いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ぐるっとパス2023: [その6] 松涛美術館、長谷川町子美術館

2023年05月28日 18時27分43秒 | 東京・横浜

ぐるっとパス2023年。 第6日目。
ぐるっとパス2023: [その1] 東洋文庫ミュージアム、六義園(りくぎえん)、旧古河庭園、旧岩崎邸庭園
ぐるっとパス2023: [その2] 東京都庭園美術館、泉屋博古館東京、大倉集古館
ぐるっとパス2023: [その3] 帆船日本丸/横浜みなと博物館、そごう美術館 さくらももこ展
ぐるっとパス2023: [その4] 神代植物公園、八王子美術館
ぐるっとパス2023: [その5] 町田市立国際版画美術館


■ 94  松涛美術館

建物の全景を撮るのが難しい。広角のレンズでもないと無理。Googleの3Dで見ても、周囲の建物に邪魔されてきれいな全景画像が得られない。

建築は、白井晟一[せいいち](wikipedia)。戦前にパリで林芙美子と支那めしを食べていた御方。

建物の解説については、こちら☛;建築そのものがアート。 1981年に時を巻き戻した松濤美術館で 建築家・白井晟一の美意識に触れる

上から見ると、建物の中心には空間があることがわかる。円柱状の空間ができている。

 

「エドワード・ゴーリーを巡る旅」展 (web site)

不思議な世界観と、モノトーンの緻密な線描で、世界中に熱狂的なファンをもつ絵本作家エドワード・ゴーリー(Edward Gorey,1925–2000)。近年、日本でも『うろんな客』『不幸な子供』などの絵本が次々と紹介されてきました。ゴーリーは、自身がテキストとイラストの両方を手がけ主著(PrimaryBooks)以外にも、挿絵、舞台と衣装のデザイン、演劇やバレエのポスターなどに多彩な才能を発揮しました。本展は、そんな作家の終の棲家に作られた記念館・ゴーリーハウスで開催されてきた企画展から、「子 供」「不 思 議な生き物」「舞 台 芸 術」などのテーマを軸に約250点の作品で再構成するものです。米国東海岸の半島に残る古い邸宅へと旅するように、達観したクールな死生観を持つ謎めいた作品との邂逅をお楽しみください。 展覧会チラシより)

展覧会は撮影禁止だった。

上述の円柱状の空間。

■ 長谷川町子美術館

長谷川町子美術館(はせがわまちこびじゅつかん)は、『サザエさん』の作者として知られる漫画家・長谷川町子(1920年 - 1992年)と姉の長谷川毬子(1917年 - 2012年)が集めた美術品を展示している個人美術館である。所在地は東京都世田谷区桜新町1丁目30番6号。一般財団法人長谷川町子美術館によって運営され、1993年より解散した姉妹社に代わって長谷川町子作品の著作権管理を行なう。

美術品の他、漫画の原画や菊人形、絵画、磯野家の間取りのミニチュア、サザエさんのアニメの映像が見られるコーナーがある。  (wikipedia)

長谷川町子美術館公式 web site

道を挟んで、美術館と記念館がある。館内の撮影はかなり(ほとんど)制限されている。

美術館は長谷川町子三姉妹が集めた美術品の展示。加山又造、三栖右嗣などの作品が展示されている。収集作品は多数で、そのうちの一部を展示しているらしい。収蔵コレクションを行っている(web site)。

 


新しい街でもぶどう記録;第445週

2023年05月27日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第445週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花見

■ 今週のキリバン

■ 今週の「渋谷区民のために」

渋谷区立松涛美術館(公式 web site

■ 今週の八百屋さんと小学生、円山町にて

■ 今週の「変」

■ 今週の「神」

■ 今週のベット

■ 今週の「教育虐待」、村上春樹の父との確執、あるいは、戦後の荷風?

「教育虐待」という言葉を最近知る。「教育虐待」とは、「教育熱心過ぎる親や教師などが過度な期待を子どもに負わせ、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと」とのこと(wikipedia)。

村上春樹と父親の確執の原因の一端が、『猫を棄てる』に書かれていた;

彼は僕に トップ・クラスの成績を取ってもらいたかったのだと思う。
(中略)
 
でも僕にはそのような父の期待に十分 応えることができなかった。 身を入れて勉強をしようという気持ちにどうしてもなれなかったからだ。 学校の授業は概ね 退屈だったし、 その教育システムはあまりに 画一的、抑圧的だった。 そのようにして父は慢性的な不満を抱くようになり、 僕は 慢性的な痛み (無意識的な怒り を含んだ 痛みだ)を感じるようになった。 村上春樹、『猫を棄てる』

実際に肉体的に危害を加えられたわけではないが、心理上の苦痛を受けるような扱いを受けていたのだ。当時はそんな言葉はなかったであろうが、今からみればある種の「教育虐待」なのだろう。

さて、親の期待する学校に落第して、作家になったのが永井荷風だ(息子の壯吉には一高に入ることを強く求めるも、失敗。学歴貴族になりそこねた壯吉は、荷風となる。愚記事より)。

ところで、全共闘運動の一因は、団塊の世代の激烈な過当競争で、アタマおかしくなった若者の症状という一面はあるよね。村上春樹は大学紛争にかかずらわっていたとのこと。

春樹は父親について母の言を引いて「父・千秋は頭のいいひとだった」との認識を示している。でも、戦前は僧でありながら唯々諾々と従軍し、戦後はいわゆる私立進学校の教師となり息子に受験体制での優秀生であることを期待していたというのは、「本質的なバカ」だよね。村上春樹の作品群はこういう「本質的なバカ」との対峙であると思いたい。

■ 今週の和風

季節のジョナパフェ・和風 (web site)  

【パフェの中身】
・抹茶ホイップ・十勝小倉あん・みたらし団子・抹茶アイス・ソフトクリーム・コーンフレーク・スポンジケーキ・寒天・黒蜜

■ 今週読んだ物語;BCG [Bloody Chinese Girl] が出てくる話、あるいは、スロウ・ボートが出る前に

積読であった『アフターダーク』(2004年刊行)を読んだ。村上春樹定番アイテム;チャイニーズ、姉妹、暴力・悪が出てくる。暴力の犠牲者は、チャイニーズだ。しかも、少女だ。『猫を棄てる』で語られる父親の兵士としてのチャイナ体験で殺されるのチャイナ軍兵士であり、しかも、「中国兵は、自分が殺されると分かっていても、騒ぎもせず、恐がりもせず、ただじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。 そして 斬首された。実に見上げた 態度だった。」こんな都合の良い被害者がいるのだろうか?と驚くほどの村上春樹の父親・村上千秋の経験談である。もちろん、無辜の虐殺なぞ語られない。この『アフターダーク』でのBCG [Bloody Chinese Girl] は、春樹作品群で初めてのチャイナ無辜被害者か?

