いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

東京散歩:敗戦国の混血少女・ノーマ・フィールドを探して、目黒区、碑文谷界隈

2024年12月08日 07時34分25秒 | 東京・横浜

ノーマ・フィールドという人がいる。wikipediaの冒頭には、「アメリカ合衆国の日本研究者、シカゴ大学名誉教授」とある。女性だ。存命。1947年/昭和22年、東京生まれ。父親が進駐軍兵士だ。生まれてから一度も日本人になったことはない。ずっと、アメリカ合衆国人だ。

主な著作は『天皇の逝く国で』(1994)、『祖母のくに』(2000)、『へんな子じゃないもん』(2006)。のちに、『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』(2006)、『ノーマ・フィールドは語る-戦後・文学・希望』(2010)では、「敗戦国の混血少女」が碑文谷(東京都目黒区)の母方の実家に元軍人で米軍属となった父親と暮らし、スクールバスでワシントンハイツ内の幼稚園、学校に通ったことなど詳細に語られている。さらに、ノーマ・フィールドの母親と父親の進駐軍兵士とのなれ初めも語られてる。

代表作は、やはり、『天皇の逝く国で』(1994)。現在出版元品切れ、中古価格2,500円ほど。内容は、昭和終焉の頃、「体制」にはなじまない3人、すなわち、「沖縄国体で日の丸を焼いた知花昌一、殉職自衛官の夫の靖国神社合祀に反対した中谷康子、天皇の戦争責任を明言して狙撃された長崎市長の本島等版元web site)」への面会、交流、インタビューをまとめた本。元は英語で書かれた米国人向けの昭和天皇崩御の頃の日本紹介。もちろん、ただの日本紹介ではなく、「体制」になじまず、抵抗し、さらにはくっきりとした個人を明徴化させ、「闘う」日本人だ。もちろん、昭和天皇への共感など微塵もない。

この『天皇の逝く国で』でノーマ・フィールドは自分のことは説明している。

私の母は(中略)比較的恵まれた、しかし結果的には不運な女。スコットランド系アメリカ人の父と横浜のアメリカ領事館で結婚したのは、一九四六年、まだ食料も物資も乏しく、闇市が盛んだったころのことである。かくて私は東京で両親、母方の祖父母、結婚まえの叔母たち、それに何匹かの猫にかこまれて、晴れ着にはオーガンジーのワンピースを与えられて育つことになった。敗戦国の混血少女にとって、それはまさしくイェイツの言う「しきたりと礼儀」の生活だった。

1964年、東京オリンピックの選手村が建てられたのは、ワシントン・ハイツという名のそういう幻想の国[ネヴァー・ネヴァー・ランド]の跡地である。私はそこの小学校に六年間通った。(中略)はじめての本格的なアメリカ体験は、ワシントン・ハイツの学校に入学手続きをした時から始まった。

ただし、『祖母のくに』、『へんな子じゃないもん』には碑文谷のことは明示されず、ワシントンハイツという言葉さえ出てこない。しかし、わかる人が読めば、ノーマ・フィールドはワシントンハイツの学校に通っていたとわかる。そして、わかる人が読めば、ノーマ・フィールドは碑文谷に住んでいたとわかる。

おいらは、『祖母のくに』、『へんな子じゃないもん』を読んで、ノーマ・フィールドはワシントンハイツの学校に通っていたと気づいた。「スクール・バスがわたしを運んでいったアメリカ軍基地は、三〇年まえのオリンピックで消えていまはない」(『へんな子』p100)とある [A]。『へんな子じゃないもん』は本来英語で書かれたせいか日本事情を説明する固有名詞は書かれていない。固有名詞を書いても英語人にはわからないので、意味がないと考えたのか、あるいは、個人情報の保護のためか。したがって、『へんな子じゃないもん』では、彼女がどこに住んで、どこからワシントンハイツの学校に通っていたのか?、その地名は書かれていない。しかし、状況的に示唆される文言として「品川港で明け方に船が鳴らす低い汽笛」とある。品川区か?でも、決定的な文言が見つかった。<おやど>ー住まいに指小辞の「お」をつけたもので、いかにも雀が寄りつきそうなところという意味の<雀のおやど>という言い方もある。祖母の家の近くの竹藪に囲まれた古い農家は、市の公園になってこの名で呼ばれている。これでわかった。これは、目黒区のすずめのお宿緑地公園のことだ。

▼ 今年(2024年)春に横浜を去ることになった。都内に行き、目黒区碑文谷を散歩した。
その散歩記録


1.東急東横線都立大学、2.すずめのお宿緑地公園、3.碑文谷八幡宮、4.サレジオ教会、5.円融寺、碑文谷1丁目はノーマ・フィールドが住んでいた地区(らしい)


東京における碑文谷1丁目(赤線で囲まれた5角形)

■ 1.東急東横線都立大学 ⇒ 2.すずめのお宿緑地公園


東急東横線、都立大学駅

■ 2.すずめのお宿緑地公園


すずめのお宿緑地公園(目黒区碑文谷三丁目11番22号)

・<ひるさがり>ー正午を過ぎたころの、昼のうちでももっとも昼の気分の濃厚な時間。<おやど>ー住まいに指小辞の「お」をつけたもので、いかにも雀が寄りつきそうなところという意味の<雀のおやど>という言い方もある。祖母の家の近くの竹藪に囲まれた古い農家は、市の公園になってこの名で呼ばれている。 「大人になっての帰省」 ノーマ・フィールド、『へんな子じゃないもん』(2006)

すずめのお宿緑地公園の由来
この付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群れをなして帰ってくることからいつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。
この土地の所有者角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしておりましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。
その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として、利用することができることとなったものです。
ここに「すずめのお宿緑地公園」の由来を記して、故人のご遺志に深い感謝をささげます。
昭和五十六年四月吉日 目黒区長 塚本俊雄  すずめのお宿緑地公園の由来

■ ⇒ 碑文谷八幡宮

たとえば、スクールバスを降りたときに、同じくらいの男の子から「アメリカ人!」って小石を投げられた記憶があります。あの八幡さまのところで。鳥居のそばでスクールバスが停まったでしょう? (ノーマ・フィールフォの回想、『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』p136)

■ ⇒ サレジオ教会

 でも、ウチのそばはつい最近まで田圃や畑があったじゃない。有名人。松田聖子が結婚式場として選んだサレジオ教会のあたり。 『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』p137

■ ⇒ 5.円融寺

近所のお寺が斎場を建てなおしている。たぶん、いちどきに何組もの葬式ができるようになるのだろう。忘れずに駐車スペースを十分残しておくだろうか。
「葬儀の道具立て III 移動式トイレと俳句[ポートレット ポエトリー] 」 (『へんな子じゃないもん』)

▲ 以上、散歩報告を終わる。

**以下、ノーマ・フィールドの著作から彼女の人生の周辺についての抜き書き**

■ 「パンパン」について

ノーマ・フィールド、『へんな子じゃないもん』(2006)で一番目を引いたのが「パンパン」問題。むしろ、今の日本で「パンパン」[#]は通じないだろう。つまりは、今の日本で下記のような文章を読んでも通じないのだ;

あれほど世界に喧伝された日本人の愛国意識が戦後において急速に表面から消えうせ、近隣の東亜諸民族があふれるような民族的情熱を奔騰させつつあるとき日本国民は逆にその無気力なパンパン根性やむきだしのエゴイズムの追求によって急進陣営と道学的保守主義者の双方を落胆させた事態の秘密はすでに戦前のナショナリズムの構造のうちに根ざしていたのである。([強調おいら] 五 日本におけるナショナリズム、第一部 現代日本政治の精神状況、『現代政治の思想と行動』、丸山眞男、1964年、初出は1951年。)

