図1
- 札幌駅前通り、その どんつき は中島公園 -
トンネルを抜けて海が見える道をそのまま走って、どんつきにあるのが三笠公園というのは、横須賀のことらしい。
おいらは、まだ行ったことがない、横須賀。三笠公園って、あの東郷平八郎の戦艦三笠がある公園なんだろう。
いつか行きたいと思ってはいるが、しばらくやめとく。なぜなら、NHKの坂の上の雲に刺激されたお調子者どもがあふれていそうだから。
さて、札幌駅の南口に降りると、駅前通りが南に伸びる。遠視力のいい人なら"すすきの"が見える。

そのまま進んいけば、どんつき。中島公園だ。 図1で信号の向こうが木々で遮られているが、かすかに見える建物は、1983年1月9日に中川一郎が首を吊って死んだ札幌パークホテルである。 昭和の成仏のために闘っている愚ブログの今日のお題は、もっと昔の話だ。終戦直後の札幌のあるケンペーくんの話。
横須賀の三笠公園には、たぶん東郷平八郎の像がそびえたっているに違いない。残念なことに札幌中島公園には、槇枝元文陸軍憲兵中尉殿の像はない。当然だが。
槇枝元文さん;
「北朝鮮」には泥棒がいない。泥棒とは富の片寄ったところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない、などの発言で有名な、ミスター・日教組と呼ばれた御仁であることは言うまでもない。
Wikipediaにまとめてある;
また、日教組委員長時代の1973年に訪朝した際、北朝鮮人民の生活について「この国は、みんなが労働者であって資本家、搾取者がいない。だから、みんながよく働き、生産をあげればあげるほど みんなの財産がふえ、みんなの生活がそれだけ豊かになる・・・この共産主義経済理論を徹底的に教育し、学習し、自覚的に労働意欲を高めている。またこのこ ろは、労働-生産-生活の体験を通して現実的にも実証されているから国民の間に疑いがない」「生活必需品はべらぼうに安い。ただも同然である。したがって 生活の不安は全くない。だからこの国には泥棒がいない。泥棒とは富の片寄ったところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいな いから警察官もいない。交通整理や怪我人のために社会安全員が街角に立っているだけ」と北朝鮮の体制を賛美する記述もしている[4]。 [wiki]
そんな、北朝鮮マンセーの槇枝さんは、日帝憲兵だったのさ。
私ごとで恐縮だが、中高生時代を絶頂期として、おいらは 日教組が大嫌いだった。嫌いに至った理由は自己分析しているが、家で親が反日教組であったとか、他人から吹き込まれたとかそういうことではない。厳密にはそういうことはありえないのだが、自分で考え至ったのであった。そして、そのことは他人には言わなかったし、言えなかった。1970年代後半1980年代前半の北海道(日本全国そうだったであろう)は、日教組を罵倒することは、"右翼"であり、"軍国主義者"であるという「空気」であった。
当時、札幌の中心街はいつでも"右翼"の街宣車が走り回っており、今から思うと二十歳まえのおにいちゃん、小学生の頃のおいらの目には怖いおにいちゃんが、走る街宣車の上にいた。しばしばおいらは、手を振った。するとほとんどの今から思うと二十歳まえのおにいちゃんは手を振り返してくれた。"右翼"の街宣車の掲げるのは北方領土返還と日教組撲滅であった。
小学生のころから日教組を呪っていたおいらであるが、もちろん、思想的なことはそんなに詳しくしらなかった。ただ、おいらが彼らをあやしいと感じたのは、彼らの"眼つき"がおかしいというものであった。そして、当時の彼らの頭目が槇枝元文であり、その"眼つき"がとんでもなくあやしいとおいらは直観したのだ。当時そういう言葉はもっていなかったが、のち得た言葉でいうと"スターリニストの目"だ。1980年代中半、つまりインターネットなぞまだない時代でも、日教組の槇枝(元)委員長は、北朝鮮マンセー!の言辞を吐いていたことは公知であった。おいらは知っていた。やっぱりね、"眼つき"がおかしいし、当然だろう、と思った。でも、何かもうひとつ奥があるのではないかと睨んでいた。そう睨んだ背景は、戦後の日教組というのは元軍国教師どもが起こした運動であり組織だからだ。
果たして、ビンゴ!の事実がわかった。1989年に刊行された田原総一郎・栗本慎一郎、『闘論 二千年の埋葬』にあった;
田原: ぼくは前の日教組委員長の槇枝元文さんにインタビューしたことがあるんです。あの人戦争中、憲兵だった。
栗本: あ、そうですか。
田原: 憲兵中尉ですよ。それで彼に、あなたの戦後のスタートは何ですかと聞いたら、アメリカです、アメリカに感動したっていうんです。
戦後アメリカが進駐してきた。自分は憲兵だから、当然極刑を受けると思った。そうしたら、自分と同じ歳ぐらいの、若い中尉かなんかがやってきてね、お互い国家のためにやったことだから、あんたに罪はないですよ、ものすごく紳士的に扱ってくれた。あ、デモクラシーというのはこれだなと彼は思ったそうです。
そのあなたが、どうして反米になり、社会党になったんですか、といったら、それはべつにたいしたことじゃなくて、日教組をつくったときに、自民党は相手にしてくれなくて、いや敵視して、社会党が相手にしてくれたっていうだけの違いなんだって(笑い)。そこには原爆も何もない。これはやっぱり、槇枝さんがおかしいんじゃなくて、日本人のパターンなのね。
この槇枝さんが日帝憲兵だったと知ったときの衝撃は忘れられない。ビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!と脳内で響き渡った。

