4.芹沢公園;5.東原;6.さがみ野駅付近;7.上草柳交差点;8.泉の森

■ 1.小田急相武台駅 ⇒ 2.小池坂/目久尻川/栗原 谷筋


小池坂(坂のプロフィール)。


目久尻川の両岸に耕作地。豊かな地域。☛「豪族」の家


目久尻川(wiki


下小池坂。

相模原台地に登る。平坦地。

■ 芹沢公園

芹沢公園(せりざわこうえん)は、神奈川県座間市に位置する都市公園(総合公園)である。1985年に建設計画が立てられ、2017年3月30日に全面開園した。wikipedia

台湾少年工顕彰碑

高座海軍工廠で働いていた台湾少年工のための顕彰碑が管理棟近くの丘の上に建てられている。台湾少年工来日75年を記念して、元少年工22人とその家族らが出席して、2018年10月20日に除幕式が行われた。顕彰碑の横には、座間市教育委員会による説明板が設置されている。 (wiki)

地下壕の跡

座間市・海老名市・大和市にまたがる地域にあった高座海軍工廠の地下壕の跡が公園内に残されている。芝生広場の下に「あみだくじ」状に掘られ、局地戦闘機「雷電」の部品製造のための工場等が置かれていた地下壕は、総延長1.5キロメートルに及ぶ。現在一般公開はされていないが、いくつかの入り口からなかを覗くことができる。灯りが灯され、戦闘機の模型が置かれている地下壕もある。入り口付近には、座間市教育委員会による説明板が設置されている。(wiki)

⇒ 三島由紀夫が高座での生活の一端は彼の『私の遍歴時代』にある

白い層は火砕流なのだという。箱根東京軽石層google).

約40cmの厚さの黄白色の地層が茶色いローム層の間に挟まって堆積している。これは、約6万6千年前に箱根火山から噴出した大規模火砕流噴火の堆積物であり、箱根東京軽石層と呼ばれる。引用元

箱根火山 6 万 6 千年前の大噴火と謎

水のみなもと芹沢公園     おいしい座間の水。この水のみなもとが芹沢公園近くに水源井として、掘られています。公園の西側には芹沢川が流れ、東側には水源涵養林があって広場・川・林とのコントラストが、見事です。起伏もあり散策コースとして、いろいろと楽しむことが出来ます。座間市の web site

■ ⇒ 5.東原

↑この坂を上って、 ↓ 西側は低地

下って↑、また上る↓

▼ 途中の夢庵さがみ野店でお昼:カキフライ定食

  

■ ⇒ 6.さがみ野駅付近

■ ⇒ 7.上草柳交差点

■ ⇒ 泉の森

▼ 泉の森

泉の森(いずみのもり)は、神奈川県大和市にある公園である。引地川の水源地を中心に、国道246号を挟むようにして約42ヘクタールが整備されている。特別緑地保全地区。 

概要一帯はかつて引地川沿いの谷戸田だった。しかし都市化が進むと雨量の流入が多くなり、洪水が発生するようになった。そこで1982年(昭和57年)に上草柳調整池を整備し、周囲を公園として開放した。

水源地を含み緑地が多いのが特徴となっている。設備としては、湿生植物園、緑のかけ橋、水車小屋、郷土民家園、ふれあいキャンプ場、自然観察センター・しらかしのいえなどがある。  (wiki)

泉の森停留所から大和市のコミュニティバスに乗り、南林間駅へ行く。

 


東京散歩:四谷三丁目⇒新宿歴史博物館⇒新宿御苑⇒新宿駅西口⇒伊勢丹

2023年10月22日 11時51分18秒 | 東京・横浜


1、丸の内線四谷三丁目駅;2,新宿歴史ミュージアム;3,新宿御苑 大木戸門;4,プラタナス並木;5,新宿御苑博物館;6,新宿門;7,新宿駅西口 110ビル;8,伊勢丹百貨店

↓ 地形。起伏はほぼない。淀橋台、下末吉面。

1.四谷三丁目 ⇒ 新宿歴史博物館

 