[#] パンパンとは誰なのか―キャッチという占領期の性暴力とGIとの親密性 (茶園 敏美)  (Amazon)

さて、ノーマ・フィールドの話に戻って、「パンパン」が出てくる。それも実の母が実の叔母にいわれるのだ。

確かにオバたちは、母や祖母と違って、活発に自己表現する。花騒動はほんの一例だ。母親が倒れて、今まで点検されなかった歴史が紛失するかのようだ。なぜ今、このことでこれほど怒られるのか、 当惑することも多かった。木に際した家庭にはよくあることだろう。ホームヘルパーに、姉はパンパンだったのよ、と言ったらしい。GI だった私の父と結婚したからだろう。だが空振りだった。叔母が売春婦の意味で使ったその言葉は、一回りほど若いヘルパーさんには通じなかった。

  その時の母の態度はあっぱれだった(ヘルパーさんは無論 この話を母に告げたのだ)。あの当時、 自分自身と家族を養うためには何でもやった女の人たちを見下す なんてしたくない、と言った。けれどと彼女は付け加えずにはいられなかったが、それを咎める資格は私にはない。 「音と身振り」 『へんな子じゃないもん』p139

これはすごい。事実は小説より奇なり。有吉佐和子に『非色』という小説がある(関連愚記事、あらすじ&感想:読書メーター)。進駐軍兵士と結婚して子を設け、渡米する女性の話。進駐軍の特権を利用して物資の調達など利便を家族・兄弟にもたらした主人公は、結局、家族に冷遇される。そういう小説なのに、おいらの記憶では、「パンパン」という言葉は出てこない。もちろん、主人公は売春婦ではないので、パンパンが出てこなくて当然なのだが。

ノーマ・フィールドの母は三姉妹の長女。ノーマ・フィールドにとって実の叔母ふたりは彼女の著作でしばしば言及される。長崎の叔母と碑文谷に残った叔母。実の姉を「パンパン」呼ばわりしたのは、碑文谷に残った叔母だ。

■ ノーマ・フィールドの実家、春美栄光堂(ブロマイド屋)

 ノーマ・フィールドの母は三姉妹の実家は、春美栄光堂(google)というブロマイド屋。それが碑文谷にあった。2000年頃までは続いていたらしい。

最初の著作『天皇の逝く国で』(1994)では、「真珠湾ののち、祖父母はアメリカやヨーロッパの映画スターの写真を売ることができなくなった」と言及されている。実家が洋画のスターの写真を売る商売をしていたことが紹介されている。ただし、具体的なことは何も説明されていない。のち、『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』(2006)では詳しく紹介されている。現在、ネット検索すると下記情報が得られる;


出典:駿河屋 web site



出典、
Amazon: 1941年発行 春美栄光堂 スターカレンダー 戦前 ハリウッド

戦前から、screen pictorial (google)という雑誌を刊行していたらしい。日米開戦の年まで、洋画女優のカレンダーを売っていたのだ。この経営者がノーマ・フィールドの母の親である。

スクリーン・ピクトリアル (天牛書店

■ その実父について、あるいは、ルサンチマン、はたまた、学歴、出身集団

ノーマ・フィールドは実父についていくばくか語っているが、否定的である。かわいそうな、お父さん。むしろ、ノーマ・フィールドが書いて報告しているのは義父(夫の実父)であり、その文章の題は「嫁ならざる嫁」である。ウヨのおいらでさえ、冷や冷やする。ポリコレ的に大丈夫なんだろうか?義父と嫁って家父長的なものを前提としていないか。なお、義父の名はジョージ・G・フィールドと明記されている。つまり、ノーマ・フィールドの姓は夫のものなのだ。日本の旧家のステロタイプでは、お嫁さんが舅さんに「野原」家の人間だってこと忘れないで下さいね!、といわれるのだ。その「嫁」だ。なお、実父の姓はノーマ・フィールドの著作で一切明らかにされていない。ノーマ・フィールドは「夫婦別姓」ではないのだ。

さて、ノーマ・フィールドの実父はスコットランド系米国人でカリフォルニア出身であると彼女から報告されている。そして、低学歴でルサンチマンの人だと娘から断定される。WW2直後のトランプ支持者!。

『平和の種をはこぶ風になれ』でノーマ・フィールドと母、美登里は語っている;

美登里 あなたのお父さんなんか、けっこうね、知識的に下のほうよね。

ノーマ だって、高校出てないでしょう。

美登里 わたしには高校、出たっていってたけれど。

『ハイスクール・セルフ・トートゥ』

美登里 わたしは高校を出たと思っていた(笑)。でも、そういう本があったっていうことは。

ノーマ そう。わたしはずっと軽蔑していた(笑)。

さらに、別途;

ノーマ そのスコットランド人の移民の祖母とは数か月一緒に暮らすことになるわけです。はじめてアメリカに行ったとき。確かに実直でいい人でしたが、もう偏見の塊なんです。貧しい生活をしていてー祖父はとっくに亡くなっていましたから、彼女は年金暮らしだったと思います。その地域は、南カリフォルニア大学の付近ですが、その地域に残っている白人は、彼女と彼女の家の向かいの小さな食料品をやっているジェリーっていう男性、その二人だけでした。まわりのアフリカ系アメリカ人の悪口ばっかりいっていました。

ノーマ・フィールドが直接語る実父の記憶:父はルサンチマンの塊のような人物

 アメリカ人としても背の高い父は、(中略)貧しいスコットランド移民の子で、高校も出たかどうか知りません。アメリカ社会の底辺で生きることを強いられた男性が、軍隊に入り、日本に来て、日本人女性と結婚する。

 父はルサンチマンの塊のような人物で、反共、核実験推進、という感じでした。(中略)父も父で、薄幸な人生だったと想像がつきます。 (『ノーマ・フィールドは語る 戦後・文学・希望』2010)

■ ノーマ・フィールドの両親の馴れ初め、あるいは、家父長制の賜物、はたまた、複製芸術時代の国際結婚

 ノーマ・フィールドの父親である米兵と日本人であったノーマ・フィールドの母親がどういういきさつで結婚することになったのか?それはノーマ・フィールドの母親の父親(以下、祖父)が進駐軍の米兵を家に連れて来たのだという。その祖父は前述の通り洋画俳優のブロマイド販売を行っていて、のち、80歳過ぎて、叙勲。理由は、「六十年間、日本における西洋映画振興に尽くした」。

 ノーマ・フィールドの両親が出会った場所は都内ではなく、座間だ。祖父の実家が座間であり、終戦直後は疎開していた。今のキャンプ・座間、当時の陸軍士官学校の近所だ。米兵である父はキャンプ・座間所属だった。つまりは、戦前は洋画の俳優、女優のブロマイドを刷って売っていた(複製芸術!)祖父が本物の白人に出会い、家に連れて来たのだ。当時、上述の本当の「パンパン」さんたちは家父長制のもと家から追い出されていたとされる時代に、ブロマイド屋の祖父は家父長制のもと進駐軍のスコットランド系アメリカ人と娘を結婚させたのだ。


