みちのくみやげ@もらいもの
■ あんまりつつくと、お化け、でちゃうよ!
あるいは、
イソップ童話; 王を求め(すぎ)た蛙 ってあったよなぁ。
不運な"自民党"総裁。
-宰相、大勲位に御面会-
のだちゃんだって、ホントは 愚民党 自民党に入りたかったのだ。
でも、愚民党 自民党は世襲党なので、議員にさえなれなかったのだ。
世襲党なので、アタマ悪い御曹司、カラダ弱い(恐らくアタマも)御曹司、性格悪い御曹司が、次々と総理大臣になった;
アタマ カラダ(恐らくアタマも) ココロ
それを日本国民が見放した。
でも、替えた民主党の総理は、アタマ悪い・カラダ弱い・性格悪いを超越した「人格○X」者である鳩山由紀夫さんだった。
蛙さんたちはつつきまわした。 また、替えた。
菅直人さんは、自分が歌っていた「カラオケ装置」が爆発した。蛙さんたちはつつきまわした。 また、替えた。
野田総理。
確かに彼は、普通の保守なんだろう。普通の保守ってことは極右ではないってことだ。我らが「宗主国」のつすくずんジェラルド・カーチスセンセからは野田首相は絶賛されている。普通の保守なのだ。
なのに、なのに、 蛙さんたちはつつきまわした。
あげく、出てきた;
80歳。 マオが紅衛兵を使嗾して文化大革命を始めたのは彼がまだ80歳前である。
今後、この倭国のマオさんがこの国を動かせるかは、彼自身より使嗾されるべき"倭国紅衛兵"の活躍次第である。
本場では、がんばっている;
"倭国紅衛兵"は大丈夫だろうか!?
金持ちけんかせず、という。でも、ぬっぽんの「若者」はもう金持ちじゃないので、"倭国紅衛兵"!
興味深いのは、石原慎太郎さんや、あるいは橋下徹さんの反政府的路線である。これは、ホントに毛に通じる。
これは彼らの対外姿勢より注目すべき政策の点である。
あと、石原―橋下体制になった方が、日中関係は、マジな戦争回避のために、真の「戦略的互恵関係」になるのではないだろうか。
▼今週の筑波山麓
―今週の強い風雨で散って、集積したキンモクセイの花―
■
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今日知ったこと;1942年のデリーに、3000人の日本人がいた。
岡部伸 、『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺信の孤独な戦い-』を読んでいて、初めて知った。
スウエーデンはストックホルムで諜報活動、そして大戦末期には終戦工作にがんばっていた小野寺信陸軍少将の当地ストックホルムでの"ライバル"は、外務省のスウエーデン公使・岡本李正(すえまさ)[コトバンク]であった。
ちなみに、大日本帝国陸軍少将、小野寺信は親米英派、対米英への 幸福 降伏論者。小野寺信は、ヤルタ密約での「ドイツ敗北後3カ月でソ連対日参戦」という情報を掴んでいて、そのソ連に和平仲介を依頼するのは笑止なり!という立場。一方、外務省・岡本李正は、戦争末期の東京の路線に合わせてソ連へのい仲介和平論者。米英、特に英国にふくむところがある。
その上記ふくむところというのが、今日のお題。
大東亜戦争、対米英戦争は日本軍によるコタバル上陸作戦で始まった。真珠湾攻撃より数時間前である。
当然、1941年12月8日だ。
