▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第445週
■ 今週の武相境斜面
■ 今週の草木花見
■ 今週のキリバン
■ 今週の「渋谷区民のために」
渋谷区立松涛美術館(公式 web site)
■ 今週の八百屋さんと小学生、円山町にて
■ 今週の「変」
■ 今週の「神」
■ 今週のベット
■ 今週の「教育虐待」、村上春樹の父との確執、あるいは、戦後の荷風?
「教育虐待」という言葉を最近知る。「教育虐待」とは、「教育熱心過ぎる親や教師などが過度な期待を子どもに負わせ、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと」とのこと(wikipedia)。
村上春樹と父親の確執の原因の一端が、『猫を棄てる』に書かれていた;
彼は僕に トップ・クラスの成績を取ってもらいたかったのだと思う。
(中略)
でも僕にはそのような父の期待に十分 応えることができなかった。 身を入れて勉強をしようという気持ちにどうしてもなれなかったからだ。 学校の授業は概ね 退屈だったし、 その教育システムはあまりに 画一的、抑圧的だった。 そのようにして父は慢性的な不満を抱くようになり、 僕は 慢性的な痛み (無意識的な怒り を含んだ 痛みだ)を感じるようになった。 村上春樹、『猫を棄てる』
実際に肉体的に危害を加えられたわけではないが、心理上の苦痛を受けるような扱いを受けていたのだ。当時はそんな言葉はなかったであろうが、今からみればある種の「教育虐待」なのだろう。
さて、親の期待する学校に落第して、作家になったのが永井荷風だ(息子の壯吉には一高に入ることを強く求めるも、失敗。学歴貴族になりそこねた壯吉は、荷風となる。愚記事より)。
ところで、全共闘運動の一因は、団塊の世代の激烈な過当競争で、アタマおかしくなった若者の症状という一面はあるよね。村上春樹は大学紛争にかかずらわっていたとのこと。
春樹は父親について母の言を引いて「父・千秋は頭のいいひとだった」との認識を示している。でも、戦前は僧でありながら唯々諾々と従軍し、戦後はいわゆる私立進学校の教師となり息子に受験体制での優秀生であることを期待していたというのは、「本質的なバカ」だよね。村上春樹の作品群はこういう「本質的なバカ」との対峙であると思いたい。
■ 今週の和風
季節のジョナパフェ・和風 (web site)
【パフェの中身】
・抹茶ホイップ・十勝小倉あん・みたらし団子・抹茶アイス・ソフトクリーム・コーンフレーク・スポンジケーキ・寒天・黒蜜
■ 今週読んだ物語;BCG [Bloody Chinese Girl] が出てくる話、あるいは、スロウ・ボートが出る前に
積読であった『アフターダーク』(2004年刊行)を読んだ。村上春樹定番アイテム;チャイニーズ、姉妹、暴力・悪が出てくる。暴力の犠牲者は、チャイニーズだ。しかも、少女だ。『猫を棄てる』で語られる父親の兵士としてのチャイナ体験で殺されるのチャイナ軍兵士であり、しかも、「中国兵は、自分が殺されると分かっていても、騒ぎもせず、恐がりもせず、ただじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。 そして 斬首された。実に見上げた 態度だった。」こんな都合の良い被害者がいるのだろうか?と驚くほどの村上春樹の父親・村上千秋の経験談である。もちろん、無辜の虐殺なぞ語られない。この『アフターダーク』でのBCG [Bloody Chinese Girl] は、春樹作品群で初めてのチャイナ無辜被害者か?
