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今年もうれしい、オオイヌノフグリ―
― 相互に無関係な要素をたくさん集め、シェーカーに入れて振ってみても、とても物理・化学というカクテルがつくれるわけはない。物理・化学の形成という問題を大雑把に考えただけでも、広い世界のなかで、また長い歴史のなかで、この学問は、ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリを結ぶ小さな四角形のなかだけで創造され確立されたのだ、というきわめて明らかな事実がはっきりしてくる。―
オルデカ、『大衆の反逆』、第一部、9 原始性と技術
なぜ、ぬっぽんずんが、科学や技術を、その成果は別として、熱心にやっているかというと、科学と技術が国運の興隆を左右しているという信念に基づくものなのだろう。明治維新以来そうだ。明治新政府は、まずは、ヨーロッパからの文明の"パクリ"から始めた。オルテガセンセによると、物理や化学という学問は、"ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリを結ぶ小さな四角形のなかだけで創造された"ものである。物理や化学の誕生にぬっぽんずんは関係ない。誕生には関係ないが、その後の物理、化学の成長には、"ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリを結ぶ小さな四角形"外としては、米国に次いで、貢献しているだろう。パクリぐせの面目躍如だ。
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箱庭科学、あるいは、地獄科学】
科学とは自然に関する人間の知見である。上記オルデカの言及は実験科学についてのものだ。"ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリを結ぶ小さな四角形"で発展した科学の特徴は、実験科学。つまりは、ものをいじくって、その性質を理解する。「その性質を理解する」とは上品なことで、実験は元々は錬金術に由来する。
(ところで、のちにカントに哲学を整備させねばならない原因となったのはニュートンの古典力学。このニュートンの古典力学を延長すると、ラプラスの悪魔(
wiki)の跋扈を許す。つまり、ぬんげんは完全に自然の中に埋め込まれ、ぬんげんの運命は決定されているのであり、自由意思なぞない、という信念に至る。でも、そのニュートンは"実は"錬金術師だったらしい。つまりは、金への意志を思う存分、自由に発揮していたのだ。)
そして、カントは「物自体」ということを言い出した。人間が見て取れるものの背後にあるもの。人間は現象を見て取るとき「因果律」という枠組みで見て取る。その因果律の枠組みで見て取ることが「科学」だ、と。
でも、このカント的"見て取る・科学"は、ケプラー的、あるいはガリレオ的、天体観測系の科学であろう。
上記、オルテガの言及するのは実験科学。ポスト・カントだ。ポスト・カントといえば、ヘーゲルだ。ヨタとしてイメージ文章を抜き書きする;
カントにとって問題だったのが見てとることによって知ることだったとすれば、ヘーゲルにとって問題なのは手を加えて作り直すことによって知ることなのだ、と言ってもいいだろう。#1
これを比喩として理解のための補助線とすると、実験科学とは「手を加えて作り直すことによって知ること」に近い。実験技術は、今日の原発に象徴される生産技術の原始的な萌芽である。ここで萌芽とは実験技術がラボスケールで物理的にサイズが小さいというばかりではなく、技術で自然に手を加えて、自然を理解するというマインド(精神)を操作主体が持つことである。そして、最終的には、自然をexploitする。
実験とは、自然を理解することである。そして、実験の中核は、実は理論よりも、技術なのである。ハイデガーも言っている;技術は開蔵のひとつの方法である、と。
そして、重要なのは、この"ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリを結ぶ小さな四角形"で確立された科学は、自然を実験室に"連れ込んで"、安心していじくりまわすことだ。そもそも選ぶ対象は人間様が決める。自然の方から、この俺様を研究してくれと実験室に飛び込んでくることはない。ヨーロッパ科学者は主体的であることが許されるのだ。なぜななら、自然がマイルドだから。地震もなければ、台風も来ない。もちろん、津波なんてみたこたね。もっとも、大河の氾濫はあるな。大陸って実は高度が案外低い。でも基本的には
箱庭的自然だ。ヨーロッパ文明の半身のヘブライニズムのイメージは荒野、不毛。でも、自然から積極的に襲いかかってくる地震や津波のような現象は案外ない。ヨーロッパ科学は
坊ちゃんの科学なのだ。自然に対する認識は甘いのではないか?だから、実験室に連れ込んで何かしようという近世・近代科学が可能となった。
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ぬっぽん(日本)列島ですっぱい(失敗)すた原発技術;だって、地獄なんだもの。
我らが日本
劣等 列島で、原子力発電所の制御の失敗が生じたきっかけは地震と津波である。もちろん、その失敗は運営者のまぬけさに責任があるのだが、本愚記事では、なぜ、ぬっぽんずんがまぬけな原発運営者にならざるを得なかったについて、ちょっぴり思いつきを書く。
"ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリを結ぶ小さな四角形"の地域には地震は有史以来大きな地震は起こらないのだ。一方、おいらは以前から、書いている。その成因を無視した文明・文明を安易にパクッて、ぬっぽん列島で安直に使うと悲劇るって。
つまらないたとえ話なんだけれど、初めて西洋に行って蛇口をひねればすぐ水が出る水道出口を見た日本人が、水道器具屋で水道の蛇口・水道出口を買って帰国。自分ちの台所の壁に穴をあけて押し込んで、蛇口をひねって、「水が出ないぞ!」と激怒したというネタは有名(←じゃねぇーよ、いか@サマ野郎が今作ったんだろうに)。
(愚記事;
伊藤之雄、『伊藤博文』)
でも、こんなこと、大昔から漱石センセが言ってんだよね;「亡びるね」って(愚記事;
「滅びるね」 @浜松駅 )。
今回の原発の悲劇は、地震や津波のことを無視して、つまりはぬっぽん列島で生きることとはなんであるかということを忘れ、文脈を無視して、GE製の原子炉を買って、インストールして、十分な設備補充をせずに使ってきたことにある。有史以来大きな地震がない地域の文化・文明、それも地震や津波という自然を考えるはずの科学を、文脈を考慮せず、だまでパクッた(dead copy)せいだ。いまでもなくぬっぽん列島の地下は地震の源の巣窟である↓。

