時の皮肉さと ひとのたよりなさ 思い知った午後 それなりいいものさ (愛は風まかせ、五十嵐活晃、詞 ちあき哲也)
wikipedia より
日本敗戦直後、国際「的」共産主義者活動家の野坂参三は、中国大陸の中国共産党の拠点である延安から日本に「帰国」した。
そして、選挙で選ばれ、国会議員となって、第90議会本会議で首相の吉田茂に問い質した。なぜなら、吉田内閣は国家の交戦権を放棄したマッカーサー憲法を大日本帝国憲法に変えて、成立させようとしたからである。
国家の最も基本的責務は戦争を行うこと・あるいは行わないことを、国家の存立のために、判断・実施することである。その前提として国家の主権の行使たる戦争をする権利、交戦権は絶対必要である。
1946年6月25日
野坂参三は、国会本会議で 、こう問いただした;「戦争は侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」
これに対し、吉田首相は答えた;
「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられているようであるが、私は斯くのごときことを認めることが有害であろうと思うのであります。」
現在に至る、保護国日本の誕生である。 そして、おもしろいのは、吉田首相が国家主権を放棄することを、アカに窘(たしな)められていることだ。
さて、吉田茂は、1945年2月13日深夜、野坂参三(延安・岡野)に「会って」いる。
1945年2月13日
この日、まだ、東京はあった。
今振り返れば、墨東地区壊滅の東京大空襲の3週間前だ。
すなわち、翌日の昭和天皇への上奏を控え、近衛文麿は上奏内容をまとめた上奏文をあらかじめ作文し、前夜は 麹町 平河町の吉田茂邸に泊まった。翌朝、近衛は吉田茂邸から車で宮中参内。
もちろん、この時、吉田茂は元駐英大使ではあったが、退官した、無職の只の「おっさん」である。 ただし、スパイが貼り付いていた。 「疎開」先の大磯では、スパイの下男と油の切れた「チェーン」を「キチキチ」鳴 らして、チャリンコに初挑戦していた頃だ(愚記事:私は吉田茂のスパイだった)。
その近衛上奏文の全文はネットですぐ見れる (wiki); その「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まり、「共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候」で終わるこの近衛上奏文について、上奏前夜、吉田茂に見せ、相談し、いくばくかの修正をした。
近衛上奏文の要旨は、満州事変以来の戦争は共産主義者が望み、実行していることで、敗戦に乗じて共産革命を起こそうとしている、だから、早く米英に降伏にしよう!というもの。
近衛が恐怖する共産革命の実行予定者として名指しされているのが、当時延安にいた岡野こと野坂参三である。
(もちろん、岡野進こと野坂参三は、毛沢東とも交際があった。)
この晩、吉田茂は岳父の牧野伸顕に見せるためこの近衛上奏文を書き写した。したがって、当然、この箇所も吉田自身の筆記で書きとったに違いない;
ソ連はかくの如く欧州諸国に対し表面は、内政不干渉の立場を取るも事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引ずらんと致し居候。ソ連の此意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野を中心に日本解放連盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。 (近衛上奏文の一部)
そして、その「延安にはモスコーより来れる岡野」は、1年あまりして吉田茂の面前に登場した。 米国に降伏したはずなのに。
1年あまりして吉田茂の前に登場した延安・岡野は、国会議員として、首相吉田に、国家主権について問いただしたのだ。
こりゃどうじゃ世はさかさまになりにけり。
1945年12月17日
運命は意図を越えて; アメリカ占領軍の「共産主義者」によって自殺に追い込まれた近衛文麿