さて、村上春樹定番アイテム;チャイニーズ、姉妹、暴力・悪以外に興味深かったのが、「犯罪者の父」と「遺伝」だ。

「お父さんは何をしているの?」

(中略)これはあまり人には言わないんだけれど、僕がまだ小さな子供のころ、 何年か 刑務所に入っていたこともある。 要するに 反社会的 人間というか、犯罪者だったんだ。それも家にいたくない理由のひとつだ。 遺伝子の具合が気になってくる 」 村上春樹、『アフターダーク』9章

イアン・ブルマの村上春樹へのインタビュで得られた春樹の発言に遺伝問題がある;

父親に中国のことをもっと聞かないのか、と私は尋ねた。「聞きたくなかった」と彼は言った。「父にとっても 心の傷であるに違いない。 だから僕にとっても 心の傷なのだ。 父とはうまくいっていない。子供を作らないのはそのせいかもしれない。」
 私は黙っていた。彼はなおも続けた。「僕の血の中には彼の経験が入り込んでいると思う。そういう遺伝があり得ると僕は信じている」。

父親とうまくいっていないから子供をもたないと示唆している。

登場人物の浅井姉妹の姉は美人でモデル。大学生でレポートは代筆してもらっている。一方、妹のマリは不美人で子供の頃から中華系の学校に通い、勤勉で、中国語を学ぶ(だから、娼婦であるBCG [Bloody Chinese Girl] の通訳をする)。そして、北京に留学に行く。つまり、世俗的陽性の属性を姉のエリは多くもつ。そして、妹は陰性的属性であり、チャイナ・北京に行くのだ。2004年の「中国行きのスロウ・ボート」(???)。

チャイニーズ少女の娼婦を殴り血まみれにさせた男は、「普通の人」のように描かれている。普通の人の犯罪。これは、戦争さえなければどんな人生であったのかと父の境遇を思う村上春樹としては、何を意味するのか? banal evil 凡庸な悪ということか?

■ 今週借りた本


Amazon (『大きな字で書くこと』)

特高警察といえば、「戦後民主主義者」によって、「ファシズム」「軍国主義」「全体主義」と呪詛/罵倒される戦前日本の体制において、悪の権化のような組織だ。

ところで、復員兵の子どもたちは、どのように親(が参加した戦争とどのように携わったのか)を認識しているのだろうと素朴に思っていた。普通の人なら別に父親の行状についてどう認識しているのかなぞ表明する必要はない。でも、物書きは違うかもしれない。例えば、愚記事:「団塊=復員兵の子供たち、あるいは、few J-children sing, what did you kill ?」がある。そこで書いた;

昨今の従軍慰安婦問題もそうだろう。なぜ、父親が復員兵であり、かつ戦争中戦場で慰安婦に慰めてもらったと書く団塊世代の人間はいない。そもそも、父親が復員兵ですと書く団塊世代の人間はめったにいない。書くのが商売な人なら、父親が復員兵だったら、戦場で何をしていたか聞いて、書けばいいじゃないかと思うのだが。

そして、復員兵の息子である村上春樹が父を語ったことについて書いた:今週の復員兵の子ども (新しい街でもぶどう記録;第443週)。一方、復員兵ではないが、父親が「ファシズム」「軍国主義」「全体主義」の尖兵だった例。彼の父親は「侵略戦争」に動員されることはなかった、つまりは彼は復員兵の子どもではない。でも、父親が特高警察だったのが、加藤典洋だ。物書きだし、そもそも、戦争責任の問題についてさかんに主張している。その加藤典洋が特高警察の息子なのだという。特高って、おいらはよく知らない。恐ろしいものだったらしい。(「戦後民主主義者」に反動家とみなされていた)福田恒存でさえ「拷問の鬼と思はれていたかつての日本の特高も、共産主義転向者からこれほど感激的な誓約書を手に入れるとは出来なかったであろう」(愚記事)と言っている。鬼らしい。

そして、加藤典洋が父親について書いたものがあると知り、図書館から借りて読んだ。『大きな字で書くこと』。死後の出版らしい。文章の初出は岩波書店の『図書』。

◆所業の概略◆ 加藤典洋の父親が実行したことは、鈴木弼美(すけよし)を治安維持法違反の容疑で逮捕したことだ。鈴木弼美はアカ(共産主義者)ではない。ヤソ(キリスト教信者)だ。陸軍大尉でもあった。罪状は、敗戦思想の伝搬と同志獲得。鈴木弼美については、wikipediaで情報を得ることができる。実家は金持ち、学歴も旧制八高、東京帝大(理学部物理)、そして助手となる。内村鑑三の弟子。財産とキャリアをなげうち、辺境である山形の奥地[1]に布教に赴く。[1]内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な三四箇所の市の一つであった(同上wiki)。一方、物理の専門を陸軍で活かす軍務に(招集で)携わっていたようで、大尉にまでなっている。すなわち、単純な反軍主義者でもなさそうだ。加藤典洋の『大きな字で書くこと』に書いてある、典洋の父のいきさつと典洋がその「所業」を知ってからのふたりのあいだのことを年代順に並べる;

1916年 加藤光男 誕生
1924年 治安維持法成立
1937年 光男、山形県の警察官となる
1943年 小国警察署に特高主任として赴任
1944年 鈴木弼美(すけよし)を治安維持法違反で逮捕(6月)、拘留
1945年 鈴木弼美釈放(2月)
1948年 加藤典洋誕生
1979年 典洋は、『内村鑑三の末裔たち』(稲垣真美)を読む。
    鈴木弼美を逮捕したのは、父・光男であると「閃く」
    数か月後 典洋は、父にこの件について話す。典洋、カッとなる。
1990年 鈴木弼美死去
1996年 典洋、光男と本件で大喧嘩
1997年 光男、鈴木弼美を信奉する「側近」に本件を告白
2007年 典洋、光男の「告白」を知る(第三者経由)
     典洋、鈴木弼美の墓参
2012年 雑誌『世界』(未完の戦時下抵抗、田中伸尚)に元特高・加藤光男の名が出る
2014年 光男死去
2017年 典洋、『図書』に「父 その1-4、資料」を発表
2019年 典洋死去、「父 その1-4、番外」が載った『大きな字で書くこと』刊行

◆加藤光男という人◆

この鈴木弼美の逮捕に事情は複雑にみえる。ただの凶悪権力による宗教弾圧といったものではなさそうだ。つまり、加藤光男はキリスト教のシンパとされている。そのキリスト教も近親者からの影響らしい。

父の私淑したもと上司で結婚の仲人もした人物(長岡万次郎)は、母の遠縁にあたり、(中略)戦前、警察内にあって内村鑑三関連の聖書研究会などを行った人格者として知られていた。(父 その2)

そして、そのキリスト教シンパが鈴木弼美を内偵し、証拠を掴み、逮捕したのだ。

「ところが、私のところへきた特高は、私の友人にキリスト教の信仰の指導を受けた、などといいあしたから、ほんとうのことをいってやらねば気の毒だと思い、日本は負けますよ、とそういったんです。すると、特高は青い顔して帰りました」。(父 その2)

これは、鈴木弼美の回想である。もっとも、光男がキリスト教シンパを装い、鈴木弼美に近づいたと理論的には想定しうる。でも加藤典洋はそうは明言していない。次のように述べるにとどまる;

内村鑑三の「研究会」を検挙目的にちゃっかりと「活用」し、相手をダマしすような気の利いた特高など、この時期、山形のような素朴な田舎に、そうそう、いるものではない。(父 その2)

「活用」したとは書いてあるが、そもそもキリスト教に関心がなかったのに、偽装したということなのだろうか?しかし、父の上司にして遠縁の長岡万次郎という特高課警部補はキリスト教信者/シンパであると報告されている。ここの事情がよくわからない。つまり、光男は本当にキリスト教の信仰をもっていたのか?、それとも、キリスト教布教者を逮捕するためにキリスト教信者を偽装したのか?