J Koayama Land 様より

 ノーマ・フィールドの父親は1952年頃ひとりで帰国する。ノーマ・フィールドは両親の結婚について、母親は結婚に「失敗」したと認識し、結果的には不幸な女と書いている[B]。上記のいきさつは、当初から、第一作『天皇の逝く国で』で書いている(本記事冒頭での引用を繰り返す);

 そもそも私の父をほかのGIといっしょに、英語のできる娘たちに会わせようと言って家に連れてきたのは、祖父だった。私は沖縄の高良勉の詩集を読んだことがある。黒い肌・白い肌のGIを待ちつつ海をみつめる。腕の付け根まであらわな島の娘たち*。私の母は島の娘ではなかった。比較的恵まれた、しかし結果的には不幸な女。スコットランド系アメリカ人の父と横浜のアメリカ領事館で結婚したのは、一九四六年、まだ食糧も物資も乏しく、闇市が盛んだったころのことである。かくて私は東京で両親、母方の祖父母、結婚まえの叔母たち、それに何匹かの猫にかこまれて、晴れ着にはオーガンジーのワンピースを与えられて育つことになった。敗戦国の混血少女にとって、それはまさしくイェイツの言う「しきたりと礼儀**」の生活だった。(『天皇の逝く国で』)

 
*  高良勉「夢の黙示」、詩集『岬』(大阪、海風社、一九八四年)十八ー十九頁。
** イェイツの詩「わが娘への祈り」より。「・・・・しきたりと礼儀が守られなければ、無垢と美はどうして生まれようか」(訳註)

■ 天皇、庇護者、あるいは、<世界>/ 御代の崩壊

 ノーマ・フィールドは『天皇の逝く国で』では、昭和天皇ではなく、沖縄・長崎・山口の抵抗者たちを描き、『祖母のくに』、『へんな子じゃないもん』では混血児 [C]である自分を庇護してくれた祖母を語る。さて、上記抵抗者たちは天皇を中心とする国家がもたらす「悪」に抵抗する。その「悪」の源の天皇の死の重大さは、ノーマの祖母の「死」で明らかとなる。すなわち、天皇が日本にいる必要性、重要性、あるいは、<(疑似)超越的中心>を、ノーマ・フィールドは祖母が倒れたこと(社会的「死」)で知る。その「偉大な中心」が失われた時出来する「地獄」が報告されている。

(三姉妹は)絆が強いだけに、祖母が倒れてからはみんな対立するようになってしまうんです。さきほど触れましたが、祖母が一家の中心でした。(中略)ともかく、中心がなくなることによって、姉妹それぞれが置かれた社会的位置の経済的、精神的緊張感が一気に露呈してしまった感があります。姉妹ですから、幼児期に遡る感情のもつれもあるでしょう。子どもの頃かわいがってもらって、私の人格形成に大きく関わった叔母たちとの関係が切れてしまったことは残念としかいいようがありません。(『ノーマ・フィールドは語る』)

これはノーマ・フィールド自身気づいていないことではないか。ノーマ・フィールドの実家では、祖母が「ミクロの<(疑似)超越的中心>だったのだ。「天皇が逝く」とは耳にさわる言葉遣いではあるが、これをちゃんと天皇崩御と言えば、ノーマ・フィールドが祖母が倒れた時に受けた衝撃こそが崩御という事態であったろう。

■ 天皇、庇護者/激励者、あるいは、混血孤児、そして、エリザベス・サンダース・ホーム


エリザベス・サンダース・ホームを訪れる 昭和天皇・皇后両陛下(1955年10月30日)

沖縄・長崎・山口の抵抗者が抗う日本の「中心」である昭和天皇は、混血孤児を「励ました」ことがある。この訪問が、五か条の御誓文にある「天下億兆一人も其処を得ざる時は、 皆朕が罪なれば、今日の事、朕自ら 骨身を労し」の一環であるかは、わからない。おそらく、エリザベス・サンダース・ホームの少なからずの混血児はこの後日本で所を得なかったのであろう。それでも、少なくとも昭和天皇は混血孤児の「庇護者」(澤田美喜)を励ました。なお、平成の御代でもここにすめろぎさんは来るらしい(ソース)[D]。

さて、ノーマ・フィールドは、エリザベス・サンダース・ホームにはっきりと言及している;

エリザベス・サンダースホームという施設がありましたね、大磯に。沢田美喜さんが設立した、「進駐軍」男性と日本人女性の間に生まれて孤児となった子を収容するものでした。沖縄を避けていたもう一つの理由は、エリザベス。サンダースホームの話を母から随分聞かされていたこともあります。「言うことを聞かない」と、そこに送り出されてしまうのが怖かったのと、自分がそこにいる子たちにかなり似ているような気がして、必死に区別をつけようとしていました。きっと、沖縄に行ったら、そういう子にたくさん出会わなければならないんだろう、と潜在的に思っていたんでしょう。ワシントンハイツのヨヨギ・スクールやアメリカン・スクール在学中、私のような子は意外と少なかったねす。(『ノーマ・フィールドは語る』)

■ 古典を失わない敗戦国の混血少女・ノーマ・フィールド

ノーマ・フィールドは自作『天皇の逝く国で』について、「紀行文、日本では長い伝統のある紀行文の形式を借りてもいます」と云っている(『ノーマ・フィールドは語る』)。そもそもノーマ・フィールドは「源氏物語」の研究者らしい。「源氏物語」に耽ると四姉妹の物語を書きたくなるのかわからないが、自分を庇護した祖母とその娘たち3人、すなわちノーマ・フィールドの母とその妹たち二人の計3人姉妹について書いている。三姉妹であり四姉妹ではないのだが、ノーマ・フィールドが生まれ、育った頃は、その三姉妹と同居していた。祖母から見れば「四姉妹」みたいなものだ。ノーマ・フィールドの主要3作から読み取れる「四姉妹」の話は興味深い。特に長崎の叔母とその夫(おそらく東大出の三菱重工のエンジニア、子供の頃東京大空襲で近所の死亡者をたくさん荼毘にふす)の話、そして、上記に書いたノーマ・フィールドの母を「パンパン」よばわりした妹。それでも、読者は、ノーマ・フィールドの「四姉妹」の物語は安心して読めるだろう。なぜなら、「四姉妹」は下痢に悩まされることはないのだから。


[A] 四〇年このかたわたしにお馴染みのバス路線がある。最初はそこをアメリカ軍スクール・バスで通っていた。(中略)いまではその路線は東京の若ものに人気のある盛り場の一つを通る。スクール・バスがわたしを運んでいったアメリカ軍基地は、三〇年まえのオリンピックで消えていまはない。けばけばしい街並みが、バス会社の路線沿いに不規則にひろがっている。「バス・ツアー」(『へんな子じゃないもん』)

[B] ノーマ・フィールドの母(美登里)の夫(ロバート)への感想

やっぱり、夫の性格ですね。いい人だと思っていたのに、結婚してみると、なかなか口うるさいし、それから、日本人の社会にとけ込むとか、日本の食べ物を食べることもないから、いつもご飯のときには彼のために別のものをつくって、そういうことをやっていたのです。すごく偏狭で、ケチなところがあって。あ、両親がスコットランドの生まれだからスコッチなんだって(笑)、父ともよく話していたんです。(『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』)

アメリカはわたしにとって異国ですから、夫が、理解があって優しい人ならついて行ったかもしれませんが、「この人と一緒じゃとても行けない」と思って、それでわたし、「行かない」って。思いやりがない人間と感じていたんです。(同上)

[C] 混血児の中でもアメリカ占領軍兵士と地元女性の間の子を日本では「GIベイビー」(wikipedia)と呼称するらしい。米国では war baby というらしい。

自分で行きたくて行ったカリフォルニアの大学で、ある日そこを見学したいという父娘を案内していたとき、その父親は言ったものだ。「あのウォー・ベイビーというやつか!」(『天皇の逝く国で』)

[D]  社会福祉法人 エリザベス・サンダース・ホームの web siteで下記が記されている。「平成天皇」は不適切な表現えはないだろうか?