北へ向かう道。この先は下り坂、靖国通りへ出る道。すなわち、このあたり段丘崖。

■ 2,新宿歴史博物館 ⇒ 3,新宿御苑 大木戸門

▼ プラタナス並木

■ 新宿御苑博ミュージアム

公式web site 

■ 新宿門

■ ⇒ 7,新宿駅西口 110ビル

北の味紀行と地酒 北海道 新宿西口店

スープカレー ⇒ 昨日の愚記事

■ ⇒ 8,伊勢丹百貨店

再び引き返し東口へ向かう。南口の前の跨橋を渡る。

二子玉川 高島屋に続く、今年2回目のデパート。

全く欲しいものも関心もないのに、入ってごめんよ、デパート。

新宿のデパートにも屋上開放はあるのだ。子供がたくさんいた。どこから来るのだろう?

■ ⇒ 再び、西口へ

小田急で、多摩川を渡り、武相境へ帰る。

まとめ 経過町

東京都 新宿区

四谷、三栄町、内藤町、新宿

 

 


新しい街でもぶどう記録;第466週

2023年10月21日 20時14分18秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第466週

■ 武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の窓:地下鉄丸ノ内線の丸窓

日本車両 東京地下鉄殿向け 丸ノ内線2000系

■ 今週の公園:新宿御苑

■ 今週の並木:新宿御苑のプラタナス並木

■ 今週の群

■ 今週の「変」:四変、歌変

■ 今週の半額

■ 今週の初めて:スープカレー

札幌生まれ、育ちのおいらだが1980年代中頃には去ったので、スープカレーは知らない。今世紀になっても何度か札幌に行ったはずだが、スープカレーには縁がなかった。今週、「北の味紀行と地酒 北海道」に行き、スパカツを食べようとしたら、メニューになかった。なので、スープカレーにした。食べたこともなかったし。いわゆるカレー、つまりは小麦粉を使ったカレーシチューとは違って、まさにスープで、そしてスパイシー。具は茄子、南瓜、人参、インゲン、ジャガイモ、鶏肉。茄子というのがよい。

■ 今週の展

新宿歴史博物館 令和5年度特別展「生誕120年記念 林芙美子展 ―旅人で 詩人で 傑作書きで ―」(9月24日~11月26日)

林芙美子は、昭和5年(1930)から亡くなるまでの約20年間を落合で暮らした新宿ゆかりの作家です。
旅を愛し、詩を心の拠り所とし、「吾古里(わがふるさと)」を希求し続けた47年の生涯は、限りない向上心と文学への執着をもって前進する「旅」そのものでした。
本展では、友人で作家の井伏鱒二がパリ滞在中の芙美子へ送った書簡の一節「心をシャンとして、旅人で、詩人で、傑作書きで、けなげに日本にお帰り下さい」から、「旅人・詩人・傑作書き」をキーワードとし、多面的な視点から作家としての実像に迫ります。
芙美子にとって旅は、生きるため、そして書き続けていくためのもの、詩は、「心の独白」を表現するためのものでした。逆境の中で自分を見失わず、時代に向き合いながら作品を書き続け、激動期を逞しく駆け抜けた稀有な作家です。
遺された原稿類、書簡、初版本、遺愛品、写真、そしてふるさと落合での暮らしを通して、林芙美子の旅と詩と作品をご紹介します。 (web site

関連愚記事:
いくさのあとさき; 軍事冒険主義時代の冒険家: 林芙美子
ある戦争画: 藤田嗣治の肖像素描画;「戦場の女」@最初
林芙美子邸再訪; 華のいのちはしぶとくて

■ 今週のりんご


ガスト・焼きたてりんごパイ

■ 今週の犬猿並び売り:中核派と革マル派の機関紙が一緒にされて売っていた。

新宿、紀伊国屋にて。ってか、紀伊国屋ってこういうのも扱っているのね。始めて知った。

■ 今週の見た 聞いた:新宿駅で右翼が演説していたところに「左翼」のデモ


https://twitter.com/nino1966masa/status/1715627720368157034

スピーカーの大音量合戦で、カオス。人込み越しで直接はあんまりは見れなかったが、聞こえた。

今、気づいた。今日は「国際反戦デー」。おいらは全く自覚なしに「国際反戦デー」に新宿駅にいたのだ。なお、今日この日は、あの雨の神宮外苑での学徒出陣壮行会(--わたしは、あのとき、女子学生とともに、旗をふって、出陣学徒を見送った。--)の日でもあると知る。