その1941年12月8日の数日前に、のこのことシンガポール総領事としてやってきたのが、大日本帝国政府外務省の岡本李正にほかならない(1941年12月5日)。そして、開戦。
大英帝国支配下(数か月後には日帝軍に占領されるのだが)の日本人は逮捕、拘束。民間人でありながら、みんな捕虜となった(civilian prisoners)。そして、インドに連行されたのである。
意外なChalo Delhi!ではある(google: 進め、デリーへ!)。 当のチャンドラ・ボースはデリーへたどりつけなかったのに...。
■ デリー、プラナキラ
おいらは、残念ながら、デリーのプラナキラに行ったことがない。ほんの数キロ先のインド門には行ったことがある(愚記事;他人の戦争と自分の戦争、あるいは、横田を還さないふたり )。インドのデリーは多重都市(愚記事: 続、占領地域を闊歩する日帝学徒/役人)と表現されことがある。歴史的にみて、大昔から為政者はデリーに都を築いてきた。その歴代の王朝の建物がデリーには残されているのだ。多重都市という視点で東京を見れば、たかだか二重都市である。すなわち、徳川家の江戸時代と皇室の近代・東京。そして、デリーと大違いなのが、中心が江戸―東京では変わらない。つまり、徳川家の居城が、現在の皇室の宮殿である。それに対し、デリーは各王朝の王宮がばらばらある。例えば、時代的に近いところでは、ムガール王朝の最盛期の宮殿はラールキラー(愚記事)である。そして、ムガール王朝を滅ぼした大英帝国のインド帝国の政庁はいわゆるニューデリー(上図の☆1)である。この印象は、例えば今京都に行っても「室町幕府」跡という立派な建物がないことで強烈さを増す。しかし、インドのデリーはこの「室町幕府」跡という立派(崩壊しつつも)な建物が点在しているのだ。それが、多重都市の意味。
『多重都市』: 中世いらいインド歴代王朝の首都であり、権力の盛衰・興亡の一大拠点であったデリー。「七つの都市デリー」「十五の町デリー」と言われてきたように、そこ には各時代における城砦都市や首都の地域的な移動といった事実のほか、民族と宗教の問題、植民地支配時代の「東洋と西洋」の問題をはじめ、多重・多層的な 複雑な性格が見られる。本書はデリーが発展し、停滞し、再興されて行く歴史の中に多重都市の特徴と由縁を見る。Amazonの商品内容説明。
さて、プラナキラ。
プラナキラは、16世紀にムガール王朝の二代目のフマユーン帝の政庁(ムガール帝国発足時)、そして城。ちなみにフマユーン帝は、あのタージマハルを作ったムガール王朝の5代目のシャー・ジャハーンの2代前に当たる。そのフマユーン帝の御墓は、フマユーン廟としてデリーにある。フマユーンはシャー・ジャハーンのおじいさんであり、タージマハル(田島春)さんのおばあさんこそが、フマユーン廟なのである。
デリーには世界遺産が複数あるようで、上記ラールキラーはもちろん、フマユーン廟も観光名所。そして、プラナキラは少しマイナー。だから、元来御調子者のおいらは、これまで6回デリーに行ったなかで3回はラールキラーには行ったが、プラナキラは行かずじまいだった。
そのプラナキラこそが、1942年に大英帝国の虜となった日本人3000人の収容所だったのだ!