2002年11月6日 平成天皇・皇后両陛下ご来園

東京散歩:荻窪駅 ⇒荻外荘・近衛文麿邸 ⇒浜田山駅

2024年03月12日 06時07分52秒 | 東京・横浜

3月末で西の街に引越することになり、東京で行ったことのない場所にいくことにした。荻外荘(近衛文麿邸)は行ったことがなかった。現在、工事中であることは知っていたが、工事中でもいいので見に行くことにした。その後、南下して浜田山に抜けた。浜田山も行ったことがなかった。別に名所があるわけではないのだが。ただし、住宅街の鑑賞をした。郊外の住宅街と違って大型ショッピングモールがないような地域だ。やはり、閑静だった。

■ 1.荻窪駅

■ ⇒ 荻外荘

■ 荻外荘

荻窪駅南側の住宅街にある荻外荘は、内閣総理大臣を3度務めた政治家 近衞文麿が、昭和12年(1937年)の第一次内閣期から20年(1945年)12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる会議を数多く行ったところです。このような歴史を持つことから、日本政治史上重要な場所であるとして、平成28年(2016年)3月に国の史跡に指定されました。
杉並区は、近衞らが重要な会談を行い政治の表舞台となった時代の姿を、創建の地 荻窪によみがえらせ、令和6年(2024年)12月に区立公園として公開する「荻外荘復原・整備プロジェクト」を進めています。

南側の芝生広場は、これまで暫定的に開放してきましたが、荻外荘公園の整備工事に着手にあたり、令和4年(2022年)7月1日(金曜日)から閉鎖します。芝生広場は、令和6年(2024年)12月から再びご利用いただける予定です。荻外荘の復原整備に、どうぞご期待ください。杉並区 web site

 


工事中でないときの荻外荘

■ ⇒ 善福寺川緑地 ⇒ 浜田山


善福寺川

 

 

新築戸建て、1億円。


むさしの森珈琲 浜田山店 東京都杉並区浜田山3丁目28−16

■ ⇒ 京王浜田山駅


KALDIの独立店舗をみた

■ まとめ 通過街

杉並区 荻窪 成田西 浜田山

 


東京散歩:新宿区中井・林芙美子記念館 ⇒ JR東中井駅

2024年03月10日 11時01分13秒 | 東京・横浜

林芙美子記念館に行った。3回目。1回目は(2015年4月)2回目は(2015年10月)。「私の唯一の理想は、女成金になりたいと云う事だった。(林芙美子、『放浪記』(新版))」とデビュー作=大出世作で云った林芙美子が現実に「成金」となって建てた豪邸だ。もっとも、10年後、47歳で死ぬ処となる。

愚ブログの林芙美子関連記事は;
いくさのあとさき; 軍事冒険主義時代の冒険家: 林芙美子
ある戦争画: 藤田嗣治の肖像素描画;「戦場の女」@最初
林芙美子邸再訪; 華のいのちはしぶとくて 上(2回目は(2015年10月))と同じ

林芙美子記念館とは

この建物は『放浪記』『浮雲』などの代表作で知られる作家・林芙美子が、昭和16年(1941)8月から昭和26年(1951)6月28日にその生涯を閉じるまで住んでいた家です。
大正11年(1922)に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、昭和5年(1930)に落合の地に移り住み、昭和14年(1939)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。
芙美子は新居の建設のため、建築について勉強をし、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行ったり、材木を見に行くなど、思い入れは格別でした。山口文象設計によるこの家は、数寄屋造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっています。新宿区 web site

▼ アトリエ

障子の窓が嵌っているが、ここは採光用のガラス窓。天井から続く大きな採光窓と連合してアトリエが明るくなる仕組み。


外からアトリエの採光の窓を見る

▼ 石蔵

■ 林芙美子記念館(図中2) ⇒ 中井駅(図中1) ⇒ JR東中野駅(図中3)

 林芙美子記念館は段丘崖にあることはわかる。

■ 林芙美子記念館(図中2) ⇒ 中井駅(図中1)

■ 

■ 中井駅(図中1) ⇒ JR東中野駅(図中3)


上り坂になっている。


JR東中野駅


東京散歩:湯島大聖堂 大成殿内部

2024年03月07日 06時46分50秒 | 東京・横浜

2/25(土)に湯島聖堂に行った。愚ブログで初めて湯島聖堂が出てくるのは2005年(愚記事2005年)。このとき、書いている。「関東に来て初めて東京にきた時、なぜかしら湯島聖堂を選んだ」と。おいらが関東に来たのは1997年で、つくば市に来た。東京に遊びに来たのは少し時間があって、1-3年後くらい。そのとき、湯島聖堂に行った。その頃、東京の土地勘がなく、池袋、新宿、渋谷の位置関係も体感していなかった。その後、何度か湯島聖堂に来た。今日、過去ブログ記事を検索するといくつか見つかった(後述)。そして、何度か訪れたのに大成殿の中に入ったことはなかったが、今回入れた。ただし、中に入れない頃、大成殿の内部の研究の展示があった(後述)。その研究の内部を実際に今回見たのだ。なお、おいらは、儒教や孔子さまについて何も知らない。

10-15年前と違うことは人が多くなり、華人さまが目立つことだ。


閉まっているときの大成殿(2019年12月


2016年 開いてるけど、中には入れなかった。

▼ ありし日の湯島聖堂


華人さまが目立つ


2016年


2006年


2005年

湯島聖堂の敷地に入るのは生まれて2度目。8年前関東に来て初めて東京にきた時、なぜかしら湯島聖堂を選んだ。そうだその頃は、白石の伝記を読んでいたのだ。

今日、いた人は2人。ひとりは毛唐さん。旅行なのだろう。もうひとりは上記写真の堂の右の回廊で本を読んでいた中年・初老男性。

▼ 他場所の孔子廟


足利学校の孔子廟(2014年


北京 2005年


北京 2013年

 

 


横浜散歩:石川町駅⇒ 山手イタリア山庭園⇒ 横浜マリンタワー⇒ 馬車道⇒ 野毛山公園 ⇒稲荷台小学校

2024年02月23日 17時34分30秒 | 東京・横浜

横浜を去ることになった。横浜でまだ行っていない場所は多い。横浜有名地基本編[1]でも行けなかった場所として、横浜マリンタワーがある。行ったことがなかった。さらに、山手イタリア山庭園の洋館にも入ったことがなかったので、行くことにした。歴史探訪としてホテルグランドの玄関の写真を撮りたかった。一方、有名ではないし、行っても痕跡はないであろう史跡である「稲荷台小学校」=昭和天皇の戦後巡幸初日の訪問地に行くことにした。したがって、その間を歩いた。