さて、村上春樹定番アイテム;チャイニーズ、姉妹、暴力・悪以外に興味深かったのが、「犯罪者の父」と「遺伝」だ。
「お父さんは何をしているの?」
「(中略)これはあまり人には言わないんだけれど、僕がまだ小さな子供のころ、 何年か 刑務所に入っていたこともある。 要するに 反社会的 人間というか、犯罪者だったんだ。それも家にいたくない理由のひとつだ。 遺伝子の具合が気になってくる 」 村上春樹、『アフターダーク』9章
イアン・ブルマの村上春樹へのインタビュで得られた春樹の発言に遺伝問題がある;
父親に中国のことをもっと聞かないのか、と私は尋ねた。「聞きたくなかった」と彼は言った。「父にとっても 心の傷であるに違いない。 だから僕にとっても 心の傷なのだ。 父とはうまくいっていない。子供を作らないのはそのせいかもしれない。」
私は黙っていた。彼はなおも続けた。「僕の血の中には彼の経験が入り込んでいると思う。そういう遺伝があり得ると僕は信じている」。
父親とうまくいっていないから子供をもたないと示唆している。
登場人物の浅井姉妹の姉は美人でモデル。大学生でレポートは代筆してもらっている。一方、妹のマリは不美人で子供の頃から中華系の学校に通い、勤勉で、中国語を学ぶ(だから、娼婦であるBCG [Bloody Chinese Girl] の通訳をする)。そして、北京に留学に行く。つまり、世俗的陽性の属性を姉のエリは多くもつ。そして、妹は陰性的属性であり、チャイナ・北京に行くのだ。2004年の「中国行きのスロウ・ボート」(???)。
チャイニーズ少女の娼婦を殴り血まみれにさせた男は、「普通の人」のように描かれている。普通の人の犯罪。これは、戦争さえなければどんな人生であったのかと父の境遇を思う村上春樹としては、何を意味するのか? banal evil 凡庸な悪ということか?
■ 今週借りた本
Amazon (『大きな字で書くこと』)
特高警察といえば、「戦後民主主義者」によって、「ファシズム」「軍国主義」「全体主義」と呪詛/罵倒される戦前日本の体制において、悪の権化のような組織だ。
ところで、復員兵の子どもたちは、どのように親(が参加した戦争とどのように携わったのか)を認識しているのだろうと素朴に思っていた。普通の人なら別に父親の行状についてどう認識しているのかなぞ表明する必要はない。でも、物書きは違うかもしれない。例えば、愚記事:「団塊=復員兵の子供たち、あるいは、few J-children sing, what did you kill ?」がある。そこで書いた;
昨今の従軍慰安婦問題もそうだろう。なぜ、父親が復員兵であり、かつ戦争中戦場で慰安婦に慰めてもらったと書く団塊世代の人間はいない。そもそも、父親が復員兵ですと書く団塊世代の人間はめったにいない。書くのが商売な人なら、父親が復員兵だったら、戦場で何をしていたか聞いて、書けばいいじゃないかと思うのだが。
そして、復員兵の息子である村上春樹が父を語ったことについて書いた:今週の復員兵の子ども (新しい街でもぶどう記録;第443週)。一方、復員兵ではないが、父親が「ファシズム」「軍国主義」「全体主義」の尖兵だった例。彼の父親は「侵略戦争」に動員されることはなかった、つまりは彼は復員兵の子どもではない。でも、父親が特高警察だったのが、加藤典洋だ。物書きだし、そもそも、戦争責任の問題についてさかんに主張している。その加藤典洋が特高警察の息子なのだという。特高って、おいらはよく知らない。恐ろしいものだったらしい。(「戦後民主主義者」に反動家とみなされていた)福田恒存でさえ「拷問の鬼と思はれていたかつての日本の特高も、共産主義転向者からこれほど感激的な誓約書を手に入れるとは出来なかったであろう」(愚記事)と言っている。鬼らしい。
そして、加藤典洋が父親について書いたものがあると知り、図書館から借りて読んだ。『大きな字で書くこと』。死後の出版らしい。文章の初出は岩波書店の『図書』。
◆所業の概略◆ 加藤典洋の父親が実行したことは、鈴木弼美(すけよし)を治安維持法違反の容疑で逮捕したことだ。鈴木弼美はアカ(共産主義者)ではない。ヤソ(キリスト教信者)だ。陸軍大尉でもあった。罪状は、敗戦思想の伝搬と同志獲得。鈴木弼美については、wikipediaで情報を得ることができる。実家は金持ち、学歴も旧制八高、東京帝大(理学部物理)、そして助手となる。内村鑑三の弟子。財産とキャリアをなげうち、辺境である山形の奥地[1]に布教に赴く。[1]内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な三四箇所の市の一つであった(同上wiki)。一方、物理の専門を陸軍で活かす軍務に(招集で)携わっていたようで、大尉にまでなっている。すなわち、単純な反軍主義者でもなさそうだ。加藤典洋の『大きな字で書くこと』に書いてある、典洋の父のいきさつと典洋がその「所業」を知ってからのふたりのあいだのことを年代順に並べる;