知らなかった。
そして、外務省の岡本李正さん。
さてプラナキラ抑留所の状況について初めて具体的に日本政府が知ったのは1942年9月3日のことだった。ロレンソマルケスに着いた岡本季正シンガポール総領事は9月1日イタリア領事を通してポルトガルの日本公使から外務省に電報を打ってもらった。それが外務省に届いたのが3日夜だった。その電報は、ロレンソマルケスに到着するまでに720名中6名の死者が出たこと、「印度に於て目下収容中の邦人は二千百名にして本官か親しく収容所を視察せる処に依れは之等邦人はテント生活を為し居るも待遇は土人中にても最下等のものにして随て極度の栄養不足に陥り居り衛生設備又甚た悪く赤痢流行し蔓延しつつあり 目下患者五十名なるか医療行き届かす前途憂慮に堪へす」という内容だった(資料①所収)。
この電報は中立国であったスイス、スウェーデン、スペインのそれぞれの日本公使館にも送られた。これを受けた徳永太郎スイス駐在代理公使は9月9日 付で本省に電報を打ち、「十五日間の航海中に於て七二〇名中死者六名を出すか如きは如何に其の待遇悪きかか窺れ又印度に於ける邦人待遇に対しては義憤を感 せさるを得す」としてイギリス政府に「厳重抗議方然るへし」と意見具申するとともに、岡本総領事らのリスボン到着を待って赤十字国際委員会に「厳重なる再 調査を依頼」することを本省に伝えた。
これを受けて外務省は9月14日 徳永スイス駐在代理公使に対して、「在印度抑留邦人に対する待遇は極めて悪き為一同甚だしき栄養不良に陥り又赤痢蔓延しつつあるも衛生設備不備にして医療 行届かざる状態なる趣の処右事実は交換船シチ・オブパリス号にて僅か十五日間の航海中死者六名を出したる不祥事と共に帝国政府の深く憂慮する所なり 茲に英国政府に対し右に付強く抗議すると共に同政府より印度政府に対し在印抑留邦人の待遇改善方に付至急指令あらんことを要請する次第なり」との趣旨をイギリス政府に申し入れることを指示した。これが最初の日本政府からの抗議であった。 (出典:インドに抑留された日本人民間抑留者)赤字・強調、いか@。
-2週間ほど前の筑波山麓-
■ 今日知ったこと; カルカッタ空襲
週末、岡部伸 (産経新聞記者)著、『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺信の孤独な戦い-』を読む。
本の主旨から、わざと、はずれて、今日知ったことをメモ;
・小野寺信自身ばかりでなく、板垣征四郎も、東條英教(ひでのり@ヒデキのとぅちゃん)同様、南部家出身と知る。
・そして、カルカッタ空襲。
百合子 日本が爆撃して、戦果をみないで、帰ってきているのね。それこそ攻撃が怖いからと。ワーッと行って、爆撃して、帰ってきちゃった。それで、何月何日の日本の爆撃でこれだけの被害があったという戦果があった。それのことよね。
小野寺 うん。
(中略)
日本のインド爆撃における戦果情報も、その一つだった。この経緯を小野寺は「回想録」でも詳しく書いている。
「あるとき(一九四四年の一〇-一一月ごろ)、大本営から『○月○日カルカッタヲ空襲セリ』という電報があり、その直後に、ロンドンから、偶然、その時のカルカッタの被害状況を知らせる手紙が来たので、参謀本部に被害状況を詳しく報告すると、『当方ハカルカッタヲ爆撃セシノチ直ちに引キ返シテオリ、戦果ハ不明』と感謝の電報が来た」 (岡部伸 著、『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺信の孤独な戦い-』 p288)
ここで、百合子とは、小野寺信少将(wiki)の細君で、諜報協力者のこと。そして、カルカッタ空爆の成果の詳細を、ロンドン在住の亡命ポーランド政府の諜報員から小野寺が入手していたことの一例。当事者である日本軍も知らない情報を英国側の情報として入手し、東京の参謀本部に送り、誉められたというエピソード。ただし、後述の通り、「話」の是非は精査が必要。
イムパール作戦の一環として、日本軍はカルカッタを空爆していたのだ!と、おいらは初めて知った。
調べた。服部卓四朗、『大東亜戦争全史』のp593、第7篇 大陸方面の作戦 第一章 イムパール作戦、第五飛行師団のカルカッタ、〔雲南進攻〕、に書いてあった。
即ち一二月五日には陸海軍機一六〇機を以ってカルカッタを攻撃し、大戦果を挙げた。
でもこれは、1943年のことだ。
では、岡部伸 著、『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺信の孤独な戦い-』のあるとき(一九四四年の一〇-一一月ごろ)、大本営から『○月○日カルカッタヲ空襲セリ』という電報がありとは別の空爆なんだろうか?