 

新宿騒乱事件から50年 あのときの若者たちは今


神代植物公園 2023 秋のバラフェスタ、そして、深大寺そば 

2023年10月15日 05時23分10秒 | 東京・横浜

毎年、春と秋に行く神代植物公園のバラフェスタ。秋の「バラフェスタ」は8度目。過去記事は; 2015年、 2016年2017年2018年2019年2020年2021年 2022年)。

土曜日、よい天気だった。22℃。すごしやすい。乾燥している。人出は多くなかった。バラの花の数は、春に比べて、多くない。


入口の行列はなかった。 ↓今年の春のバラフェスタ↓

■ 室内系

■ バラ園

▼ 国際ばらコンクール花壇

▼ 本園


柵のバラはほとんど咲いていなかった。

▼ 園内の他の域へ

パンパスグラス:特徴・解説  アルゼンチン原産の宿根草、別名シロガネヨシ。大きいものは高さ6m余りになる。雌雄異株でふさふさとした穂は雌花穂。東京都 web site

■ そして、深大寺そば

春のバラフェスタの時のお昼のおそばは、きよしに行った。今回は、「深大寺 雀のお宿」に行った。はじめて。


冷やしきのこそば・大盛り 1,400円

きのこへの味付けが薄あまい。その薄甘さでそばの風味が消されてしまった感じ。三つ葉もそばに会わない気がした。


もりそば:850円

★ 深大寺入口交差点付近の 手作りケーキTOM&SAM (トム&サム)が閉店していた。

手作りケーキTOM&SAM (トム&サム)[google]

 


新しい街でもぶどう記録;第465週

2023年10月14日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第465週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

▼ 神代植物公園にて

パンパスグラス


キンモクセイの大木

■ 今週の蝶

■ 今週の都立公園

パンパスグラス 神代植物公園 

■ 今週のもったいない本舗

11月の絵柄(右)は、羽子板だった。鬼はいなかった。

■ 今週のどんぶり

うなぎ丼 海苔を添えて

■ 今週の改築;半分できた

JR稲田堤駅

■ 今週の無効化

ノルウエーのオスロにある「叫び」(愚記事:この街で

オスロ合意(wikipedia)が無効化

■ 今週の「孫娘」、あるいは、博士さま

小泉純一郎が初当選した時、ものを知らない報道陣の「2世議員ということですが」と質問をすると、「いいえ、3世です」と純一郎。さて、重信メイ。

X テロリストの娘 われらがネトウヨさまが大騒ぎである。でも、娘はたかだか2世。

重信メイの母親の房子の父親は血盟団の周辺者だとされている(Google 重信房子 父 血盟団)。立派な(テロリスト)3世である。

重信メイはPh.Dもちで、米国の大学の研究員とある。米国に出入国できるんだ。

■ 今週の半額

Google     一方、ヤマザキの製品情報では、見つけられなかった。

■ 今週のメモ

路上メモ

■ 今週の相性、あるいは、お眼鏡にかなうこと

https://twitter.com/tkanae/status/1712289484606504981

Google[竹内香苗 居眠り 伊集院]

TBSの朝の伊集院光の番組は、結局、1度も聞かなかった。何かトラブって、終了したらしい。アシスタントのトラブルだとの報道。一方、昔、伊集院光のラジオ番組のアシスタントだった竹内香苗は、生放送で居眠りをした。それなのに、今度も、伊集院に指名されて一緒に番組をやるらしい。おいらは、マニアではないのでよく知らないが、伊集院光は性格に癖があるのだろう。これまで、スタッフとトラブって番組、それどころか放送局とも絶縁してきたらしい。ニッポン放送ともかつてそうであり、今回復縁したらしい。竹内香苗は伊集院光にとって都合、相性がいいらしい。