[1] 横浜散歩;基本編、中華街、山下公園、大桟橋、みなとみらい地区

1.JR石川町駅、2.山手イタリア山公園、3.山手商店街、4.横浜マリンタワー、5.馬車道、6.野毛町、7.野毛山公園、8.稲荷台小学校

■ 1.JR石川町駅


JR石川町駅のホームから外交官の家が見える。

■ ⇒ 2.山手イタリア山公園


Google Map

明治13(1880)年から明治19(1886)年まで、イタリア領事館がおかれたことから「イタリア山」と呼ばれています。イタリアで多く見られる庭園様式を模し、水や花壇を幾何学的に配したデザインの公園で、整形花壇では四季折々の花、植栽を見ることができます。また、テラスからは横浜ベイブリッジやみなとみらい21を一望することができ、写真や絵画のモチーフとして人々に親しまれています。
フランス瓦の屋根の「ブラフ18番館」は平成5(1993)年に、とんがり屋根の「外交官の家」は平成9(1997)年に、移築復元されました。

山手イタリア山公園 web site

▶ ブラフ18番館

▶ 外交官の家

ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、明治43(1910)年に東京渋谷の南平台に建てられました。 設計者はアメリカ人で立教学校の教師として来日、その後建築家として活躍したJ.M.ガーディナーです。
建物は木造2階建てで塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残しています。1階は食堂や大小の客間など重厚な部屋が、2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいます。これらの部屋の家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、19世紀イギリスで展開された美術工芸の改革運動アーツ・アンド・クラフツのアメリカにおける影響も見られます。外交官の家

内田 定槌(うちだ さだつち):豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省試補となった。翌年、上海副領事となり、漢城領事、ニューヨーク領事、同総領事を歴任した。1906年(明治39年)にブラジル弁理公使となり、翌年に特命全権公使となった[3]。その後、スウェーデン公使に就任し、デンマーク公使、ノルウェー公使も兼ねた。1920年(大正9年)、トルコに派遣され、のち大使に昇格した。wikipedia

■ ⇒ 台地を降りて、山手

⇒ 横浜ウォッチャー: 石川町「かき氷店 小桃」パフェのようなかき氷が大人気!国産イチゴにこだわる「小桃ちゃん」が絶品

▼ 大丸谷震災地蔵尊


Google Map

▼ 元町ショッピングストリート

■ ⇒ 横浜マリンタワー


中村川

■ 横浜マリンタワー

展望台入場料、1,100円。

横浜マリンタワー 公式 web site

横浜マリンタワー(よこはまマリンタワー)は、神奈川県横浜市中区山下町にある、横浜開港100周年記念事業として建設されたタワー。横浜のシンボルのひとつとなっている。

旧横浜居留地(山下居留地)の東南、横浜港フランス波止場跡(山下公園中央部)とフランス橋の間に位置する。かつては灯台としても機能していた。1961年1月15日開館。wikipedia


瑞穂埠頭(米陸軍管轄埠頭)。 接収日:昭和21年4月15日(横浜市web site)

上陸艦


さっき行った山手イタリア山庭園を見る。 ↓その遠望

赤煉瓦で象徴される新埠頭地区は、1910年代に建設された。「建設費用はアメリカに支払った下関戦争の賠償金がアメリカから返還され、これを充てた」(wiki)。

■ ⇒ 5.馬車道


ホテルニューグランド 1927年開業(wikipedia

マッカーサーは1945年8月30日に「厚木」に、子猿も連れて、飛来。その晩は横浜のホテルグランドに宿泊。3-4泊して、山手のC.マイヤー邸(google)に滞在した。そして、1945年9月8日に東京入城を果たした。しかし、その晩は横浜に帰ったのだという(根拠)。ところで、マッカーサーは1937年に新婚旅行からフィリピンへ帰る途中このホテルグランドに泊まった。つまり、8年後、横浜は灰燼に帰していた。ただし、このホテルや港湾地区を除いて。それにしても、マ元は1937年から「I shall return to be the SHOGUN」だったのだろうか?


第11空挺師団の米兵

タイル模様の柱がそのまま。中央のタイル模様の柱は撤去されたとわかる。階段が微妙に変わっている。

■ ⇒ 野毛町


大岡川。弁天橋を渡る。

■ ⇒ 野毛山


日本中央競馬会ウインズ横浜

▶ お昼


ハラミペパーライス:ダイニング×ダイビング リコモ(google map

■ ⇒ 7.野毛山公園


坂を登り、振り返って図書館をみる

水道みち(横浜の水道は野毛山にあり野毛山貯水場跡で歴史を知ろう
下の凹凸図で2つの赤矢印の間が(/も)水道みち。2つの谷を越えている。


振り返って野毛山動物公園方面を望む。尻こすり坂(google map)。


県営藤棚団地(google

■ ⇒ 稲荷台小学校

この坂を昭和21年2月19日に昭和天皇が上った。その日は敗戦後の全国巡幸の第1日目だった。この坂を登った先には、戦災者共同住宅があった。そこを訪問したのだ。戦災者共同住宅は、横浜市稲荷台国民学校があったが、1945年・昭和20年5月19日の横浜空襲で焼失する。その焼跡に戦災者共同住宅が建てられた。現在は、横浜市立稲荷台小学校。

愚記事:昭和の成仏のために:横浜市立稲荷台小学校、元戦災者共同住宅、昭和天皇、戦後巡幸第1日目


航空写真(左:1945-1950年)、現在の航空写真(右)。〇印が上記坂

■ 通過街

横浜市:
中区
石川町、山手町、元町、山下町、日本大通、本町、太田町
西区
桜木町、野毛町、宮川町、老松町、西戸部町、藤棚町、

 


昭和の成仏のために:横浜市立稲荷台小学校、元戦災者共同住宅、昭和天皇、戦後巡幸第1日目

2024年02月19日 06時44分14秒 | 東京・横浜

敗戦後の天皇巡行。この写真を子供の頃から見ていた。歴史の本によく出てくる。この場所は横浜と知ったので、場所を調べて、行ってみた。この写真は78年前の今日。


昭和21年2月19日 横浜市 戦災者共同住宅、現在 横浜市立稲荷台小学校
(神奈川県横浜市西区藤棚町2丁目220)

この日の巡行について、例えば、古川隆久『昭和天皇』では神奈川県京浜地区の簡易住宅街、吉田裕『昭和天皇の終戦史』では神奈川巡行とだけあり、具体的にどこであるのかはわからない。

 

この巡行は1946年から1954年8月の最後の北海道[1]まで全国(沖縄/琉球を除く)を廻った天皇の全国行幸の第1日目である。Wikipedia [昭和天皇の戦後巡幸]。場所は上記の通り、横浜市の戦災者共同住宅、現在 横浜市立稲荷台小学校。

[1] 北海道問題は本記事に末尾にメモ


Google map

横浜市立稲荷台小学校は、横浜港の西の台地域にある。台地にある野毛山公園の北西だ。

ここは、横浜市稲荷台国民学校があったが、1945年・昭和20年5月19日の横浜空襲で焼失する。その焼跡に戦災者共同住宅が建てられた。昭和26年(1951年)から、戦災者共同住宅が昭和28年(1953年)に撤去されるまで、小学校(稲荷台小学校稲荷台分校)は共存していた(ソース:横浜市立稲荷台小学校 沿革)。上の昭和天皇の写真を見ると、写真の奥の方が土地が低いことがわかる。すなわち、昭和天皇は坂を登って来ているのを、坂の上から撮影した。

■ 行ってみた。

この坂だ ↓。 坂を登り詰めると、稲荷台小学校・戦災者共同住宅がある/あった。


「御幸坂」。上記昭和天皇の写真はこの坂道で撮影されたらしい。エビデンスは後述。


坂を登りきると、稲荷台小学校に至る。


稲荷台小学校の門。中はグランンドが広がる。この現在グランドなっている平坦地に戦災者共同住宅があった。下の航空写真で建物が見える。


地図(左)、地形凹凸図。丸印は坂道での写真撮影場所。


航空写真(左:1945-1950年)、現在の航空写真(右)。

■ 「御幸坂」のエビデンス

この昭和21年2月19日の昭和天皇の巡行で、昭和天皇と話したという人の回顧があった;