(前略)「内村鑑三研究会」を組織した父の上司にして遠縁の長岡万次郎は、戦前、問題視されていた矢内原忠雄を山形に呼び、特高課警部補でありながら公然とその講演の司会をするような端倪すべからざる人物だった。戦後刊行された『矢内原忠雄先生と山形』(山形聖書研究会、一九六二年)なる本には鈴木弼美と並び、その長岡も、思い出を執筆している。その下僚である父にあったのは、たぶん、そのような世界への憧れだった。(父 その4)

一方、下記のような光男についての典洋の記述がある;

 私の家には本が溢れていた。 日本共産党の機関誌『前衛』各号 から 河合栄治郎、 川上肇 まで。 文芸誌の『文学界』も定期購読されていた。(父 その2)

これは典洋の記憶なので戦後のことである。つまり警官である父親が日本共産党のシンパであったといいたいのか?あるいは、職務上の知見のために(犯罪予備軍としてみなして)購入していたのか、明確に書いていない。もし、光男が日本共産党のシンパであったとしたら、キリスト教にシンパシーをもっていたこととは整合的ではない。どういうことなのか?典洋の意図がわからない。警察稼業の思想的な業務のため、いろいろ勉強していて、根は国家護持主義者ということなのか?あるいは、流行の思想、宗教を信じやすい体制順応的人間であるといいたいのか?わからない。難しい、加藤典洋の文章。

さらに、わからなかったのは、特高課警部補・長岡万次郎は鈴木弼美の逮捕を容認したのかどうかである。あるいは、鈴木弼美の逮捕には長岡万次郎は関係がなかったということか? 典洋は光男の死後見つかった資料を紹介している。

治安維持法被疑者として、二川検事の勾留状に依り、[昭和十九年]五月二二日、特高課 原田警部・菊地警部補・近野部長の応援を得て検挙した。  (父 番外)

つまり、逮捕に長岡万次郎が関係あるという事実は確認できない。

◆謝る理由◆

典洋は父に鈴木弼美への謝罪を求めていた。そして、いつも意見はあわず、けんか状態で終わったと報告している;

詳しいことは知らない。 本人とこのことについて、私はじつは何度か、話し合っている。 最初の頃は 鈴木氏がまだ存命であり、私は、この人が存命のうちに、一度行って謝れ、と彼に求めた。そのことをめぐり、つねに話は決裂、 最後は 怒号が行き交った。(父 その1)

でも、なぜ謝らなければならないのか説明がない。典洋は光男に何を謝ってほしかったのか?治安維持法という法の支配に則った逮捕業務でも、人道上は許されないから謝ってほしいということなのか?本当は信者でもないのに、逮捕業務のために信じてもいないキリスト教を信じたふりをして、「純粋」な宗教者を騙したという外道を謝ってほしいのか?あるいは、もっと別のことか?わからない。書かれてない。

そもそも、事実関係が明らかにされていない。そのことは現在でも変わらない。結局、事実関係はわからない。なにしろ、「詳しいことは知らない。」と典洋自らが書いている。そもそも、「詳しいことは知らない」なら、事実関係を調べて、報告すべきだ。本人に聞けよ!二人は何度もこの件について話しているとのこと。でも、事実の詳細は明らかにされていない。話し合いが決裂するから、詳細な話が聞けないのだろう。明らかにされていない事実関係とは、光男の動機である。なぜ、そういう人生を歩んだのか?そして、鈴木弼美への内偵と逮捕の発案が誰なのか、『大きな字で書くこと』には書かれていない。上司の発案なのか、光男自身の発案なのか。そして、光男自身の発案であれば、なぜそうしたいと思ったのか、典洋によって書かれていない。本人に聞いたが、回答が得られなかったとも書いてない。そもそも聞いたのかさえわからない。

そして、一番わからないのが、謝ったらどうなるのか?ということである。謝れば済むのか?

◆責める理由◆

典洋は父を責めた。その理由もわからない。何を責めているのかがわからない。鈴木弼美の逮捕を責めているのか?謝罪しないことを責めているのか?おそらく、両方なのだろう。その場合、その根拠は何か?道徳心か?

息子に責められ、気の毒な人生を過ごしたといえるが、自業自得とはいえ、治安維持法がなければ彼の人生は違っていた。私の人生は、どうだったろう。(父 その4)

加藤典洋は論争を巻き起こしたとされる『敗戦後論』において、戦争における無辜の犠牲者とは一線を画し、300万人の日本兵犠牲者は、侵略者である「汚れた」死者といっている。「汚れた」死者とは加藤典洋が定義した言葉に違いない。そうであるなら、生き残った特高警察は、さしずめ、「汚れた」生者であろう。つまり、加藤典洋は「汚れた」生者の子どもということになる。そのことが許せないのか?だから、責めるのか? 『大きな字で書くこと』には書かれていない。

◆治安維持法がなければ◆

治安維持法がなければ彼の人生は違っていた。という。もちろん、かわっていただろう。でも、どっちにかわっていたかはわからない。もっと「汚れた」人生になった可能性だってある。

◆「告白」◆

1996年に典洋、光男と本件で大喧嘩した半年後、1997年 光男は鈴木弼美を信奉する「側近」に本件を告白した。この時点でこの告白を典洋は知らない。でも、鈴木弼美を信奉する「側近」に私が逮捕しましたと「告白」してどういう意味があるのか、おいらには、わからない。歴史的事実としてある特高警察が鈴木弼美を逮捕した。その特高警察はどこかにいるはず/いたはずなのだから。もっとも、加藤光男が素知らぬ顔でキリスト教活動を鈴木弼美とその信奉者が目に入る範囲で、キリスト者然として生きて、かつて鈴木弼美を逮捕したことを隠していたが、ついに、告白したというのであれば、まだその告白の意義は、おいらには、わかる。そもそも鈴木弼美は自分を逮捕した特高の少なくとも顔は知っているし、名前だって知っていたかもしれない。そういう条件で、「告白」ってなんだろう。しかも、本人でもない人に。

◆墓参◆

光男の「告白」を知った典洋は、鈴木弼美の墓参をする。

私たちは、 奇怪な親子であって、 父は死ぬまで自分が行った 「告白」のことを私に言わなかったし、 私も父の果たさなかった「墓参」を代わりに行ったことを話さなかった。(父 その4)

これが、父と典洋の鈴木弼美の逮捕への対応をめぐる葛藤のてんまつである。これで、何の意義があったのか、よくわからない。何か、特高警察の息子である自分が、受難した鈴木弼美の墓参をして、「自分でできるだけのことはしたと思うことができた」と結論する。これで、決着して、いい話のひとつができあがりました、という書きぶりだ。???墓参すればいいのか???? 全く理解できない。

◆孫の力◆

父と典洋の鈴木弼美の逮捕への対応をめぐる葛藤の物語で興味深かったひとこま;

その(告白)半年ほど前、当時滞在していたパリに母とともに訪れていた父と、私はまたしてもこのことをめぐって大喧嘩をした。一九九六年夏。鈴木氏は数年前に他界されていた。(中略)今度はパリの自宅。家族全員衆人環視のなか。息子と娘が見るに見かねて、あんまりじいさんをいじめるナ、と声を上げたので、私は孤立し、黙った。(父 その3)

典洋の子、光男の孫の存在が村上春樹との違いだ。「父親とうまくいっていないから子供をもたない」ことを村上春樹は示唆している、なお、加藤典洋は村上春樹を論ずることで有名らしい。『猫を棄てる』で書かれた父子の確執、父の従軍体験の問題などを書いたこの本について加藤典洋がどう言及しているのか?あるいは、していないのか?知りたい。

ところで、小林よしのりであるかその周辺であるか忘れたが、いわゆる「自虐史観」は、われらのじいさんへの侮辱だ!やめろ!みたいな風潮があった。あの頃(小林よしのり、『戦争論』が出た1998年頃)。典洋の子どもたちは小林よしのり的気分の持ち主であったかごとくである。なぜ、典洋が子供たちと対峙、論争しなかったのも倫理上、興味深い。なぜなら、加藤典洋は『敗戦後論』で「われわれ」がどうすべき、こうすべきと云っているらしい。そうであるなら、加藤典洋はわれであり、われわれと云いたいならば一番近い人たちに違いない。そういう人たちと話しができずに「私は孤立し、黙った」というのでは「われわれ」もひったくれもないではないか!?。加藤典洋は東大全共闘だったらしいので、<「連帯を求めて孤立を恐れず」うんぬんかんぬん>と何か関係があるのだろうか? わからない。