うーん。おいらは、今、信じられなくて、再度年月日のチェックを行っているのだが、1944年12月は敗戦の9カ月前だ。東京が手を挙げる9カ月前に、そんな悠長な作戦をやっていたんだろうか?
別の空襲のことなんだろうか?、それとも、ただの年月日の記載間違いか?
それにしても、カルカッタ空爆は知らなかった。
カルカッタといえば、スピヴァク センセと同じく、チャンドラボースの故郷である。
もちろん大英帝国の支配下であるのだから、「解放」のための武力行使なのではあるのだが。
▼ そして、チャーチル。
英国の守勢方針
1944年(昭和19年)10月に、チャーチルはマウントバッテンに次のように指令している。
貴官の第一の任務は日本軍に執拗に繰り返し繰り返し接触し挑発し続けて日本軍を疲れさせ、特にその航空戦力を消耗させることだ。そうして太平洋正面からビルマ正面に日本軍の戦力を吸引することである。
— John Ehrman, Grand Strategy (London: Her Majesty’s Stationery Office, 1956), p.148(荒川憲一による訳。[14])
(wiki)
▼ 庭先に例の白系三毛猫@飼い猫が登場。 窓越しにうちのうめちゃんが唸る。
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ハイタッチの痕跡
この障子を開けると、借景生活が始まります。
関連愚記事; 枢密院議長議定官元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵さまの借景生活。
-おてんば、みけちゃん@おいらになつかない-
■ 今日の wao !
今日知って、wao !と驚いたこと。
有朋 (山縣有朋) より、漱石 (夏目漱石)の方が、先に死んだ !
山縣有朋: 1838-1922、 84歳まで生きる。
夏目漱石: 1867-1916、49歳で「若死に」。
wao! 漱石が案外「若死に」だって知っていたけど、絶対年代で、有朋より先に死んだとは、認識していなかった。
それにしても、もし、漱石が有朋並みに長生きしていたら、あの1941年は、漱石74歳で、存命。
米英撃滅路線の世の中で、一体どういう態度を取っていたのだろう。
● まとめ
夭折こそ、あらましほしけれ!
杖をついて英国議会に頭を垂れるじいさん。
まわりこんで、下から御尊顔を撮ってみた。
■ そのチャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?
少なくともその一人が、重光葵である。
昭和16(1941年)年2月、重光葵駐英大使とチャーチル首相
『重光葵手記』の最初が「霧のろんどん」という表題である。ろんどんとひらがな表記。
駐英大使として英首相チャーチルに会見した。
1941年2月24日
1941年3月10日
そして、1941年6月12日に離英する際の会見の計3回について内容が記されている。
(なお、重光離英の10日後に独ソ線が始まる。英国はドイツとの戦争の真っ最中であることはいうまでもない。1941年夏。重光がどうやって日本に帰ったかはまた今度)
さてこの二人、ひとつのドアの鍵穴をお互い覗きこんでいたらしいことが今となってわかってきている。
もっとも、先取はチャーチル。それを目ざとくパクったのが重光というところか。 (特に関連しない愚記事; 当時はすでにおいらは米英撃滅思想を確固したものとしていた。)
▼大西洋会議、 大西洋憲章
―戦艦プリンスオブウエールズ艦上のチャーチルとローズベルト―
重光が離英した2ヶ月後、チャーチルは、戦艦プリンスオブウエールズ艦上で米国大統領と「大西洋憲章」(wiki)を宣言。
8項目からなり、その内容は要約すると以下になる。
- 合衆国と英国の領土拡大意図の否定
- 領土変更における関係国の人民の意思の尊重
- 政府形態を選択する人民の権利
- 自由貿易の拡大
- 経済協力の発展
- 恐怖と缺乏からの自由の必要性
- 航海の自由の必要性
- 一般的安全保障のための仕組みの必要性
▼ 大東亜会議、大東亜宣言