横浜市旭区の石川啓次郎さん(81)は、2月19日の稲荷台共同宿舎(横浜市西区)への巡幸の際、昭和天皇に話しかけられた体験を持つ。当時、西前国民学校5年生だった石川さん。学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。両手のしもやけがひどく、母親から「粗相がないように」と渡された軍手を両手にはめ、寒さに耐えながら1時間ほど待ったという。

 「シーンと静かに、みんなでただお辞儀をしていた」という中、昭和天皇は石川さんの前で立ち止まって帽子を取り、「家は焼けましたか」「学校の道具は焼けなかったのか」と尋ね、石川さんは無我夢中で答えたという。巡幸で声をかけられた最初の児童となり、そのやりとりは翌日の朝日新聞などに取り上げられた。 (朝日新聞 web site

昭和天皇を迎えた場所の写真が朝日新聞に示されている。この坂道だ。

■ なぜ、そこに?

上記の昭和天皇から声をかけられた石川啓次郎さんは、「学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。」と云っている。これを読むと興味本位で昭和天皇を見に行ったとも思える。でも、そうであるなら、上記写真は興味本位で集まった子供や、そして大人で、あふれてしまうはずだ。おそらく、興味本位ではなくて、「選ばれた」人たちが「動員」されたのではないだろうか。そもそも、「学校の先生から昭和天皇が横浜に来ること」ではなく、学校の先生は天皇が稲荷台小学校・戦災者共同住宅にこの日午後(昭和21年2月19日)来ることを知っていたのだ。それは政府からお達しがあったのだろう。

 一九四五(昭和二〇年) 秋から秋から、国内安定に資したいとして 天皇・宮中に巡幸実施の意向があった。 そのきっかけの一つが、四五年十一月中旬に行われた、終戦奉告のための伊勢神宮への行幸である。 この行幸に同行した木戸内大臣は、「沿道の奉迎者の奉迎振りは、何等の指示を今回はなさざりしにかかわらず、敬礼の態度等は自然の内に慎みあり、如何にも日本人の真の姿を見たるが如き心地して、大いに意を強ふしたり」と国民の天皇支持の強さを認識した(『木戸日記』 11月12日)。 実際には沿道の人々の多くは 行幸ルート上の自治体が独自に動員したものだったが、木戸ら天皇・宮中はそれを知らなかったのである( 瀬畑二〇一〇[昭和天皇「戦後巡幸」の再検討]) 。古川隆久『昭和天皇』

こういう事情なので、「行幸ルート上の自治体が独自に動員」したのではないだろうか。

■ 「御幸坂」を登ったあとで

昭和天皇は、坂道を登り、戦災者共同住宅に向かったはずだ。戦災者共同住宅での住民との会見の様子を報道する新聞記事が、文藝春秋のweb siteにある。

■ この日の戦災者共同住宅への訪問は、昭和天皇実録に書いてある;

一時三十分県庁を発御、伊勢佐木町通を経て、西区の稲荷台国民学校の焼け跡に建設された稲荷台戦災者共同宿舎に着御され、住宅営団横浜支所長副見喬雄より罹災(りさい)者を収容する同住宅建設概況についてお聞きになる。副見の説明により宿舎内を御巡覧になり、罹災者に種々労(いたわ)りの御言葉を賜う

産経新聞の記事(昭和天皇 終戦翌年の地方巡幸 神奈川から 川崎→横浜→皇居→横須賀 「実録」からひもとく第一歩)から孫引き。

■ 昭和天皇、戦後巡幸の第1日目

昭和天皇の戦後巡幸は神奈川県の横浜、横須賀から始まった。2日間。皇居から日帰りで通った。

■ 北海道問題

昭和天皇の戦後巡幸の北海道に関する情報;

天皇の「戦後巡幸」(以下「」を略す)とは 1946 年 2 月の神奈川県から 1954 年 8 月の北海道にかけて(米国占領下の沖縄県を除き)行われた全国視察のことである。しかし、本稿では占領下の 1951 年関西巡幸までを分析対象とする。北海道巡幸は、1949 年から定例化する国民体育大会への巡幸の流れに位置づけられるべきであり、他の戦後巡幸とは一線を画するものだと考える。昭和天皇「戦後巡幸」にみる象徴天皇制の形成過程

昭和天皇は占領期に当時の日本の施政権下では唯一北海道を訪問していませんでしたが、朝鮮戦争の勃発後も「私が行けば北海道を何かの時見捨てぬといふ証拠ニなる」などど繰り返し、北海道への訪問を強く希望していたことがわかりました。 (戦後占領期 北海道への巡幸 強く希望戦後占領期 北海道への巡幸 強く希望

 


都県境散歩:こどもの国駅⇒ 玉川学園大学・小田急線⇒ 玉川学園駅

2024年02月07日 20時00分18秒 | 東京・横浜

玉川学園を中心に都県境、小田急小田原線を横断する散歩をした。玉川学園は東京都町田市と神奈川県横浜市、川崎市の3市に跨る広大な敷地を持つ。広大な敷地を持つ大学として北大や筑波大を思い浮かべるかもしれない。でも、北大や筑波大は平坦な地形の上にあるが、玉川学園は凹凸地形にある。そして、樹木に覆われ、その敷地へは徒歩だけが可能な「けもの道」でもアクセスできる。もちろん正門や自動車で入れる門もある。

さらに面白いのは玉川学園は都県境、市境を跨いでいるばかりでなく、小田急小田原線を隧道(トンネル)にて跨いでいる。凹凸地形のせいだ。

今回の散歩は横浜市からアクセスできる徒歩だけが可能な「けもの道」(google mapに載ってない道)を通り、玉川学園に入り、前回の散歩で跨ぐことのできなかったトンネルを跨ぎ、さらに徒歩だけが可能な「けもの道」で玉川学園の敷地外で出る。そして、徒歩だけが可能な踏切(小田急小田原線)を渡り、再び玉川学園に入り、自動車が出入りできる門から出て、玉川学園駅まであるいた。


地図A

1.協和病院、2.横浜市青葉区奈良町2572付近(google map)山道入口、3.尾根(眺望良好)、4.玉川学園敷地入口、5.横浜市・川崎市・町田市境界3重点、6.トンネルの上通過、7.玉川学園小学校横の細道入口、8.細道出口、9.金井へ