■ 今週借りた本;鎌ちゃんのその後の報告



右:『企業研究者のための人生設計ガイド 進学・留学・就職から自己啓発・転職・リストラ対策まで (ブルーバックス)』(Amazon

鎌谷朝之、『アメリカへ博士号をとりにいく』という本がある。2001年刊行だ。1994-1999年に滞米し、博士号(化学)を取った人の記録。この本は愚ブログで言及したことがある。研究という観点ではなく、米国事情だ。しかも、人種問題。よい記録だ。「この祝日を祝うのかどうかは、自分が誰なのかによるんだよ」。キング牧師誕生日という祝日を「白人」たちは、わざと、休まないことに遭遇した日本人留学生・鎌谷朝之の記録。愚記事に詳細が説明してある。1994-1999年に既にトランプ支持者予備軍の存在を示唆する。しかも、鎌谷朝之は、その教授の名前も公表している。彼はもうほとんど、少なくとも無自覚な、racistではないか? それはさておき、その鎌谷朝之さんのPhD/ 博士号取得後の人生が書かれた本が2020年に出たと最近知り借りる。なお、この本は既にAmazonで円本(中古価格1円)である。 『アメリカへ博士号をとりにいく』に書いてあるように、博士号取得後、日本流でいうなら、新卒で民間企業に就職した。メルクの子会社の万有製薬とある。その後の人生が『企業研究者のための人生設計ガイド・・』には書いてある。企業研究とは何かを書くべきこの本では、大学での基礎研究と顕著に違う化学物質の多量合成の技術開発(アップスケール[大規模化])を紹介している。典型的企業の研究開発項目だ。事実、鎌谷朝之はこれに携わる。数ミリグラムしか作らなくてよい基礎研究と違い、アップスケールは装置も大型化する。その大型装置の製作、運転など多くの人が携わらなければならない。一人ででいない。一人でやっていればいい大学での基礎研究と顕著に違う。チームでやらないといけない。などなど、企業のアップスケール技術開発研究の経験が書かれている。そして、転職。元もと英語圏で学位をとったので、米国の企業へ転職。そして、リストラ。今度は英国へ。そこで、また、アップスケール技術開発に携わるのだが、大型装置を管理する(英国人らしい?)気難しい老女(Patricia Searleさん:「長谷川町子のいじわるばあさんに匹敵するレベル」と鎌谷は言っている)とうまくやって、大型装置群を継承する。そして、アップスケール検討ラボを立ち上げる話が、とてもよかった。この本の鎌谷朝之の体験録を読んでわかることは、彼が優れた周旋家であること。ここで、周旋家とは「売買がまとまるよう取り計らう人」という狭い意味ではなく、伊藤博文が周旋家とよばれた意味での周旋家だ。英語もできるし。企業研究者として重要な資質だ。博士号なんかよりも。なお、本の題名は少し一般化しすぎであり、英米日で英語を使用して活躍する企業研究者の体験記録という内容。なお、1994-1999年に滞米し学位をとった著者は現在の米国について「僕自身、今のアメリカに住んでなくて良かったと思ってしまうことが多い」ともいっている。

蛇足:少し、村上春樹が入っているような気がした;

 

■ 今週の百歳; away from Hitler to Mao 、あるいは、独裁者の選択

今週、27日、ヘンリー、キッシンジャーが100歳を迎えた(wikipedia)。キッシンジャーはヒトラーから逃れるためドイツから米国へ渡った。15歳。そして、1971年、48歳の時、中共の毛沢東と結ぶため、チャイナへ。彼の人生を支配しているのは、独裁者たちだ。

 

支那の皇帝の夢は不老不死、せめて長寿えあった。でも、100歳を超えた支那皇帝はいないだろう。ヘンリー、キッシンジャーは毛沢東以降の習近平に至るまでのすべての中共支那皇帝と会った。でも、一番長生きしたのは、キッシンジャーだ。

キッシンジャー氏は、米中衝突によって第三次世界大戦が勃発する可能性があるとみる背景には、双方の「戦略的誤解」があると分析した。また、中国には米国が衰退の道に入ったため、中国が代わりにその地位に就くべきであり、米国は決して中国に平等に接する意思がないと考える人々がいる一方、米国では中国が世界制覇を目指しているという誤解が広がっていると述べた。しかし、「中国は強くなろうとしているが、ヒトラーのように世界を支配しようとはしていない」と強調した。ソース

そして、今、キッシンジャーは、中共・習近平はヒトラーではないと云っている。

 

 

 

 

 


ぐるっとパス2023: [その5] 町田市立国際版画美術館

2023年05月22日 19時47分45秒 | 東京・横浜

ぐるっとパス2023年。 第5日目。
ぐるっとパス2023: [その4] 神代植物公園、八王子美術館
ぐるっとパス2023: [その3] 神代植物公園、八王子美術館
ぐるっとパス2023: [その2] 東京都庭園美術館、泉屋博古館東京、大倉集古館
ぐるっとパス2023: [その1] 東洋文庫ミュージアム、六義園(りくぎえん)、旧古河庭園、旧岩崎邸庭園

公式 web site:自然という書物 15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート

展覧会概要

「自然という書物」展は、15世紀から19世紀までの西洋のナチュラルヒストリー(自然誌/博物学)とアート(美術/技芸)のつながりに注目し、人間が表してきた自然のすがた・かたち(画像)を紹介する展覧会です。

 古くから人間は自然物や自然環境―動物や植物、肉眼では捉えることができない微小な生物、地球上の地勢や地質などを記録してきました。言葉と絵によって描写された自然の似姿の普及に、活字と版画などの印刷技術が大きな役割を果たしてきたことも特筆すべきでしょう。さらに自然は美術の霊感源となってきました。美術の表現手法が、自然の図解に用いられてきたことも見逃せません。

 ナチュラルヒストリーとアートのつながりによって西洋の紙上に築かれてきた、自然のすがた・かたちのビオトープ(生息空間)ともいうべき世界を、この機会にぜひご堪能ください。 上記web site より

▼ 2章より

バシリウス・ベスラー『アイヒシュテット庭園植物誌』より一葉 (初版1613年) 銅版・手彩色 コノサーズ・コレクション東京 (公式web site より)

第2章 もっと近くで、さらに遠くへ―17、18世紀

 17世紀に入ると、望遠鏡や顕微鏡といった光学器械が、肉眼では捉えることのできなかった自然の細部に光をあてました。また、1492年のコロンブスによる新大陸の発見を嚆矢とする「大航海時代」を経て、記述/描写の対象となる自然の範囲が広がっていったことも見逃せません。より詳細に、より精緻になっていく自然へのまなざしと軌を一にするかのように、書物の挿画に用いられる技法も、木版画と比べて精緻な表現が可能な銅版画が主流となっていきました。

■ 3章より



第3章 世界を分け、腑分け、分け入る―18、19世紀

 18世紀は、記述/描写された自然を分類・解剖していく時代となりました。転機となったのが、1735年に刊行されたリンネの『自然の体系』です。1749年から刊行が始まったビュフォンの『博物誌』とあわせて、今日に通じる動植物の分類体系の礎が築かれたといえるでしょう。さらに新たな観測器具や画家を伴った探検家の世界周航と、多色刷りの進歩やリトグラフ(石版画)の発明といった版画技法の発展等が、さまざまな地域の自然物と自然環境の解像度を高めていきました。