■ 今週の頭脳明晰な愚か者

先週、久しぶりに、山崎元をみたら、げっそりとして驚いた。餓鬼のようだ。ガンになったとのこと。さて、今週、別記事を見た;

あえて「嫌われ者」の新自由主義を擁護するワケ 「増税メガネ」の新しい資本主義は完全に的外れ 山崎 元 : 経済評論家 

確かに主張されている理論そのものは整合的であり、理想的でさえある。問題はその思想がどのような人たちに利用されるかである。ピノチェト、鄧小平、サッチャー。

この「その思想がどのような人たちに利用されるかである」問題は、対極の思想とみなされがちのマルクスの思想と同じ。

「新自由主義」は正しく理解されているのか?というが、これも「共産主義」は正しく理解されているのか?といいつのり、共産主義者たちが引き起こした災いを、あれは理論に反したことだと片づける神経と同じ。

そもそも「経済学」(だけで)世の中をどうこうできると思う発想がおかしい。やはり、西部邁は偉かった(???)。

■ 今週のお達者さま、あるいは、同い年の彼

 ノーベル賞 受賞50年 江崎玲於奈さん(98)

今週でないが、先月末のNHKニュースに江崎玲於奈が出ていたらしい。御年、98歳。1925年3月生まれ。

江崎玲於奈について愚ブログで書いたことは、あの東京大空襲の日、1945年3月10日未明の空襲、ジェノサイドが明けた朝、東京帝国大学は通常営業し、授業をやっていたのだという;

- - そして、この朝も、すでになじみになった例の二十五番教室で、田中務教授はいつもと少しも代わらぬ調子で、「物理実験第一」の講義を行った。私は必死になってノートを取った。前夜のことから離れ、物理学の世界に没頭した。東大アカデミズムの存在感が身に伝わったときであった。- - (昭和20年3月10日朝の回顧)

江崎玲於奈・『限界への挑戦 私の履歴書』

▼ 同い年の彼

江崎玲於奈より2か月先に生まれた平岡公威さんは、文系だったので授業はなかった。虚弱、病弱だったので兵隊になれなかった彼は、兵役ではなく勤労動員に駆られていた。群馬の中島飛行機小泉製作所の工場に動員されていた。でも、この日東京に帰ってきたらしい。

この丘陵地帯からは 枯野の彼方に M 市の展開る盆地が望まれ、その更に向こうの低い山脈の折れ合う 隙間が、東京の空だということだった。 早春の冷たい雲がそのあたりに希薄な翳を落としていた。

 「ゆうべ、あそこが真赤にみえたんだから 大変だよ。 君の家だって残っているかどうかわかりゃしないよ。 あの空一面が赤く見えるなんて、今までの空襲ではなかったことなんだ」

(中略、主人公は列車で東京へ向かいO市[大宮]で省電に乗り換える)

  そこで私たちは初めて 昨夜の空襲の被害の明証にぶつかった。 ブリッジが戦災者でいっぱいだった。 彼らは 毛布に車って、何も見ず 何も考えない 目を、というよりは単なる 眼球をさらしていた。同じ振幅で膝の子供を永遠にゆすぶっているつもりかと見える母親がいた。氷をしなだれて、半ば 焦げた 増加を紙につけた 娘が 眠っていた。 

 その間をとおる私たち一行は非難の眼差しでさえ報いられなかった。私たちは 黙殺された。彼らと不幸を領たなかったというそれだけの理由で、 私たちの存在理由は抹殺され、 影のような存在と見做された。  三島由紀夫、『仮面の告白』

三島は罹災者を描いているのだ。

江崎玲於奈、98歳で気づく、三島がもし生きていれば、98歳。ちなみに、江崎は三島が死んだあとにノーベル賞をとったのだ。三島は5回ノーベル賞候補になったとのこと。長生きしたら受賞できたのだろうか?

