いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

京都で、『東京ラーメン』 -京都参り2006⑧-

2006年11月30日 19時38分06秒 | 国内出張・旅行
■この日は朝から仕事。 昼飯に外に出る。 街を歩いていると、発見! 京都なのに、東京ラーメン。 うれしくなって、早速入る。 背広のサラリーマン風50すぎのおじさんとか、普通のおじさんとかがカウンターにいた。






チャーシューめん大盛りをたのむ。 スープは脂っけのない、穏健だしスープ。塩気がたりない。 チャーシューは薄切りではない。 もやしが載っている。 ワカメは載ってない。 ながねぎは刻みではない。
参照;「本場」の東京(湯島)ラーメン

序盤で、あっ、やばい、全部食べられるかな?と不安になり、大盛りを注文したことを後悔したが、案外するっと全部食べれた。 この値段、650円くらい、と大盛りにして特盛+なのは、学生街だからか、とやっと気づく。 日本を背負ってたつ学生さんは、なべパーティーばっかりやってないで、しっかりがんばってネ。


トーダイのよびこみチラシが貼ってあった。 やはり関東の手先らすい。

■「由緒書き」発見↓
京都なのに、なぜ東京ラーメンなのか。


無鄰庵 -京都参り⑦- 

2006年11月29日 20時51分48秒 | 国内出張・旅行






■無鄰庵に行きました。東山にあります。京都駅から地下鉄烏丸線に乗り、烏丸御池で地下鉄東西線に乗り換え、蹴上駅で下車。徒歩10分ほどの距離です。が、おいらはずい分迷いました。

■無鄰庵は、我らが、じゅげむじゅげむの、枢密院議長議定官元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵であらせられた、山縣有朋センセのお庭です。 山縣有朋記念館 那須高原 に続く、きちがい次官=狂介センセ探訪シリーズです。

■お庭が趣味の有朋センセの一作品です。最上部のデジカメ画像で、遠くに山が見えます。東山です。この庭が果てしなく向こうの東山まで続いているかのごとく見えます。

■地面は芝ではありません。苔です。



■洋館があります。ここで、無鄰庵会議、山縣・伊藤博文・桂太郎・小村寿太郎の4人で対露開戦を決断、(明治36年4月21日)が行われたそうです。







■こういう小路から入るのです。なので、迷いました。


燐の字が間違ってます。燐→鄰。ゆるしてケロ。

南禅寺のすぐ近くです。

京都駅でオムライス食べた -京都参り⑥-

2006年11月28日 20時07分47秒 | 国内出張・旅行

JR京都駅。 今年も来れた、京都。 マンセー!


おなかすいたので、駅ビルの最上階に行って、あったオムレツ屋に入る。
たまごキッチンMollette
店頭の展示でいちばん出てますよーという「グルメオムライス」を食べた。


中のチキン(でもなかったけど)ライスは思いっきり固めてあった。写真でもわかるよね、米粒の間の隙間が少ない。少し、違和感。「おまえは、いかめしのごはんか!」と、ひとりで、つっこんでみた。そしてなにより、思いっきりケッチャップ味。うーん、典型的貧乏舌用味付けではないか。オムライスの周辺のデミグラスソースもこれまたパンチの効いた濃い目、コクアリ系。あー、食べてるという感じ炸裂。

もちろん、典型的貧乏舌のおいらにとっては、大変おいしゅういただきました。

ごちそうさま。 976円(税込み)。


子ねこの舅 -京都参り⑤-

2006年11月27日 20時44分30秒 | 国内出張・旅行

井伊直政像  彦根駅前にて。

子ねことは伊達秀宗のこと。秀宗の母は政宗の側室の「猫御前」。だから、子ねこ。秀宗は政宗にとって最初の子供。「猫御前」は飯坂の局のこと。側室。秀宗は生まれたのは岩出山だが4歳で秀吉に人質として出される。だから育ったのは関西ということになる。さらには、家康の人質として江戸屋敷に暮らすので、のちに伊予・宇和島10万石の大名になったことと考え合わせるとみちのくの風には無縁だったといえる。

その秀宗の正室は井伊直政の娘。政宗と秀宗には確執があった。それは、推定するに、子供の頃から人質として駒のように扱われてきたから、素直になれなかったかもしれない。26歳で10万石の大名となって、大いに浪費したらしく、政宗に手紙で叱責されている。『伊達政宗の手紙』佐藤憲一、新潮選書。さらには、政宗が秀宗に付き添わせた家老・山家清兵衛が別の家臣に切り殺される。秀宗の意向を受けたものと推定できる。山家は政宗にいろいろちくっていたのだろう。

この事件で、政宗は秀宗を勘当、幕府に伊予・宇和島1万石の返上を申し出る。これに対し土井利勝がとりなし、安堵となった。このあと親子は和解したようで、政宗は「父子の間の意趣・遺恨」を認め、「伊予の事に、我々いろい干渉することは、ゆめゆめあるまじきゆえ、かたくかたく申し定めしそうろう」と書いている。