▼ 4章より

先日八王子美術館でミュシャをみたが、今日もあった。

第4章 デザイン、ピクチャレスク、ファンタジー

 15~19世紀の西洋において、自然のすがた・かたちは、実にさまざまな手法で描写されてきたといえます。動植物は書物の中で図説されるだけではなく、装飾モチーフとして紙面を彩る存在でもありました。自然へのまなざしが美術のなかに反映されたり、美術の表現手法が自然の図解に用いられたりした例も少なくありません。自然の造形を活かした「デザイン」、自然を絵画的に表現する「ピクチャレスク」、自然を霊感源とした「ファンタジー」といったキイワードから、自然と美術のつながりを紐解きます。

 

★ artscapeレビュー「自然という書物 15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート」

 

常設展示

◆ 日本の自然と多色摺版木の世界

開催者の web site 「日本の自然と多色摺版木の世界」

神坂雪佳 (wikipedia)『百々世草』


東京散歩:JR横浜線 成瀬駅 ⇒ 芹が谷公園・国際版画美術館 ⇒JR 町田駅

2023年05月21日 13時12分28秒 | 東京・横浜

JR横浜線 成瀬駅から町田駅まで散歩した。町田市立国際版画美術館に行くためだ。地形的おもしろさは、JR横浜線は武蔵野台地を走っているが、横浜線より南西側が武蔵野面で北東側が立川面(この記事の図3)。 芹が谷公園は開析谷。そこに版画美術館がある。この谷から武蔵野面に登る崖がある。

1;JR横浜線成瀬駅、2;松葉谷戸公園、3;高ケ谷交差点、4;高ケ谷5丁目、5;町田市立国際版画美術館/芹が谷公園、6;原町田、7;JR町田駅


地形図


1960年代の航空写真。 成瀬駅がまだない。町田駅は現在の位置ではない。

■ 1;JR横浜線成瀬駅 ⇒ 2;松葉谷戸公園

東京都町田市成瀬駅付近、 パン「ブラウニー」。

ブラウニーは焼きたてパンと手作りサンドウィッチが自慢の、地元のお客様に愛されるパン屋さんです。

■ 松葉谷戸公園

町田市金森東の町の北東端、横浜線の線路南側に「松葉谷戸公園」という公園がある。そのほぼすべてを鬱蒼とした雑木林が占め、その名が示すように北東側には「谷戸」を抱えている。園路を辿れば気軽に雑木林散策を楽しむことができる。豊かな自然が魅力の公園だ。横浜線沿線散歩 様より)

地形図からわかるように、この松葉谷戸公園とJR横浜線を挟んでいる松葉公園は切通しになっている。元は谷戸であったこの箇所の丘の部分を切通しにしてJR横浜線を通したのだろう。

■ ⇒ 3;高ケ谷交差点 ⇒ 4;高ケ谷5丁目

JR横浜線を渡るための踏切。

JR横浜線は台地を走っている。なので、踏切を渡っても、さらに下り斜面と坂が続く。恩田川が流れる低地へ下る。

▼3;高ケ谷交差点



■ ⇒ 5;町田市立国際版画美術館/芹が谷公園

▼ 段丘崖

■ ⇒ 6;原町田

■ ⇒ 7;JR町田駅

■ まとめ

東京都 町田市 成瀬ヶ丘 金森東 高々坂 原町田


新しい街でもぶどう記録;第444週

2023年05月20日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第444週

■ 今週のよその猫

■ 今週の草木花実

神代植物公園 春のバラフェスタ2023

■ 今週のデパート

■ 今週の「大佐」

「カーネル」(Colonel)は名前でも、軍の階級である大佐でもなく、ケンタッキー州に貢献した人に与えられる「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号(名誉大佐)である。日本では「カーネルおじさん」「ケンタッキーおじさん」の愛称が定着している。wikipedia

■ 今週の「変」

王変は八子。原変は町田。

■ 今週の尊徳像

東京都町田市原町田付近

■ 今週の「実家」

八王子を歩いていたら、ばったり、見つけた。

1931[ママ](昭和20)年の八王子空襲で、商店街もほとんどが焼けてしまいましたが、戦後はいち早く復興しまして、私もこのすぐそばに住んでいましたが、いちばん最初に「八日町商店街」が復活しましたね。その中でも「荒井呉服店」は最初に営業を再開したそうです。それから、1950(昭和25)~1951(昭和26)年ぐらいからでしょうか、大規模な区画整理が始まりまして。店の前の歩道が5メートルの立派な歩道になったんですよ。工事は1953(昭和28)年に完成して、いまの商店街の原型になっています。ソース

八王子空襲(wikipedia

■ 今週みた行列

東京都町田市成瀬駅付近、 パン「ブラウニー」。

ブラウニーは焼きたてパンと手作りサンドウィッチが自慢の、地元のお客様に愛されるパン屋さんです。

■ 今週の道産品的食材

雲丹とアスパラのトマトクリームソース(ラパウザ)。実際の産地は不明。

■ 今週の購書

ブックオフで購入。下から3冊は450-550円だった。1冊、『小栗上野介』は、品切れらしく、ネットでも2,000円ちかい販売価格。これは掘り出し物だった。

■ 今週のマップ:「ともすけとつくる防災マップ」

シールでペタッと簡単 親子で楽しく作れる防災マップができました「ともすけとつくる防災マップ」


ぐるっとパス2023: [その4] 神代植物公園、八王子美術館

2023年05月19日 06時01分20秒 | 東京・横浜

 

ぐるっとパス2023年。 第4日目。

ぐるっとパス2023: [その3] 帆船日本丸/横浜みなと博物館、そごう美術館 さくらももこ展
ぐるっとパス2023: [その2] 東京都庭園美術館、泉屋博古館東京、大倉集古館
ぐるっとパス2023: [その1] 東洋文庫ミュージアム、六義園(りくぎえん)、旧古河庭園、旧岩崎邸庭園

■ 神代植物公園

春のバラフェスタ2023は昨日の記事にした。主にバラ以外の画像と昨日載せなかったバラ画像を。

神代植物公園からバスで調布駅へ。調布駅から京王線で八王子へ行った。

■ 八王子美術館

web site

アルフォンス・ミュシャ、(1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、チェコ出身でフランスなどで活躍したグラフィックデザイナー、イラストレーター、画家。

アール・ヌーヴォーを代表する画家で、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。Wikipedia

▼ 汎スラブ主義

アメリカの富豪チャールズ・クレーン(英語版)から金銭的な援助を受けることに成功し、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作する[5]。 。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものである。スメタナの連作交響詩『わが祖国』を聴いたことで、構想を抱いたといわれ、完成までおよそ20年を要している。wikipedia