世がさかさまになったからくりは簡単だ。 近衛や吉田は米国に降伏して、占領されれば共産主義の害悪から逃れられるだろうと意図した。
現実は、全く、違った。
アメリカ占領軍には「共産主義者」が"たくさん"いたのだ。
さらには、アメリカ占領軍は、日本国内共産主義者の救済を実施した;
(関連愚記事: 1945年敗戦時、共産党出獄組の「マッカーサー元帥万歳!」について )
「延安にはモスコーより来れる岡野」と称された野坂参三を東京に迎えたのは、アメリカ占領軍だ。
そして、近衛文麿を戦犯容疑者リストに載せることになった情報をまとめたのが、ハーバート・ノーマンである。共産主義者。
本来カナダ人であるノーマンは占領軍の嘱託業務として戦犯容疑者リスト作成のためのレポートを書いた。その中で近衛文麿については下記報告した;
「かれは、弱く、動揺する、結局のところ卑劣な性格であった。」「淫蕩なくせに陰気くさく」「病的に自己中心で虚栄心が強い」「かれが一貫して仕えてきた大義は己れ自身の野心にほかならない」「自由主義者であるとか民主主義であるとか、はなはだしく信念の人であるとかいうかれの主張は空ろにまた皮肉にきこえる」「その恥しさは、趣味をてらう人間が粗野で武骨ないなか者と一室にいるところへ自分より教養のある友人が不意に入ってきた一瞬の困惑に似たようなものであろう」
『ハーバート・ノーマン全集 第2巻』、筒井清忠、『近衛文麿』より孫引き
ものすごい人格の中傷で、びっくりです。背景は、どうやら、ノーマンは近衛上奏文を知った(らしい)。
(事情はこうか? すなわち、この近衛上奏に、木戸が立ち会っている。 その内容を、のちに、すなわち敗戦後、木戸がノーマンに伝えたのか?[1])
だから、「共産主義者」のノーマンにとっては、現実の惨状をもたらした原因が共産主義だと主張する近衛に憤激したのだろう。
近衛文麿は、上奏文で、自らの墓穴を掘ったのだ。
まさか、「戦争の原因は共産主義者の策謀にある」という主張が、当の共産主義者に知れるとは考えもしなかったのだろう。
まったくもって、皮肉なことではある。 御愁傷さま。
近衛・吉田コンビの、今となってわかる まぬけ さは、アメリカ占領軍も「赤化」勢力かもしれないという現状分析、想像力が欠けていたことによる。
なお、このノーマンの行動の影には木戸幸一でありとの説これあり。
木戸の親戚の都留重人(ノーマンの友人)と陰謀したというのが工藤美代子の説(『われ巣鴨に出頭せず』)。
木戸幸一と近衛文麿は長い付き合いである。 もし、木戸幸一陰謀説が本当ならば、近衛は、旧知の友に裏切られたことになる。
■ まとめ
時の皮肉さと ひとのたよりなさ[1] 思い知った午後 それなりいいものさ
[1] 吉田茂、『回想十年』にある;
公は翌十四日予定通り参内したが、帰りに寄るからというので待っていたら、午後4時頃笑顔を見せながらやってきて、『今日は木戸内府が侍立してくれたので、思い切って申し上げることが出来た。(以下、略)』
関連愚記事より
世間の目が近衛に集まるようになった直接の原因は、彼がヴェルサイユ会議全権団の随員に選ばれたことであろう。この会議は世界の視聴を集めた晴れの舞台であり、ここに登場できたということは、それだけで有能な人物であるという証明書をもらったようなものである。
さらに、西園寺公の抜擢ということがある。政界に絶大の力を持つ西園寺が、彼を庇護し、彼を育て上げようとしているということは、それだけで彼が将来大物になるという約束手形を持っているようなものである。彼に期待の目が集まるのは、当然といっていいだろう。 (杉森久英、『近衛文麿』)
済南領事となって間もなく、第一世界大戦終結後の世界秩序を決めるパリ講和会議が開かれることになる。首席全権の西園寺公望とともに牧野[伸顕:吉田茂の妻の父親@いか註]も渡仏すると聞いた茂は興奮で胸が湧きたった。
先人たちの苦労が実を結び、ついに欧米列強と対等の立場で参加することとなった晴れの舞台である。この目で見たいという思いが募り、いてもたってもいられない。ついに思いあまって牧野に直訴し、彼の秘書官として参加することを特別に認めてもらった。(北康利、『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』)