■ 今週の購書

 


新しい街でもぶどう記録;第464週

2023年10月07日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第464週

■ 今週の武相境斜面


鶴川の鶴見川

■ 今週の草木花実

■ 今週の1番閲覧が多かったページ

なぜ彼岸花は毎年同じ場所に咲くのか?、あるいは、非散種の例、そして、球根の意義、はたまた、その栽培法

■ 今週の見切り品

ビーツってどんな野菜?基本の食べ方&人気レシピ18選も

■ 今週の運賃違い

神奈川県大和市のコミュニティバスには種類があり、運賃が違う。「のろっと」、「やまとんGo」。

web site: 大和市コミュニティバス

■ 今週の初物

■ 今週のまぬけ

カナダ議会が第二次世界大戦でソ連と戦った元ウクライナ兵士にスタンディング・オベーション。彼はナチスのSSの隊員としてソ連と戦ったのです。 普通、すぐ気づくだろう、ソ連と戦った兵士って。
Google: 元ナチス隊員、カナダ議会で喝采浴びる-ゼレンスキー氏の演説時に

■ 今週の半額、あるいは、非道産品

 

先週、今週の半額、あるいは、道産品としてよつ葉牛乳を紹介した。今週も!2週連続!と思ったが、道産品じゃなかった。

愛媛県松山市 ルナ物産株式会社(wiki

■ 今週の危険予知、バスにて

■ 今週の「もちっと、ふわっと」


むさしの森珈琲、もちふわキャラメルシフォン

■ 今週の聖地巡礼:「穴掘り作業員」のために

 海軍工廠の生活は呑気だった。私は図書館係と穴掘り作業に従事していた。


神奈川県座間市、芹沢公園、高座海軍工廠 中丸地下工場跡

近代の戦争、特に先の大戦は、国家総動員戦であったから、多くの人が動員され各自役割を担った。国家のためなので、各役割の軽重、貴賤はあまりいうべきことでなはないだろう。でも、東大法学部の学生の中では、学徒動員で特攻隊員になった人もいたし()、穴掘り作業員になった人もいた。戦死した人もいるだろうし、生き残った人もいた。上の例で紹介されている東大生で特攻要員となった小田滋、歌田勝弘などは昭和22年卒業である。同じく生き残った三島由紀夫=平岡公威と同じ卒業年だ。みんなほぼ同い年。三島由紀夫は兵隊になれず、穴掘り作業をしていた。さらに、高座海軍工廠で8,000人の働いていたという台湾少年工と一緒だったのだ。高座海軍工廠では、日本海軍が米軍機迎撃のために厚木基地などに配備した局地戦闘機「雷電」(wiki)をつくっていた。近くの「厚木」航空基地が出撃場所だった。

 
左上の灰色部分が米軍座間キャンプ、右下の灰色部分が米軍「厚木」基地。両基地とも自衛隊も使用。

海軍工廠の生活は呑気だった。私は図書館係と穴掘り作業に従事していた。部品工場を疎開するための大きな横穴を、台湾人の少年工たちと一緒に掘るのであった。この十二三歳の小悪魔どもは私にとってこの上ない友だった。かれらは私に台湾語を教え、私はかれらにお伽噺をきかせてやった。かれらは台湾の神が自分たちの生命を空襲から守り、いつかは無事に故国へえ送りかえしてくれるものと確信していた。かれらの食慾は不倫の域に達していた。すばしこい一人が厨当番の目をかすめてさらって来た米と野菜は、たっぷり注がれた機械油でいためられて炒飯になった。歯車の味がしそうなこの御馳走を私は辞退した。
三島由紀夫、『仮面の告白』

この石碑の反対側の文言は下記;