#2
ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリの地下の震源分布図があったら(ネット上で見つからなかった)、真っ白だよ。"ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリを結ぶ小さな四角形"の地域の人間に立ち現われる
自然と、ぬっぽん列島で立ち現われる
自然は大違いなのさ。
地獄で、科学・技術。
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パリで出現した、the first Hibakusha
で、上のヨタを書いていて気づいたんだけど、キュリー夫人で
ポーランドという辺境から"ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリを結ぶ小さな四角形"にやってきて、さんざん実験して、ノーベル賞とって、そして、実験の被曝がもとで白血病で死んだ、the first Hibakushaなんじゃないか、ということ(
google)。「自然を実験室に"連れ込んで"、安心していじくりまわすこと」が、"ロンドン、ベルリン、ウイーン、パリを結ぶ小さな四角形"の流儀なはずだが、彼女は、放射性物質を持ちこんだ。もちろん、キュリー夫人は天然の放射性物質の抽出をしたわけで、原子力発電の核連鎖反応の研究をしていたわけではない。でも、放射線を浴びて白血病で死んだ。放射線の生物への効果に関する知見が薄かったからだ。ってか、人類で初めて放射性物質に取り組んだからだ。The first Hibakusha。
彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されている[53]。マリの残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質が含まれ取り扱いが危険だと考えられている。中には彼女の料理の本からも放射線が検出された。これらは鉛で封された箱に収めて保管され、閲覧するには防護服着用が必須となる[76]。また、キュリー博物館も実験室は放射能汚染されて見学できなかったが、近年除去が施されて公開された。この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリの指紋からも放射能が検知されるという[53]。(wiki;
マリ・キュリー)
ところで、なんの因果か、地球上で1986年以来四半世紀ぶりに人工的放射性物質が撒き散らかされた今年2011年は、<国際化学年>だそうです。理由は、
2011年という年が、マリア・スクロドフスカ=キューリーにノーベル化学賞が授与されてから100周年にあたるからです。
<国際化学年>。住友
化学の米倉弘昌代表取締役会長はおっしゃいますた;「
千年に1度の津波に耐えているのは素晴らしいこと。原子力行政はもっと胸を張るべきだ」。もちろん、住友化学も国際化学年を協賛しています(
google)。
キュリー夫人はマリ・キュリーというが、大人になって名を変えてマリにした。元々はマリアだ。キュリー夫人の出身はカトリックの根強い
ポーランドなので、マリアと名づけられたのだろう。やはり、
被曝のマリアである。

the first Hibakusha@Polish;出口なし

@Japanese;海を出口に
▼そして何より、おいらが大好きな、オオイヌノフグリこそがヨーロッパからの帰化植物であると、最近知っただよ。
こっちの方が原産、本家だったのだ⇒
ノルウェイでもイヌノフグリ
#1;浅田彰、『構造と力』、第二章 ダイアグラム、2 構造とその外部―弁証法的相互作用
#2;http://members3.jcom.home.ne.jp/mizut/column/02jishin/jishin.html