今夜の時代劇チャンネル、『独眼龍政宗 第49話』はこの話であった。

さて、宇和島10万石。政宗の次に有名な伊達さんは幕末維新の伊達宗城といったところか。宗城は、幕末の四賢大名として島津久光、松平慶永、山内豊信とともに、仙台の慶邦を差し置いて、慶喜擁立など幕政の中心で活躍する。

徳川幕府の幕引きに貢献した。



埋木舎 -京都参り2006④-

2006年11月26日 13時15分40秒 | 国内出張・旅行
(京都に入る前に、彦根にいったのです。埋木舎は彦根にあります。念のため。)
埋木舎は、お屋敷だった。6-8畳の部屋が3-4つあった。庭もあり。

■埋木舎(うもれぎのや)

彼は、もちろん、彦根井伊家の殿様の息子なんだけど、十何番目。あまった男の子はどうするかというと、養子に行くしかない。それでも井伊家は徳川家臣の筆頭なので、結構口がある。直弼の兄弟たちの少なからずは結構の大名に養子に行った。

直弼はもらい手がなかった。特に悲惨なのは、弟と一緒に養子のお見合いに行っても、弟が決まって、直弼はあまる。たぶん、かわいくなかったんだろうね。行かず隠居、だよ。 さびしいじゃないか、哀しいではないか、井伊直弼、21歳。

もうトウがたったので、城を出て、捨扶持をもらって暮らしていた。その住居を、埋木舎(うもれぎのや)と自分で名づけたのだ。 すごいじゃないか。 自分の運命を諦め(正しく認識すること)、覚悟したにほかならない。

おまけに『埋木舎の記』なる日記を書き、

これ世を厭ふにもあらず。はた世を貪るごときかよわき心しおかれば、望み願うこともあらず。ただうもれ木の籠もり居て、なすべき業をなさましとおもひて設けしを、名にこそといらへしままを埋木舎のこと葉とぞ。

と、失意の余生を ぐれずに、「なすべき業をなさましとおもひて」、舎に住んで過ごすことを覚悟。21歳から死ぬまでの果てしなき暇つぶしが始まった。

世を恨むことなく、けなげに暇つぶしを覚悟し、実行したところが、泣けるよ。■

屠られた掃除のおじさん -横浜③-













 

彦根城 -京都参り2006③-

2006年11月24日 21時13分19秒 | 国内出張・旅行

彦根城、天守。 国宝らしい。 つまりは江戸時代の建造物そのまま残っているということか。 壁などの色をぬりなおしているらしく、何か新築の、戦後はやった鉄筋コンクリートづくりの、城かと見間違える。


天守閣の最上階からの眺め。琵琶湖が見える。 天守閣の階段が極めて急峻。30度ほど。 あたかもはしごを登るがごとき。 階段の下には行列ができていた。 それにもまして、急峻な階段を下ることことは大変。 これまた、行列をなす。


オオトックリイチゴ。 かの牧野富太郎が見つけたとされる種。 彦根城にしかないとされるそうな。


桜咲いてた彦根城 -京都参り2006②-

2006年11月23日 20時07分55秒 | 国内出張・旅行

京都の前に、彦根で下りて見物した。 二季咲桜だって。

水戸から送られたとある。

明治百年で「井伊直弼を殺した水戸」と彦根は「和解」したらしい。


親善都市 茨城県水戸市

提携年月日 昭和43年10月29日

交流内容
 幕末期、開国に対する考えの違いから、「桜田門外の変」が起こった。彦根と水戸との間に横たわった「歴史」が、明治維新以来100年を経過した昭和43年、これを一つの契機とし、友好の輪を結ぼうという気運が高まり、敦賀市の仲介により親善都市提携を行った。
 提携以来、観光物産展などを通して交流を深めている。





電車猫  -京都参り2006 ①-

2006年11月22日 21時44分54秒 | 国内出張・旅行


彦根から京都にJRの快速で向かっていた。ボックス席に座っていると、にゃーにゃー、みゃーみゃーと聞こえた。携帯電話の新手の着信音かな?ぐらいに思った。しかし、にゃーにゃー、みゃーみゃーが激しい。誰かケージに入れて猫を運んでいるのだな、と思う。それでも、かなり、にゃーにゃー、みゃーみゃーが強くなる。もうここでいてもたってもいられなくなり席を立ち車内を見回す。

ドアの前に猫。にゃーにゃー、みゃーみゃー鳴いていた。さては、ばか女子高生に電車内に拉致されたらしい。ひどい、ばかものだ、滋賀の女子高生は。ノラだって縄張りがあって土地カンを養い、ノラ渡世をやっているのだ。勝手に移動させるとは極悪非道である。


次の駅で降りていった。このあとどうするのだろう?