台湾少年工顕彰碑の由来
 先の大戦中、航空機生産の労働力不足に直面した日本海軍は、その供給源を向学心に燃えていた台湾の若者に求めました。新鋭戦闘機(雷電)を生産しながら勉学に励めば、旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くとの条件に、多くの台湾台湾少年が応募し、選抜試験を突破した八千四百余名が、海を渡って高座海軍工廠のあったこの地(神奈川県高座郡)にやってきました。
 戦局はすでに下り坂で、彼らが求めた勉学の機会はほとんど無く。その上新設の高座海軍工廠には十分な設備が無かったため、大半が全国各地の航空機工場に派遣され、慣れない寒さやひもじさに耐えながら懸命に働き、非常に高い評価を得ました。しかし米軍機の空襲などで六十名に上る尊い犠牲もありました。
 一九四五年八月一五日の敗戦により、志半ばで帰国した彼らを待っていたのは、四十年の長きにわたる戒厳令下の厳しい生活でしたが、それにも耐え抜き、戒厳令が解除されると直ちに同窓組織・台湾高座会を発足させ、李雪峰氏を会長にして日本との密度の高い交流を重ねてきました。
 二〇一八年は、台湾からの第一陣が日本本土に上陸した日から数えて七五年になります。私たちはこの機に台湾高座会留日七五周年歓迎大会実行委員会を組織し、台湾高座会の戦時下の貢献と戦後における台湾最大の親日団体としての活動に感謝の意を表すため、台湾少年工顕彰碑建立を計画しました。
 なお、台湾高座会の皆さんが今もこの高座の地を「第二の故郷」と呼ぶのは、工廠のあった高座の地の多くの農家のお母さんたちのやさしさに源があるようです。此の顕彰碑は当時の農家のお母さんたちへの感謝の碑でもあります。
 二〇一八年一〇月二〇日(平成三十年十月二十日)
 台湾高座会留日七五周年歓迎大会会長 衆議院議員 甘利明

三島由紀夫が高座での生活の一端は彼の『私の遍歴時代』にある;

 しかし人間の記憶などはあてにならぬもので昨年ある文学全集の月報に清水文雄先生が発表された当時の私の葉書があって、それによると、昭和二十年五月、神奈川県高座郡の、海軍高座工廠にいた私は、机辺に、和泉式部日記、上田秋成全集、古事記、日本歌謡集成、室町時代小説集、鏡花を五、六冊、並べたのはよいとして、イエーツの一幕物を歌曲の候文で訳している、などと先生に報告している。
(中略)
 この一例でもわかるように、イエーツと戦争末期の時代とは、簡単には結びつかない。その結びつかないものを、努力して結びつけたというのではなく、私は当時の現実を捨象することに一生けんめいで、もはや文学的交際も身辺に絶え、できるだけ小さな、孤独な美的趣味に熱中していたものと思われる。いずれは死ぬと思いながら、命は惜しく、警報が鳴るたびにそのまま寝てすごす豪胆な友だちもいるのに、いつも書きかけの原稿を抱えて、じめじめした防空ごうの中へ逃げ込んだ。その穴から首をもたげてながめる、遠い大都市の空襲は美しかった。炎はさまざまな色に照り映え、高座郡の夜の平野の彼方、それはぜいたくな死と破壊の大宴会の、遠い篝のあかりを望み見るかのようであった。 
 こういう日々に、私が幸福だったことは多分確かである。就職の心配もなければ、試験の心配さえなく、わずかながら食物も与えられ、未来に関して自分の責任の及ぶ範囲が皆無であるから、生活的に幸福であったことはもちろん、文学的にも幸福であった。批評家もいなければ競争者もいない、自分一人だけの文学的快楽。・・・こんな状態をいまになって幸福だというのは、過去の美化のそしりを免れないが、それでもでいるだけ正確に思い出してもみても、あれだけ私が自分というものを負担に感じなかった時期は他にない。私はいわば無重力状態にあり、私の教養は古本屋の教養であり、私の住んでいたのは、小さな堅固な城であった。ーそして不幸は、終戦と共に、突然私を襲ってきた。
三島由紀夫、『私の遍歴時代』

 
昭和19年9月、恩賜の銀時計と三島(高座勤務の1年前)

別途、高座海軍工廠での生活を書いている;