槇枝元文さん@日帝憲兵⇒日教組委員長⇒総評議長⇒北朝鮮から叙勲@@眼つきおかしい@@@息子の名前が「一臣(かずおみ)」。⇒赤黒さ、噴出!
■そして、中島公園。
この話を最初に知ったときはわからなかったが、槇枝さんが憲兵をしていたのは札幌であった、と最近知る。
おいらが生まれる20年あまり前のことだ。当時8歳や5歳だったおいらのとぉちゃん、かぁちゃんは、"兵隊さんありがとう!"と、けなげに手を振っていたのかもしれない。ちゃんと、憲兵中尉殿は手を振り返してくれたのであろうか?
戦前の札幌で、憲兵隊を配下に置くはずの北部軍司令部が中島公園にあったらしい(⇒札幌と終戦)。そして、敗戦後米国占領軍は中島公園に進駐する。
札幌に占領軍が進駐するのは、10月になってからだ。
昭和二十年十月四日、まず米第八軍九軍団の六千名がバーネル少将の指揮下に函館港に入港、つづいて北海道進駐米軍最高司令官ライダー少将および七七師団長ブルース少将が部下八千名をしたがえて小樽港へ向かった。
翌五日、小樽は薄曇り、札幌は曇りのち晴れ、高くやがて晴れあがった秋日和。
(中略)
小樽から札幌へは海岸ずたいに三十七キロ、午前七時すぎには早くも先発のトラック四台が札幌へのりこみ、日本側の先導で、中島公園内の元北部軍司令部あとの建物に入った。つづく車両の進駐軍は手に手に自動小銃をにぎりしめ、鉄カブトをにぶく光らせながら、その前日市役所が労務者を動員して掃き清めた北一条のアスファルトの道路を通過してゆく。 (奥田二郎、『北海道米軍太平記』)
なので、上記の田原総一郎のインタビューで槇枝さんが答えた米軍将校との邂逅は秋の札幌、昭和20年のことである。
日帝憲兵の槇枝元文陸軍中尉が札幌のどこで占領軍から武装解除を受けたかは、どうやら中島公園ではないらしい。おそらく、月寒の北部軍管区司令部なのであろう。
占領軍に殺されると思ったが、やさしく赦され感激する元文さん。 憲兵の所業は無罪放免。
そして、戦後は学校教師。日教組幹部として、北朝鮮礼讃、長年に渡る日朝友好親善への貢献により、北朝鮮から国際親善賞第1級の勲章を授与と、その後の拉致事件看過も「許されている」。
すごい無責任男だ。だれかと、無責任男日本一を争っていたつもりなのだろうか? 中尉の大元帥さまへの下剋上!?
戦争中は「日の丸・君が代」を蔑ろにするものを摘発し、戦後は「日の丸・君が代」を蔑ろにすることを以って正義とすることで、昭和の御代を、身過ぎ世過ぎをしてきたのだ。どうか成仏せず、地獄に落ちてほしい。
でも、上記インタビューの「なぜ反米に?」への答えはあやふやだ。赦してもらって殺されなくてよかったというのは事実の半面なのではないだろうか?赦すということこそ実は最も深い意味での侮辱であると無意識に感じているのではないだろうか?
あと、この後槇枝さんは故郷の岡山に帰るはずである。空襲を受けなかった札幌は実は戦禍を免れたのどかな街であった。岡山への帰郷の途上、壊滅した都市が連続する東海道、山陽道を通ったのであろう。そこで、初めて戦禍を目の当たりにしたのではないだろうか?敵の悪行を目の当たりする自分と、その敵に赦してもらっておめおめと生きている元憲兵中尉の自分。アタマおかしくなって当然だ。
■軍人と教師
でも、軍人、憲兵が教師になるって、おいらは、別に違和感はない。その体質って似てるだろう。
未成熟な近代社会では、純粋まっすぐで、余裕のない"ビンボー人"がなりやすい職業だ。
(例えば、従業員を何人も使う船大工の息子である、あるプチ・ブル子弟は言っている;「わたしは、よくよく食うに困らないかぎり教師になるまいと思っている」[1])
軍人も教師も両方とも、商売とお金を憎悪している。だから、北朝鮮を好きになる。そして、英雄崇拝もその共通する属性だ。
乱れた世相を憂えている。
今でいうと、ホリエモンとか大嫌い。ケンペーくんとなって斬りまくるのだ。

[1] 吉本隆明、「現代学生論―精神の闇屋の特権を」、現在、『擬制の終焉』に収録。