大西洋宣言を受けて、対抗したのが、大東亜会議(wiki)、大東亜宣言であり、その発案と実行をしたのが、重光葵である。首相は、当然、東條英機である (関連愚記事; 東條内閣は"ボルシェビキ"と外相が書いていた )。大東亜会議が開かれた1943年11月には、大西洋会議が行われた戦艦プリンスオブウエールズは、開戦直後、大東亜への尖兵として登場したが、日本の航空隊により既に撃沈されていた。
大東亜会議(だいとうあかいぎ)は、1943年(昭和18年)11月5日 - 11月6日に東京で行われた首脳会議。当時の日本(大日本帝国)の影響下にあったアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。(wiki)
● さて、チャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?の問い;
一枚見つけた;
1953年、すなわちサンフランシスコ講和条約発効の1952年の翌年、敗残国・ぬっぽんの国際社会復帰の魁としての出来事だ。
プリンスオブやまと (当時) が、尖兵だったのだ。 noblesse oblige! 大変だったに違いない。
なにしろ、これ↓からまだ約10年である;
少し関連する愚記事; 「捨て石」島の捨て犬事情
■ 今週の華道的お花
- 貴船菊 (きぶねぎく) -
菊とはいっても本当は菊ではなく、きんぽうげ科イチリンソウ属の多年草なんだって。
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9月はロンドンに行った。
デジカメ画像集から、「漱石(1900-1902)がロンドンで見なかったものども」を3点示す。
もっとも、伊藤博文が"ロンドンで見なかったものども"という表題でも成り立つのだが...。
▼ 「漱石(1900-1902)がロンドンで見なかったものども」
1.インド人
―バッキンガム宮殿前で記念撮影するインド人―
漱石はロンドンでヴィクトリア女王の崩御に立ち会っている(1901年)[1]。
20世紀が始まったその年のしかも最初の月にヴィクトリア女王は崩御した。
そのヴィクトリア女王は、インド帝国の王でもあったことはいうまでもない。
じゃあ、インドを支配していた大英帝国の帝都ロンドンにインド人がたくさんいたかどうかはわからない。
英国政府が一九一九年に制定した「外国人法」は、英国における外国人の雇用を厳しく制限するものであったため、第二次世界大戦直前の英国には、たかだか数千人のインド人が永住していただけだった。 (岡本幸治、『インド世界を読む』)
2. 「屋台」の握りずし
ロンドンの中心街には日本食のファーストフード店があった。 Wasabi.
毎日食べるご飯が稲穂の実であると知らなかった元来江戸っ子であった漱石が、ロンドンでは絶対食べなかったであろうものは、握りずしである。
漱石来倫の19世紀末あるいは20世紀最初頭、倫敦(ロンドン)のちまたで握りずしなぞあろうはずもない。
21世紀初頭、あったょ、握りずし。たぶん、器械が 握った 成型したに違いない握りずし。
もつろん、元来、 高踏派 のおいらは、デジカメ画像だけ撮って、食べない。
(そういえば、20世紀末、エリザベス女王を元首と仰ぐカナダ国のエドモントンのホワイトアベニュー沿いのあるショッピングモールに「わさび」という寿司を中心とする日本食・"ファーストフード"店があった。 今でも、あるのだろうか?)
3. 日本の小説の英訳本を読むロンドンっ子
ロンドンの地下鉄、tubeに乗ったら、村上春樹の1Q84を読んでいる人が向かいに座っていた。
● 漱石なかりせば、春樹は無いのか?という問いに、
江藤淳なら、「絶対そうだ!」と答えるに違いない。
でも、江藤は生前一度も村上春樹に言及してないように、おいらは思う。
やはり、ノーベル賞(西脇順三郎[候補]、大江健三郎)は苦手なのだ、江藤は。
[1]
日記、漱石全集第一六巻
Mr. Bean と共に出なかったことが、せめてもの幸いではあった。
でも、今度のQueenの葬儀、Rowan Atkinsonはどうやって姿を現すのだろうか?
楽しみだ。