私は戦争末期には、ほとんど 仮病を使って過ごした。私自身も、心臓だかどこかが悪いものだと思い込んでいたのである。

 そこで戦争末期には、とうとう労働を免れるところまで行った。厚木付近の大学の勤労動員 先でも、毎日 穴掘りをやらされていたのが、東京の主治医の診断書を持って行って、うまうま と図書館勤務へ変えてもらった。 (すべてこういうことを、私は決して自慢でいっているのではない)

なお、敗戦の日、あの玉音放送の日は都内にいた。都内といっても疎開先だ;

 7月末の話。(中略)私は 原因不明の発熱と頭痛で床についた。 だんだんひどくなるので、 腸チフスと自己診断をして、家へかえった。 梅肉エキスの卓効を信じていたから、 あの 酸っぱいものを大匙1杯づつ、 1時間おきになめた。

 熱がようやく下がって、豪徳寺の親類の家で予後養っているとき、終戦の大詔が下ったのである。 父はその場のいきおいで、
「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」
 とひどく 理解のあることを言ったが、数年たつとまたがんこ親父に逆戻りして、私は官吏にさせられた。
 終戦のとき、妹は友たちと宮城前へ 泣きに行ったそうだが、 涙は当時の私の心境と遠かった、新しい、未知の、感覚世界の冒険を思って、 私の心はあせっていた。
1955年 「八月十五日前後」

▼ 「いっそ小田急で逃げましょか」

高座海軍工廠から小田急座間駅へは歩いていける。豪徳寺までは小田急で1本だ。なお、西条八十の詩での逃げる方向は東京から箱根方面のはずだが、三島の場合は逆に、東京に逃げたのだ。

■ 今週借りた本

山田直『ヴァレリー』、松浦芳子『今よみがえる三島由紀夫』、村松剛『歴史とエロス』、入江隆則『文学の沙漠のなかで』、松本徹『三島由紀夫の時代』。村松剛ー三島由紀夫関連の本。村松剛ー三島由紀夫の共通テーマはニヒリズム。ふたりともニヒリズムの中でどうするかということ。村松は自分のニヒリズムに自覚的だった。だから、ユダや神の沈黙を論じた。でも、終生、耶蘇にはならなかった村松はどうやって自分の魂をうまく「飼いならした」のか?村松、三島と、一時期、一緒に活動していた福田信之は文鮮明に帰依した。心に隙間があったからである。あと、ユダやイエスが神からの応答をもらえなかったとして、三島の最期の「待った」そして自決した、というのは「神からの応答をもらえなかった」と同等なのか?なんなのか?

心の隙間問題。村松剛ー三島由紀夫の共通テーマはニヒリズムとなった背景には、敗戦により心の隙間が生じたことだ。この問題を村松はヨブ記の検討で、暗に、考えている。村松剛「ヨブ記と現代」(『歴史とエロス』)にある;

『ヨブ記』は紀元前五世紀ごろの作といわれる。 前五世紀 といえば、 ユダヤ人の王国が新バビロニアにほろぼされ、 市民はバビロンにつれてゆかれた苦難の時期の、 しばらくあとにあたる。 バビロニアは間もなく ほろび、 彼らは故郷に帰ることを許されたが、 久しぶりに見る故国で彼らを待っていたのは瓦礫の山と貧困と上だった。古代世界の常識では、一つの国が戦争に負けてほろびるということは、その国の神の敗北を意味したから、宗教を中心に成立していたこの民族の苦悩は、当時深刻だったろう。

これは古代ユダヤ人の国の話を出汁にして、敗戦時のほろびた大日本帝国のことを念頭に語っているにちがいない。

▼ ニヒリズム

あと、村松剛ー三島由紀夫の御両人が、おいらからみて、ニヒリストだなと思うのは、なんでも学習してそれなりに理解して利用するところ。なんでもいいんかい?と思ってしまう。なにせ、三島は晩年にはディズニーランド好きである。それで、天皇陛下万歳で切腹、何がなんだかわからない。