▼ 『ロシア復興』

リトグラフ 1922年

チェコ時代

"聖母子"と"ピエタ"
 「幼子イエスを抱く 聖母マリア」を思わせるポスターは 「ロシアは救われねばならない」 とラテン語で呼びかけています。
 ロシアでは1917年の革命後も内戦の混乱が続き、戦時共産主義導入によって農業と工業が崩壊、燃料危機、食糧危機をもたらし、1920年の大凶作、さらに1921年から1922年には多数(100万~500万人)の餓死者が出るロシア飢饉に陥りました。
 経済が破綻したロシア救援の活動が党派を超えて国際的に呼びかけられました。
 抱かれている幼児は救援を待っている子どもたちであり、同時に4才の新生ロシア(ロシア・ソヴィエト共和国 後のソヴィエト社会主義共和国連邦(1922年12月30日成立))をあらわしています。
 幼児が腕をだらりと下げているのは、眠っているのではなく 死んでいることをあらわす絵画表現(腕の状態によって眠りと死を描きわける西洋絵画の約束事)です。このポスターが「聖母子」だけでなく「ピエタ」 (十字架で死んだイエスの遺体を抱いて悲しむ聖母マリアの像) を思い起こさせるため、欧米キリスト教圏の人々に強く訴えかけます。(ミュシャの『ロシア復興』と同じく、幼子イエスが手をだらりと下げて"ピエタ"を思わせる"聖母子像"にはパルミジャニーノの『首の長い聖母』があります。)
誰にもわかるように
 ミュシャは、どの国でも理解できるように「聖母子」と「悲しみの聖母」のダブル・イメージでポスターを描き、キリスト教世界共通の古典語ラテン語でロシア救済を訴えました。この呼びかけにこたえてアメリカが食料船を送ったのをはじめロシア農民救援の募金運動が世界各国で広がり、さらにロシアとドイツの国交が回復してイギリス、イタリア、中国(中華民国)、日本などがソビエト連邦を正式に承認するきっかけにもなりました。(web site) << ミュシャを楽しむために Web Site

アルフォンス・ミュシャ展

19世紀末パリ、ベル・エポック(美しき時代)を彩り、アール・ヌーヴォーを牽引したアルフォンス・ミュシャ。1860年、民族意識の色濃いモラヴィア地方の村イヴァンチッツェ(現チェコ共和国)に生まれたミュシャは、27歳のときパトロンの援助を受けパリ留学を果たします。その後援助が終了すると、挿絵画家として細々と生計を立てていましたが、34歳のとき転機が訪れます。当時パリで名高い女優サラ・ベルナールの舞台「ジスモンダ」の宣伝用ポスターを手掛けたことで、一躍時代の寵児となったのです。貼ったそばから剥がされるほど反響を呼んだミュシャのポスターは、サラの心をも掴み6年間のポスター制作契約を結ぶに至ります。
サラとの仕事で名を馳せたミュシャのもとには、ポスターはもとより装飾パネル、カレンダー、商品パッケージなど様々なデザインの依頼が殺到します。とりわけ装飾パネルは、リトグラフで制作することで大量生産と安価での販売が可能になり、それまで富裕層の特権であった芸術を、一般市民にまで広める役割を果たしました。そして何より、優美な女性像と草花の有機的な曲線美を活かしたデザインは、「ミュシャ・スタイル」としてひとつのデザインのジャンルを確立し、ついにミュシャはアール・ヌーヴォーを代表する芸術家(ポスター画家、デザイナー)にまで昇りつめます。
1900年には第5回パリ万博において、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾および、オーストリア=ハンガリー帝国のためのポスター制作の依頼を受けます。特にボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾は、晩年の《スラヴ叙事詩》制作の足掛かりとなりました。ミュシャはこの後商業的な仕事からは距離を置き、後半生を祖国チェコとスラヴ民族に捧げることになります。
1906年以降アメリカに拠点を移したミュシャは、《スラヴ叙事詩》制作のための資金の目途が立つと、1910年チェコに帰国します。祖国に戻ったミュシャは《スラヴ叙事詩》制作と並行して、プラハ市民会館の壁面装飾のほか、1918年にチェコスロヴァキア共和国が独立すると、切手や紙幣など新国家に関連するあらゆるデザインを無報酬で引き受けました。こうした姿勢は、パリ時代に芸術を一般市民も親しめるものにしたいと尽力した姿と重なり、ミュシャが「民衆のための芸術」という信念を終生貫いたことを表しています。
本展では、パリ時代の華やかなポスター、装飾パネルをはじめ、画学生の手引きになるようにと制作された『装飾資料集』などを中心に、祖国発展のため手がけた切手や紙幣のデザイン、《スラヴ叙事詩》のパネルなどを通して、後半生を捧げた祖国チェコへの献身にも焦点を当てます。 (web site)

 


春のバラフェスタ2023 神代植物公園  

2023年05月18日 06時37分22秒 | 東京・横浜

神代植物公園 「春のバラフェスタ」へ行くのは、今年で7回目(2015年2016年2017年2018年2019年2022年)。2020年と2021年はコロナで中止。

去年ほどではないが、行列ができていた。券売機への行列。「ぐるっとパス」を利用するので、行列に並ばずに、すぐ入れた。

はれ。29℃。

■ 深大寺そば

初めて行った。この店は初めて神代植物公園に来た2015年から目に入っていた。

深大寺そば きよし web site 

特製鴨せいろ。 鴨のローストがやわらかかった。そばは細い。


ぐるっとパス2023: [その3] 帆船日本丸/横浜みなと博物館、そごう美術館 さくらももこ展

2023年05月14日 20時21分09秒 | 東京・横浜

A:帆船日本丸/横浜みなと博物館   B:そごう美術館 さくらももこ展

日本丸(にっぽんまる、英語: Nippon Maru)は、日本の航海練習船で4檣(しょう)バーク型の大型練習帆船。

1930年(昭和5年)1月27日、兵庫県神戸市の川崎造船所で進水。その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれていた。日本丸は約半世紀にわたり活躍し、1984年(昭和59年)に引退。航海練習船としての役割は日本丸II世が引き継いだ。姉妹船として海王丸がある。2017年(平成29年)9月に国の重要文化財に指定された。wikipedia

太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、大阪湾、瀬戸内海にて石炭などの輸送任務に従事した。

戦後は海外在留邦人の復員船として25,428人の引揚者を輸送した[1]。遺骨収集にも携わった。

1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争では米軍人や韓国人避難民の輸送といった特殊輸送任務に従事した。 (wikipedia)

[1] 日本丸は中国・上海を皮切りにシンガポール、台湾などを巡り2万人以上の引き揚げ者を輸送。三原さんは「ボットム」と呼ばれる雑用係として働いた。印象深いのは、大勢の日本人を乗せた上海での光景。「命からがらという人だらけだった。日本から船が来たのでどれだけ喜んだだろう」。(カナロコ)

帆船日本丸 web site

■ 横浜みなと博物館

▼ フェンスの向こうのアメリカ

横浜みなと博物館は撮影禁止。でも、どうしても撮りたかった展示。ゆるしてください。

進駐軍家族の写真の実物大スケールの写真の手前に本物のフェンスが置いてある。展示の一環だ。つまり、フェンスの向こうのアメリカを再現しているのだ。

■ 横浜みなと博物館 ⇒ 横浜美術館前 ⇒ みなとみらい大通り/みなとみらい大橋 ⇒ ベイクオーター

■ 横浜そごう

 


新しい街でもぶどう記録;第443週

2023年05月13日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第443週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週の物心ついた頃からあるもの

サッポロポテト。先日、スーパーで買った。ところで、なぜ「サッポロ」ポテトなのか?知らない。

ググった。サッポロポテトはかっぱえびせんの弟分だと知った。

1968年に(開発者の)松尾が北海道を訪れた際、当時の副知事から「生産されたジャガイモの半分以上はでんぷんのみとって残りは飼料になっている。アメリカのようにでんぷん原料以外の加工食品を作ってほしい」との要請を受けた。

本製品が売り出されたのは札幌オリンピックが開催された1972年だったことから[3]、北海道はジャガイモの一大生産地、札幌は北海道で一番有名な都市でもあるので、新しいスナックの名前にふさわしいと考え「サッポロポテト」と命名した。wikipedia

