京都の無鄰菴に行った。2021年3月。無鄰菴は3度目(1度目;2006年、2度目;2016年)。今年行くと、変わっていた。変わっていたのは管理・運営。今回の京都旅行は宮内庁の修学院離宮は事前予約が必要だった(愚記事:京都・修学院離宮;参観申込とその実際)[1]。一方、まさかこの無鄰菴が事前予約性とは、おいらは、思いもよらなかった。出発直前に<荊の簪を挿した御方様>がネットをみて気付いた。事前予約、前払いが必要であると。あわてて、出発直前に、事前予約・支払いをする。何が面倒かというと時間帯を事前に決めないといけないこと。気ままな京旅行には、行動が拘束される。予約は、9時からの時間帯にした。朝一にして、その後の時間帯を自由にした。
[1] ⇒無鄰菴予約フォーム コロナを理由に予約制としている。だが、今春の京都旅行でコロナを理由に予約制としている名所、神社仏閣は他に知らない。
無鄰菴の運営が変わったのは、委託業者が変わったかららしい。無鄰菴は京都市の資産。その管理を業者に委託している。さらには、2007年からは、従来の委託ではなく、プロポーザル入札制度というのが適用されたそうだ。その制度とは;
1 公募型プロポーザル方式 プロポーザル方式とは、複数の事業者から企画提案を提出させ、提案内容を審査し、企画内容や業務遂行能力が最も優れた者を契約の候補者として選定する方式である。 (京都市の資料)
現在、その公開のプロポーザル入札を経て無鄰菴を管理かつ育成しているのは、植彌加藤造園 (web site: https://ueyakato.jp/gardens/murinan/ )。その無鄰菴の管理方針は「本質的価値を尊重した庭園管理」であると喧伝され、その根拠(無鄰菴の成立過程、施主・山縣有朋の動機、趣向)を踏まえているとも喧伝され、説明文書(論文)も出している。この点については、後に言及する。
■ 無鄰菴へ;
赤丸(右下)が無鄰菴の位置。青丸が京都御所。
そもそも、無鄰菴はどこにあるのか? 御所から見て東。南禅寺の麓。無鄰菴のある場所は江戸時代は南禅寺領であった。明治なって「解放」。
■ 本当に、無鄰菴へ;
予約は9時から。10分前はまだ開門していなかった。
▼ お話を伺う;
一度靴を脱いで主屋に上がる。以前はこうではなかった。
庭からみた母屋。ここで、説明を聞く。見学者はおいらたち二人だけだった。「初めてですか?」「どちらからですか?」などと聞かれたあと、無鄰菴について説明を聞いた。植彌加藤造園の人だ。ためになったのは、「主山」、「芝/苔」、「水流」の山縣庭園"思想"の三題噺だ。
こちらは「庭園カフェ」
▼ 庭へ降りる
広く平なこの石は立ちやすいので、(他の石ではなく)ここに立って庭を眺めよと誘導するものとのこと。
2016年にはなかった止め石。
▼ 無鄰菴の設計思想
無鄰菴の設計思想は明らかになっている。当事者の山縣有朋が語っているからだ。
明治33年(1900年)12月2日に山縣有朋は無鄰菴で黒田天外(京都日出新聞の記者や著述業者)のインタビューに答えている。
「しかしこうして見渡したところで、この庭園の主山というのはノウ、この前に青くそびえている東山である。そうしてこの庭園はこの山が出ばったところにあるので、瀑布の水もこの主山から出て来たものとする。さすれば石の配置、樹木の裁方、みなこれから割りだして来なければならんじゃないかノウ」 黒田天外 『續江湖快心録』、尼崎博正『七代目小川治兵衛』から孫引き&文章一部読みやすく改変
つまり、山縣はこの無鄰菴を向こうに見える東山の延長として手元のこの場所を庭として創っているということ。ただし、従来の日本庭園とは違う。山縣は自分の思う庭を彼の権力で庭師に具現化させた。何よりこの無鄰菴は「モダン」である。従来日本庭園で汎用ではなかったモミの木を植え、芝とを植えた。当時、芝は今のように短く刈り込むのではかく、草原のようにしてあった。これは山縣が自然を好んだからだとされている。
山縣の命で実際に庭造りを行ったのは、七代目小川治兵衛 (wikipedia)。
▼ 主山
主山の東山とそれから「割りだして」作った無鄰菴庭園。
▽ プロポーザル入札制度のあとさき
左(2006年)と現在。 現在、東山の手前の無鄰菴の樹木が多少低くなった。2006年は剪定前だったとのことなので、画像を比較してみた。
プロポーザル入札制度で管理業者となった植彌加藤造園は、「修復選定による主山としての東山の顕在化」を2007年(直後のある時期)に実施。つまり、庭園の外縁部の高く育った樹木を剪定。その剪定については「名称無鄰菴庭園の育成管理 ー山縣有朋の感性を読み取った庭園管理のあり方ー」に報告されている。
▽ 航空写真と模式的地図から見る庭の様相配置
「東西に細長い三角形の敷地の西端部に東向きの主屋を配し、正面に東山の山並みを望む雄大な空間構成の無隣菴」(尼崎博正『七代目小川治兵衛』)
▼ 芝と苔
芝について、山縣有朋はこういっている;
「京都の庭には苔の寂を重んじて芝などというものはほとんど使わんが、この庭園一面に苔をつけるということは大変でもあるし、また苔によっては面白くないから、私は断じて芝を栽(うえ)ることにした」、黒田天外 『續江湖快心録』、尼崎博正『七代目小川治兵衛』から孫引き&文章一部読みやすく改変
でも、今では苔が多くの地面を覆っている。有朋の時代から既に苔が生え始めたらしい。それを有朋も是認したとの記録[2]をもとに、現在では無鄰菴で庭の一部は苔域となっている。
[2] 「苔の青みたる中に、名も知らぬ草の花の咲き出でたるもめずらし」と有朋は云ったとされる。 無鄰菴の苔管理は、無鄰菴のweb siteのこのページに詳細がある。キノコは見つけたらすぐ除去とあった。
▼ 田園模式風景
■ 山奥へ
山奥、つまり無鄰菴の東端には滝がある。⇒ Google画像 (今春、おいらは撮り忘れ)
■ 山から下る。 渓。
浅瀬をつくって、小さな石を水面から顔を出すように配置している。
■ 池
広瀬。 流れが遅く、静かな池に見える。
■ 里山
■ 早瀬
■ 無鄰菴(東山)設計の頃の山縣有朋
この東山、南禅寺の無鄰菴ができたのは、1896年(明治29年)。1894-1895年は日清戦争の年。山縣有朋は56歳でありながら、第一軍司令官として大陸の現地に赴任する。当然この時、山縣有朋は首相経験者(第3代内閣総理大臣:1889-1891年)である。無鄰菴の設計、建設の指示は戦地からも行われた。
■ 無鄰菴3代
山縣有朋は第3代めの内閣総理大臣であったが、この東山、南禅寺の無鄰菴は3つめの無鄰菴。1代目は郷里の長州。2代目は京都の木屋町二条、鴨川ほとり。
■ 山縣有朋の渡欧
山縣有朋は生涯2度渡欧している。1度目は明治2年(1869年)31歳の時。2度目は明治21年(1888年)。いずれも、3代目 無鄰菴設計以前である。山縣が渡欧でどんな庭園を見てきたのか。どこかに研究はないのかな?
▼ まとめ
無鄰菴 = 自宅でワンダーフォーゲル。