さらに、ふたりとも60年安保騒動が終わ頃までには、保守、ましては右派とは思われていなかった。これはふたりの階級的処世術と、おいらは、睨んでいる。すなわち、山の手のインテリというのは財産的基盤は強くない(このことは村松は自覚していて、述懐している)。特に、この二人はそうだ。一族は東大出の「エリート」といっても、所詮、高級賃金労働者である。原理的には無産者である。その子弟たちは、学校に落ちたり、職につけなかったら、ただの賃金労働者だ。60年安保騒動が終わるまでの時期は左派、戦後民主主義派が主流であり、その主流派からはじかれることは、社会的没落を意味していた。だって、このふたりの家族、江戸時代から江戸・東京でやってきたということは、徳川家から明治クーデター政府に鞍替えしたから、存続できたのだ(愚記事:"勝者に取り入り生活する敗者")。なにより、村松剛ー三島由紀夫の御両人は敗戦後の占領下、それなりに進駐軍に順応して生きている(三島は占領下の大蔵官僚、 ”コラボで金持ち東大院生:村松剛)。つまり、順応主義的、機会的、ニヒリストなのだ。何かを本気で信じると、場合によっては「殉死」しなければいけないことにもなる。こういう点から三島の最期を考えると、順応主義的、機会的、ニヒリストではなかったと証明するために自殺したのだ。「鼠の自殺」だ。入江隆則『文学の沙漠のなかで』の三島論を読んで、考えた。

▼ 井上隆史「村松剛と三島由紀夫」

井上隆史「村松剛と三島由紀夫」からのメモ:

 村松というと、一般に戦後民主主義を否定する保守系評論家というイメージが強く、確かにそれはその通りなのだが、(中略)村松の一貫した姿勢が窺われるように思う。それは、卑俗な現実を越えた価値の追求と、残酷な運命を見据えつつこれを超克する強靭さへの絶えざる憧憬と要約することが出来よう。

 結局村松には、死の光の前に生の一切の営みが無意味になるという感覚や、世俗的な現在社会において魂の重要性が見失われるという意味でのニヒリズムには理解があったが、三島を捉えて離さなかった問題、即ち文学創作の営み自体が生の否定を招いてしまうというニヒリズム、ついには生の基盤の崩壊に至る深刻なニヒリズム、死以外に超克の可能性が閉ざされたニヒリズムというものへの理解は乏しかった。

▼ 村松剛『歴史とエロス』

この本は充実している。内容、緻密。だからであろうか、古本での根が張っている。

さて、メモ。この本の中で「占領のもたらしたもの」という文章がある。進駐軍による占領で日本は解放された!という風潮への批判である。のちの江藤淳による占領批判、戦後批判を先駆けるものである。ただし、松村も言及しているように河上徹太郎による「配給された自由」という批判が第一だ。ところで、村松は占領について「解放」でもあると認識している。「アメリカの占領軍が、一面で解放軍としての役割を演じたことは、明らかな事実である。農地解放にせよ、今日われわれが享受している言論の自由にせよ、アメリカ軍による占領なしには考えられなかったことなのだ。」と書いている。そして、「アメリカの占領軍は、解放者であると同時にー当然のことだがー征服者だった。

このへんの事情は、ヨオロッパを席捲したナポレオンの軍隊の場合に、いくらか似ているかもしれない。

 この「占領のもたらしたもの」とは別の項の「ヨブ記と現代」では

 近代では神意を、世俗化した。その転換点に立つ巨大な存在が、ヘーゲルだった。彼はイエナの町をとおるナポレオンの姿を見て、「世界精神」の化身である、と思った。歴史の背後に「絶対理性」をおき、自分を「絶対者の祭司」と呼んだ彼は、カール・レーヴィットの表現を借りれば、一方の手で神の摂理をつかんでいた。

 このヘーゲルがナポレオンを見て世界精神が行くとつぶやいたという話は有名。おいらは高校生の頃、敗戦直後、マッカーサー=ナポレオン=世界精神と考えた「左翼、民主制」知識人はいなかったのか?と思った。マッカーサー⇔ナポレオンのアナロジーを少しでも考えた例を見たこともなかった。今回、村松剛が近い発想とわかった。おいらは、高校生のとき、この村松の文章に出会うべきだった。