■ 今週借りた本、あるいは、今週の復員兵の子ども

愚記事に「団塊=復員兵の子供たち、あるいは、few J-children sing, what did you kill ?」がある。復員兵の子どもとしての村上春樹について書いた。その後、2020年に村上自身が父親について書いた。『猫を棄てる』。春樹の父親はチャイナ大陸からの復員兵だ。関与の詳細は不明であるがチャイナ兵士の虐殺に立ち会ったらしい。その話を聞いた春樹は、心の傷(トラウマ)となった。そのことが後の創作に強く影響していることがわかる。なぜ春樹がチャイナに拘っていたのか、例えば「村上春樹、『1973年のピンボール』に現れたる「華青闘告発」的視点」、それはこういう事情であったと今では納得する。

 ところで、村上春樹の復員兵の子どもであることは、1998年には公知であったのだ。おいらが、知らなかったのだ。すなわち、イアン・ブルマの『日本探訪 村上春樹からヒロシマまで』における春樹への直接インタビューを元にした文章(1996年)に書いてある;

 我々は彼のマンションのリビングルームに座って コーヒーを飲んだ。背後の棚にはジャズのレコードが一杯に詰まっていた。 村上は自分の父親について話しはじめた。父親とは今では 疎遠になっており、 滅多に会うこともないということだった。父親は戦前は将来を期待された京都大学の学生だった。在学中に徴兵で陸軍に入り、 中国へ渡った。 村上は子供の頃に一度、 父親がドキッとするような中国での経験を語ってくれたのを覚えている。 その話がどういうものだったかは記憶にない。目撃談だったかもしれない 。あるいは、 自らが手を下したことかも知れない。ともかく ひどく悲しかったのを覚えている。彼は、内証話を打ち明けると言った調子でなく、 さり気なく伝えるように抑揚のない声で言った。 「ひょっとすると、それが原因でいまだに 中華料理が食べられないのかも知れない」 
 父親に中国のことをもっと聞かないのか、と私は尋ねた。「聞きたくなかった」と彼は言った。「父にとっても 心の傷であるに違いない。 だから僕にとっても 心の傷なのだ。 父とはうまくいっていない。子供を作らないのはそのせいかもしれない。」
 私は黙っていた。彼はなおも続けた。「僕の血の中には彼の経験が入り込んでいると思う。そういう遺伝があり得ると僕は信じている」。村上は父親のことを語るつもりはなかったのだろう。 口にしまってしまって心配になったらしい。 翌日電話をかけてきて、あのことは書きたてないでくれと言った。 私は、あなたにとって大事なことだろう、と言った。彼は、その通りだが、微妙な問題だから、と答えた。 私はこの問題で彼をもう少しつついてみたくなった。そこで (春樹の妻の)陽子に、彼の父親を訪ねてみてもよいかと聞いた。彼女は 村上が私に父親の話をしたと聞いてびっくりした。 村上が私に父親の話をしたと聞いてびっくりした。 「春樹は父親のことを絶対に人にしゃべらないのよ」と彼女は言った いずれにせよ、 私が父親と話す るなどということは 春樹はいやがるだろう、というのが 彼女の意見だった。もちろん、 彼女の言う通りだった。 村上はいやだと言った。 しかし、 もう一つ 別のことを話してくれた。 「僕は事実を知りたくない。 想像力の中に閉じ込められた記憶がどんな結果を生み出すのか、 それだけにしか興味がない」。

村上春樹は中華料理を食べないのだ。その理由は、父親(村上千秋)がチャイナ侵略(侵華)日帝兵士であったからと、聞かされた話からのトラウマからだ。村上春樹は個人主義的人間だと世間から理解されていると思うだが、経験が血を通して、遺伝子を通して、子に孫に受け継がれるという思想をもっている。これには驚いた。生物学的に受けつがれるとは全くおいらは思わない。ただし、ものを書く人間なら、チャイナ侵略日帝兵士の父に対し自分はそれをどう了解するか書くべきではないかと思ってきた。その前提として事実関係を知らなければならない。もしできれば、元兵士がどう了解しているか聞いて書いてほしいと思う。イアン・ブルマと会った1996年には「事実関係」を調べるつもりはないと表明していた。そして、ずっと30年あまりにわたり春樹は父親と疎遠だったのだ。

 その後、2008年に父親、千秋は死ぬ。死ぬ前に会って話し、「和解」したと報告しているのが、『猫を棄てる』だ。1996年には避けていた事実関係調査を自分で進めた。以前は、1996年の時点でも、春樹は父が属していた部隊が南京入場一番乗りの部隊であったと思い込んでいた。そのことが春樹の心に引っかかていたと『猫を棄てる』には書いてある。ただし、調べると、父親の千秋はその南京一番のりには参加していなかったと知る。

『猫を棄てる』では、春樹の心の傷(トラウマ)になった、父、千秋が見た中国兵の処刑を小学生低学年の時に聞いた話が書いてある。そして、その話を聞いたこと、聞かされたことの深刻な影響が述べられてる;

 いずれにせよ その父の回想は、軍刀で人の首がはねられる 残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼き付けられることになった。ひとつの情景として、更に言うなら ひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものをー現代の用語を借りれば トラウマをー息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。 人の心の繋がりというものは そういうものだし、また歴史というものも そういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>という行為、 あるいは儀式の中にある。 その内容がどのように不快な、 目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの 意味 がどこにあるだろう?

村上のトラウマ体験と2つの猫のエピソード(棄てたのに先に帰宅していた猫、木を登り降りられず消息不明となった猫)が語られ、最後のまとめが述べられる;

 いずれにせよ、 僕がこの個人的な文章において 一番 語りたかったのは、ただひとつの 当たり前の事実だ。
 それは、この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実だ。それはごく当たり前の事実だ。しかし 腰を据えてその事実を掘り下げて行けば行くほど、 実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。我々は結局のところ、偶然がたまたま 生んだひとつの事実を、唯一無二の事実としてみなして生きているだけのことなのではあるまいか 。

平凡といのはどういうことなのかわからない。戦争に行くこと(徴兵されたにせよ)は平凡なことではないだろう。ごく当たり前の事実でもないだろう。そして、それらの平凡さにもたらされる「たまたまの事実」の結果、「侵略」され、あるいは、殺された方の「事実」は「たまたま」なことなのだろうか?あるいは、村上のいう「平凡」とはあのbanal、つまりはハンナ・アーレントのいうところのbanal evil、陳腐な悪のbanalのことなのか?

ところで、デビュー作の『風の歌を聞け』にも「チャイナ」はでてくる;

 バスの入口には二人の乗務員が両脇に立って切符と座席番号をチェックしていた。僕が切符を渡すと、彼は「21番のチャイナ」と言った。
「チャイナ?」
「そう、21番のCの席、頭文字ですよ。Aはアメリカ、・・・」

そんなことより、ジェイズ・バーのジェイは中国人だし、僕のおじさんは上海で戦死している。なお、『猫を棄てる』で父、千秋は男6人兄弟であり、三人が出征したが、誰も戦死しなかったとのこと。

■ 今週借りた本、今週読み終えた物語

ゴールデンウイークの頃から村上春樹、『ねじまき鳥クロニクル』第1~3部とその兄弟物語の『国境の南、太陽の西』を読む。両物語は1996年の刊行。27年前。読んだことがなかった。

『ねじまき鳥クロニクル』第1部を持っていた。2部、3部を横浜市立図書館から借りた。のち、第2部の文庫本があったと気づく。

『ねじまき鳥クロニクル』の舞台、すなわち、主題となる「井戸」のある家は世田谷区のある街の「2丁目」である。たまたま、読む直前に世田谷を散歩した。

一方、前述した村上春樹のインタビューで、父親がチャイナ大陸に出征していたことを明らかにした。そして、春樹の父親が中国兵の処刑に立ち会ったことを子供時代の聞かされ、トラウマとなったとのこと。そのインタビューは『ねじまき鳥クロニクル』刊行後のことだ。