現在の航空写真  、 1960年代の航空写真 

■ こどもの国 ⇒ 協和病院

■ 1.協和病院 ⇒ 2.横浜市青葉区奈良町2572付近


2000年6月に開局した青葉緑山薬局は、その名の通り、春は鶯が鳴き、初夏には青葉が繁り、緑に囲まれたのどかな環境にあります。青葉緑山薬局


尾根から南西側の奈良北団地方面


玉川台団地とその向こうの緑山スタジオ

▼ 玉川学園入口


道に白猫が歩いている。その白猫の顔はこちら⇒「今週のよその猫

▼ 5. 町田市、横浜市、川崎市3重点付近

この地点はこの後、戻ってくる。

このあたりがトンネルの上。下を小田急小田原線が走っている。

■ 7.玉川学園小学校横の細道入口

■ 8.細道出口


地図B

■ 金井

■ 10. 歩行専用踏切

■ ⇒ 玉川大学農場教室(google map

▼ 5.横浜市・川崎市・町田市境界3重点付近


戻ってきました。


出口に向かう。振りかってみた風景:Consilience Hall 2020(手前)とScience Hallが見える。


公道。左手は玉川学園


玉川学園正門

■ 玉川学園駅

■ まとめ 通過街

神奈川県
横浜市 青葉区 奈良町
川崎市 岡上
東京都
町田市 玉川学園 金井町


横浜散歩:JR山手駅⇒ 根岸外国人墓地⇒ 馬の博物館・根岸森林公園⇒ エリアXゲート⇒ 根岸なつかし公園 旧柳下邸⇒ 八幡橋

2024年01月14日 15時28分03秒 | 東京・横浜

JR山手駅から、磯子1丁目まで散歩した。途中に、 根岸外国人墓地、根岸森林公園などがある。主目的は、根岸なつかし公園 旧柳下邸。今まで行ったころがなかった。磯子、根岸方面も散歩したことはない。根岸森林公園はかつて1度散歩っしたことがある。2017年9月だ(本牧台地散歩;「帰って母に聞いて、日本がアメリカに負けたことを知りました」)。このとき、エリア・ワン(area 1)も知らなかった。ただ、本牧方面にレコンキスタ案件の見物に行こうとおもい、散歩した。2017年は事前にネットで調べたりしなかった。2017年には根岸の米軍住宅をみたのだが、この域はエリア・エックス(area X)と呼ばれているは知らなかった。今回知った。

1.JR山手駅、2.根岸外人墓地、3.馬の博物館、4.旧根岸競馬場一等馬見所、5.米海軍住宅(エリアX)、6.岸根小学校裏の段丘崖の階段、7.根岸なつかし公園 旧柳下邸、8.磯子区磯子1丁目2−11(ガスト磯子店)、9.八幡橋バス停

■ 1.JR山手駅 ⇒ 2.根岸外人墓地

■ 2.根岸外人墓地

扉は閉まっていた。自分で開けて、入った。

根岸外国人墓地は、JR根岸線「山手駅」を降り、南へ坂道を登ること約100mのところにあります。
 関東大震災では、外国人も多く被害を受け、死者1,789名、負傷者2,353名、所在不明者5,251名との記録も残っています。
 根岸外国人墓地入り口脇の説明板には「現在1,200有余の外国人が埋葬され、墓碑は160基程が確認されている。」と書かれていますが、同時に「外国人船員、関東大震災罹災者及び第二次大戦後に埋葬された嬰児(幼児)など、埋葬者名が不明な者も多い。」とも記され、震災の犠牲者が何名埋葬されているかは不明ですが、ここには横浜市が建立した外国人震災慰霊碑が建っています。神奈川県 web site:根岸外国人墓地

 

墓地は本牧台地の端の段丘崖にあり、敷地は段々になっている。最上位の面からの見晴らしは、(墓地では不謹慎だが)すばらしかった。

モニュメント [片翼だけの天使の翼の像を模した慰霊碑](Google

■ ⇒ 3.馬の博物館

仲尾台公園 更新再開のお祝いをしていた。


根岸森林公園が見えた。

■ 3.馬の博物館

馬の博物館(うまのはくぶつかん)は、神奈川県横浜市中区の根岸競馬記念公苑(根岸森林公園)の敷地内にある、競馬・馬事文化の関連資料を展示した博物館である。1977年にJRAにより開館。

同公苑は、日本で初めての近代洋式競馬が行われ、1866年に誕生した横浜競馬場(根岸競馬場)を記念して建てられたもので、この施設では横浜競馬場の関係資料や、競馬競走の成り立ち、馬と人間の文化関係、馬の体の仕組みや習性などを収蔵資料や模型などで多角的に紹介している。wiki

馬の博物館は2017年に来たことがあった。ただし、何か特別なことをやっていたらしく、本物の馬がいた(下画像)。招待がない人は入れないといわれ、博物館の中を見ることはできなかった。2024年1月28日をもってしばらくの間休館するとのこと。長期休暇の前に博物館に入ることができた。

2017年

馬の博物館の入口から旧根岸競馬場一等馬見所の上半分が見える

フィナーレ展 「うまはく所蔵優品選」をやっていた。

 
「三彩女子騎馬俑」(左) 「埴輪馬」

■ ⇒ 4.旧根岸競馬場一等馬見所

■ 4.旧根岸競馬場一等馬見所

wikipeia 横浜競馬場

■ ⇒ 根岸米軍住宅、エリアX

根岸住宅地区:

管理:在日米海軍横須賀基地司令部

米軍人、軍属及びその家族が居住し、管理事務所、教会、宿舎、中央公共施設(図書館、銀行、郵便局等)、診療所等が所在していましたが、平成27年12月にすべての居住者が退去しています。

なお、現在も在日米海軍司令部統合消防隊第5消防署は存続しており、在日米海軍横須賀基地司令部憲兵隊が交代制により立哨業務及び警備巡回を行っています。

また、米軍施設・区域に囲まれた土地に横浜市民の方々が居住しており、日常生活上の様々な制約を受けています。

横浜市 web site

ネット情報によると、すでに2023年中に米軍住宅は解体されているとのこと(google)。
上の画像で、瓦礫の山が見える。

 

左上から時計回りに地形凹凸図、1945-1950年航空写真、現在の航空写真、1974-1978年航空写真。

敗戦後、耕地であった域が米軍住宅になったとわかる。米軍住宅域ないに緑に覆われた小山が見える。下図参照。これは、神奈川・米軍根岸住宅地にある「日本人」住宅

「この家は船具商だった祖父母が別宅として建てた家なんです」と、みどりさんは説明する。1951年にこの家で生まれ、ずっとここで暮らしてきたという。みどりさんが生まれたとき、すでに自宅の周囲は米軍施設に囲まれていた。接収が行なわれたのは47年だが、当時10軒が徴用を免れたそうだ。ただし当時の記録がないため、なぜ取り残されたのかはわからない。(上リンクより)

終戦後の日米間の国力の差は歴然としており、「基地の中は高級車ばかりでした」と、みどりさんはふり返る。根岸住宅地には上級士官とその家族しかいなかった。日本人がようやく自転車を手にしたとき、基地内の駐車場には米国製のキャデラックやムスタングが並んでいた。この住宅地の近くに実家がある実さんも、当時の様子をよく覚えていると言う。みどりさんが中学校を卒業する頃まで、米軍将校たちの家々にはメイドやボーイとして働く日本人の姿があった。敷地内に彼らの独身寮があり、そこから毎日通勤していたのだ。米兵と結婚した日本人女性たちも暮らしており、基地内で日本人を見かけることは珍しくはなかった。


赤線内が米軍接収、現在も未返還区域。

星条旗新聞:‘Things don’t last forever:’ College student documents demolition of US Navy housing complex in Japan

■ ⇒ 6.岸根小学校裏の段丘崖の階段

■ 7.根岸なつかし公園 旧柳下邸



横浜市指定有形文化財[根岸なつかし公園 旧柳下邸]横浜市 web site

外観の見どころ

建物は東館、西館、洋館、蔵から構成されています。洋館の屋根は規模は小さいですが、周辺の町並みからは突出した高さを持っていることから、近隣のランドマーク的存在となっています。