つまり、自分のトラウマにかかわることを物語化したのだ。事実、『ねじまき鳥クロニクル』には残虐なことが書かれている。チャイナ大陸を舞台にすることでは『羊をめぐる冒険』でもそうだった。でも、『羊をめぐる冒険』では直接、血なまぐさい状況を含む戦争を扱っていない。ただし、植民地支配だ。

『ねじまき鳥クロニクル』でも『国境の南、太陽の西』でも、体制=システムの象徴として「義父」が役割を与えられている。実父ではないのだ。そのあたりにも、村上春樹の父子問題の難しさが伺われる。直接対決ではないのだ。


新しい街でもぶどう記録;第442週

2023年05月06日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第442週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週の「変」

■ 今週の いか

Hotaru no Hikari   おしゃれおつまみ ギフト珍味専門店「ホタルノヒカリ」

イカのペペロンチーノ

■ 今週の茸

100円。

黒あわび茸 和歌山県岩出 あわび茸ファーム https://www.awabitake.com/

■ 今週の叢書:ローブ古典叢書

エドワード・ルトワクという戦略学者がいる(wikipedia)。ユダヤ系で多国籍人らしい。彼のYouTubeを見てたら、ローブ古典叢書を背景に孫と対話していた。ローブ古典叢書とは;

「ローブ」は「ロウブ」「ロエブ」とも表記される。

英語との対訳もあって広く普及しており、初学者が古典にふれるのを助けている。収録する文献は豊富で、古代ギリシア・ローマの抒情詩、叙事詩、悲劇、歴史書、哲学書、古典的な雄弁の記録、教父の著作などを収める。 (wikipedia


https://www.youtube.com/watch?v=c_PgZpM5Aq0&t=1s

緑色がギリシア語で赤がラテン語。

一方、渡部昇一先生もローブ古典叢書を背景に語っているYouTubeを見つけた。


https://www.youtube.com/watch?v=B21lWppaKIg

そしてハマトンの教訓に従い、ギリシア・ラテンの古典は英語対照になっているもので間に合わせてきている。具体的には『ロウヴ古典文庫』四五二巻に当たればよい。これは現在一冊二千八百円だから、全巻揃えると百二十万円になる。渡部昇一、『知的生活の方法』1976年

1976年の大卒初任給は、94,300円。2,800円は、3%に相当。2022年は230,000円。現在、プラトンの「プロタゴラスなどを含む」巻は、Amazonで3,830円。1.7%に相当。なお、2011年には2,170円だった(大卒初任給、205,000)。1%に相当。円安と米国でのインフレのせいで、最近の方が高くなっている。

おいらは3冊もっている。このうち1冊は上記の2011年のAmazonからの購入品。残り2冊は、1980年代中頃、仙台で学生だった時、東京に帰省するA君に買ってきてもらった。東京には洋書の開架売り場で売っていると聞いたのだ。おいらが住んだ札幌や仙台ではローブ古典叢書なぞ見たこともなかった。

のち、2004年、ワシントンDCで泊まったホテルの近くにあった本屋にふらっと入ると、並んでいた

■ 今週借りた本;『西郷隆盛を語る』

1976年に大和書房(だいわしょぼう)から『西郷隆盛全集』というのが刊行されたらしい。その全集の月報をまとめた本。昭和の大御所が西郷について対談している。

海音寺潮五郎は西郷を英雄とみる作家であり、顕彰、称賛に終始しているのはよいとして、西南の役で天を恐れぬ反逆を起こし、逆賊となり、結果、滅亡した西郷を擁護するため、元来仲間である大久保利通や岩倉具視を貶めているところだ;

朝鮮問題の議論の場合における岩倉や大久保の反対は、岩倉はどうかわかりませんが、大久保の反対は西郷を政府から追い出す為です。岩倉も陰謀の達人ですが、大久保も達人です。

なぜ大久保が西郷を政府から追い出したかったかというと、大久保は内務省を創設し、警察機構を充実させ日本を警察国家としたかった、というのが海音寺潮五郎の見解。戦前日本は警察国家で敗戦まで連綿と続いたと愚痴っている。

さらには、山形有朋の山城屋和助問題と、井上馨の尾去沢銅山問題など政治腐敗問題で、江藤新平が司法から処罰をしようとしている。その江藤を、大久保は、政権から追い出そうともしていたと海音寺は主張。なお、岩倉使節団で外遊した大久保と木戸孝允はけんか。それを岩倉がとりなして、西郷ー江藤への対抗を進めたと海音寺はみている。まあ、腐敗派とそれを糺す清潔派(西郷ー江藤)という図式。

▼「敬天愛人」とテロ・クーデター・戦争・内戦・日本人殺し

この1976年刊行の『西郷隆盛を語る』では、幕府を挑発しついには鳥羽伏見の戦いにもちこんだ「騒乱行為」は言及されていない。ただし、抽象的に

「騒乱行為」:騒乱行為はますます拡大していき、慶応3年11月末(1867年12月末)には竹内啓(本名:小川節斎)を首魁とする十数名の集団が下野出流山満願寺の千手院に拠って檄文を発し、さらに150名をも越える一団となって行軍を開始[6]。同年12月11日(1868年1月5日)から数日間、栃木宿の幸来橋付近や岩船山で関東取締出役・渋谷鷲郎(和四郎とも)率いる旧幕府方の諸藩兵と交戦し、鎮圧された[6][8]。敗れた竹内は中田宿で捕らえられ、処刑された(出流山事件)。しかし、参加者数名が脱走して薩摩藩邸に逃げ込んだ。wikipedia

昭和には西郷隆盛といえば英雄であったのだろう。でも、最近は、明治維新の見直しが目立っている。

なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか 150年目に「明治維新」の見直しが始まった 

西郷隆盛=テロリストとは普通に認められるようになった。

坂本多加雄、中央公論社、日本の近代2、『明治国家の建設』、1998年。  策謀と明記。

「敬天愛人」を語るテロリストを理解するのは難しい。でも、この問題が重要なのは、国家、この場合近代日本の正統性(legitimacy)が問われるからだ。正統性(legitimacy)が薄弱では、次の革命、内戦を惹起する温床となる。そもそも、国民の忠誠心が薄れ、国力は衰退する。

奈良本辰也は;
「敬天愛人」などといっているが、彼のあの言葉は本当に身についているよ。そこから出てくるものは本ものの仁政思想だ。東洋的民主主義とでも言うのかな、そういうものが、西郷にはある。
といっている。一万人が死んだといわれる戊辰戦争を始めたことが、「敬天愛人」、仁政思想なのかね?もちろん、テロが「敬天愛人」、仁政思想の手段となるという理論はありうる。その場合、そのテロの妥当性を判断する基準、価値観が必要だ。

徳川幕府を倒すことが至上命題で、そのためには何でもありという風潮が結構最近まであった。これは進歩的歴史観で、歴史の進歩には「革命」が必要で、旧勢力打倒には流血は必然という歴史感に基づくものだ。共産革命の夢がぬぐえていない時代の産物だ。共産主義プロパーではなくとも、封建主義打倒には流血が当然という考えが支配的だったのだ。

▼ 岩倉使節団

本書で複数見られる指摘として、岩倉使節団は失敗した、どうしてあんな(すべきでない)ことをしたのか、があった。失敗とは条約改正ができなかったこと。ところで、現在、岩倉使節団は欧米文化導入に有益であったという認識であり、不平等条約の改正失敗は指摘されていない(とおいらは思うのだが)。