東館、西館の屋根は「むくり」を持たせた入母屋造りの和瓦葺きです。東館は棟の向きが直交しているため、4つの入母屋屋根の複雑な構成になっています。

洋館の屋根にはフランス瓦が葺かれていて、ドーマー窓、銅の棟飾りがついています。(横浜市 web site)

■ ⇒ 8.磯子区磯子1丁目2−11(ガスト磯子店)


掘割川

堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市南区から磯子区を流れ、根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川。大岡川の分流である。明治時代に作られた運河(人工河川)で、横浜港発展に大きな役割を果たした。wiki

 

ガストとバーミアンが並んでいる。しばしば見る風景だ。すかいらーくグループの<まとめ賃借り>策なのだろう。


ガスト、味噌カツ丼味噌汁・漬物付き

■ 9.八幡橋バス停


八幡橋交差点横断歩道

八幡橋バス停から桜木町行きバスに乗り、伊勢佐木町に向かう。

▼ 伊勢佐木町 イセザキ・モール

▼ 有隣堂本店

有隣堂本店にお参りした。初めて来た。売り場面積の広さの割には展示冊数は多くないと感じた。高密度感はない。

■ まとめ 散歩通過街

横浜市 中区 仲尾台、豆口台、滝之上、根岸台、簑沢、寺久保

磯子区 西町、下町、原町、中浜町、磯子

↓ バス

中区 伊勢佐木町

 

 

 

 

 

 


神奈川・東京散歩:こどもの国⇒ 東玉川学園⇒ かしの木山自然公園⇒ 芹が谷公園⇒ 町田駅

2024年01月07日 12時34分06秒 | 東京・横浜

こどもの国駅から町田駅まで散歩。こどもの国から西へ東京(町田市)に向かうと尾根にぶつかる。成瀬尾根。この尾根が都県境となっている。下の地図の2の点の上下=南北に走る線状となっている。航空写真では樹木の線として見える。緑道となっているから。成瀬尾根の西は成瀬台という造成された宅地、住宅地となっている。元来は丘陵地(本文の1960年代の航空写真参照)。さらにその西は、航空写真で緑地が広く広がっている域がある。昭和薬科大学やかしの木山自然公園がある。この域は丘陵が造成されず残っている。自然が残っている。今まで行ったことがなかった。さらに、西へ向かい、恩田川を渡り、芹が谷公園へ。

1.こどもの国駅、2.成瀬尾根(奈良ー成瀬台境界:都県境)、3.東玉川学園化石谷公園、4.かしの木山自然公園、5.恩田川 三蔵寺橋、6.芹が谷公園、7.JR町田駅

■ 1.こどもの国駅 ⇒ 2.成瀬尾根(奈良ー成瀬台境界:都県境) ⇒ 3.東玉川学園化石谷公園

▼ 成瀬尾根から外れて、東京都町田市成瀬台へ。

左手が町田市、右手が横浜市の奈良北団地。この右手の横浜市は北から成瀬台に舌状に張り出してる。

南を向く。成瀬台。開発された街であることがよくわかる。上の1960年代の航空写真を参照。谷戸・尾根を削りまくって造成したことがわかる。

造成された成瀬台の北端を行く。東玉川学園の尾根、すり鉢地形を進む。

都県境。横浜市は北から成瀬台に舌状に張り出した横浜市の南端。

すり鉢地形の底へ降りる。

すり鉢地形の底。

成瀬駅へ向かう道。

進む道。

町田市 web site

■ ⇒ 昭和薬科大学/三井住友海上玉川研修所グラウンド ⇒ 4.かしの木山自然公園

▼ 東玉川学園/南大谷の境界の尾根

尾根の西側。三井住友海上玉川研修所グラウンド(google

昭和薬科大学 門。尾根の東側。1990年にここに移ってきたとある wiki 。


ユニヴェルシオール学園の丘 google

■  4.かしの木山自然公園

1988年(昭和63年)に開園。敷地は西成瀬のほか、南大谷、高ヶ坂が入り組んでいる。園内は大部分が雑木林で、シラカシ、クヌギ、コナラなどが生い茂り、野鳥、昆虫が多く生息している。また、尾根道からは丹沢の山並みや町田の町並みが望めるほか、第三日曜日にはかしの木山自然公園自然観察会(但し不定期)を開催している。(wiki)

成瀬、高ヶ坂、南大谷にまたがる面積約5.5ヘクタールの緑豊かな自然公園です。シラカシ、クヌギ、コナラなどが生い茂り、野鳥、昆虫も多く、尾根道からは丹沢の山並みや町田の町並みが望めます。町田市 web site

■ ⇒ 5.恩田川 三蔵寺橋 ⇒ 6.芹が谷公園


a : 恩田川、三蔵寺橋

恩田川が流れているのは低地。台地に向かい坂を登る。

台地に登ったが、芹が谷公園は台地に刻まれた谷にある。谷を降りる。

■ 6.芹が谷公園

谷底

再び、台地に向かい登る。

■ ⇒ 原町田 ⇒ JR町田駅

原町田の台地面の平坦を歩く。

まとめ 

通過街

神奈川県 横浜市 青葉区 奈良

東京都 町田市 成瀬台、 東玉川学園、 南大谷、 高ケ坂、 原町田


神奈川・東京散歩:JR横浜線矢部駅⇒ 尾根緑道⇒ 多摩丘陵・鶴見川源流⇒ 京王堀之内駅

2023年12月31日 12時56分32秒 | 東京・横浜

これまで多摩丘陵の散歩の記事はある()、黒川谷戸小山田緑地。多摩丘陵の西側の地域の谷戸は行ったことはなかった。行くことにした。鶴川駅から行くと、距離があるので、相模原台地の方から行くことにした。

1.JR矢部駅、2.境川・常矢橋、3.尾根緑道、4.鶴見川源流の泉、5.長池公園、6.京王堀之内駅

▼ 大きな地図(元記事):今回は六角形a⇒b⇒c。


:1;長津田駅、2;町田駅、3;相模原駅、4;八王子駅、5;聖蹟桜ヶ丘駅
:A;こどもの国駅、B;鶴川駅、C;黒川谷戸、D;国士舘大学付近
六角形:a:矢部駅、b:鶴見川源流の泉、c:堀之内駅

■ 1.JR矢部駅 ⇒ 2.境川・常矢橋


図1


航空写真:1960年代(左)、現在(右)

尾根緑道(wiki)。図1のa。文字通り尾根。左右に斜面を持ち、みはらしがいい。それにしてもこの尾根は幅が狭い。


尾根の北側の斜面。


尾根の南側の斜面。

図1のb付近。桜美林大学のグランドを右手に見て進むと、見えた建物が「特別養護老人ホーム 花美郷」。ここで、右折して林に入る。

林に入るときはのぼりであった、その先が平坦地となっていたが、ペット霊園だった(ペットメモリアルパーク南多摩)。

▼ 谷戸へ

林を抜けると、谷戸に出た。図1のc。

▼ 谷戸の出口。図1のd付近。

図1のdから4へ向かう。

鶴見川源流の泉:環境省のweb site

谷戸の奥の林の中へ通ずる道を進む。この先、南多摩尾根幹線道路に抜けられる。


南多摩尾根幹線道路


南多摩尾根幹線道路

■ 5.長池公園

■ ⇒ 6.京王堀之内駅

駅まで歩いて20分ほど。今日の散歩では長い行程。でも、道は単調なので画像は少ない。

■ まとめ 通過街

神奈川県 相模原市 

淵野辺、上矢部

東京都 町田市

常磐町、上小山田町

八王子市 

別所、堀之内