1916年 加藤光男 誕生
1924年 治安維持法成立
1937年 光男、山形県の警察官となる
1943年 小国警察署に特高主任として赴任
1944年 鈴木弼美(すけよし)を治安維持法違反で逮捕(6月)、拘留
1945年 鈴木弼美釈放(2月)
1948年 加藤典洋誕生
1979年 典洋は、『内村鑑三の末裔たち』(稲垣真美)を読む。
鈴木弼美を逮捕したのは、父・光男であると「閃く」
数か月後 典洋は、父にこの件について話す。典洋、カッとなる。
1990年 鈴木弼美死去
1996年 典洋、光男と本件で大喧嘩
1997年 光男、鈴木弼美を信奉する「側近」に本件を告白
2007年 典洋、光男の「告白」を知る(第三者経由)
典洋、鈴木弼美の墓参
2012年 雑誌『世界』(未完の戦時下抵抗、田中伸尚)に元特高・加藤光男の名が出る
2014年 光男死去
2017年 典洋、『図書』に「父 その1-4、資料」を発表
2019年 典洋死去、「父 その1-4、番外」が載った『大きな字で書くこと』刊行
◆加藤光男という人◆
この鈴木弼美の逮捕に事情は複雑にみえる。ただの凶悪権力による宗教弾圧といったものではなさそうだ。つまり、加藤光男はキリスト教のシンパとされている。そのキリスト教も近親者からの影響らしい。
父の私淑したもと上司で結婚の仲人もした人物(長岡万次郎)は、母の遠縁にあたり、(中略)戦前、警察内にあって内村鑑三関連の聖書研究会などを行った人格者として知られていた。(父 その2)
そして、そのキリスト教シンパが鈴木弼美を内偵し、証拠を掴み、逮捕したのだ。
「ところが、私のところへきた特高は、私の友人にキリスト教の信仰の指導を受けた、などといいあしたから、ほんとうのことをいってやらねば気の毒だと思い、日本は負けますよ、とそういったんです。すると、特高は青い顔して帰りました」。(父 その2)
これは、鈴木弼美の回想である。もっとも、光男がキリスト教シンパを装い、鈴木弼美に近づいたと理論的には想定しうる。でも加藤典洋はそうは明言していない。次のように述べるにとどまる;
内村鑑三の「研究会」を検挙目的にちゃっかりと「活用」し、相手をダマしすような気の利いた特高など、この時期、山形のような素朴な田舎に、そうそう、いるものではない。(父 その2)
「活用」したとは書いてあるが、そもそもキリスト教に関心がなかったのに、偽装したということなのだろうか?しかし、父の上司にして遠縁の長岡万次郎という特高課警部補はキリスト教信者/シンパであると報告されている。ここの事情がよくわからない。つまり、光男は本当にキリスト教の信仰をもっていたのか?、それとも、キリスト教布教者を逮捕するためにキリスト教信者を偽装したのか?
(前略)「内村鑑三研究会」を組織した父の上司にして遠縁の長岡万次郎は、戦前、問題視されていた矢内原忠雄を山形に呼び、特高課警部補でありながら公然とその講演の司会をするような端倪すべからざる人物だった。戦後刊行された『矢内原忠雄先生と山形』(山形聖書研究会、一九六二年)なる本には鈴木弼美と並び、その長岡も、思い出を執筆している。その下僚である父にあったのは、たぶん、そのような世界への憧れだった。(父 その4)
一方、下記のような光男についての典洋の記述がある;
私の家には本が溢れていた。 日本共産党の機関誌『前衛』各号 から 河合栄治郎、 川上肇 まで。 文芸誌の『文学界』も定期購読されていた。(父 その2)
これは典洋の記憶なので戦後のことである。つまり警官である父親が日本共産党のシンパであったといいたいのか?あるいは、職務上の知見のために(犯罪予備軍としてみなして)購入していたのか、明確に書いていない。もし、光男が日本共産党のシンパであったとしたら、キリスト教にシンパシーをもっていたこととは整合的ではない。どういうことなのか?典洋の意図がわからない。警察稼業の思想的な業務のため、いろいろ勉強していて、根は国家護持主義者ということなのか?あるいは、流行の思想、宗教を信じやすい体制順応的人間であるといいたいのか?わからない。難しい、加藤典洋の文章。
さらに、わからなかったのは、特高課警部補・長岡万次郎は鈴木弼美の逮捕を容認したのかどうかである。あるいは、鈴木弼美の逮捕には長岡万次郎は関係がなかったということか? 典洋は光男の死後見つかった資料を紹介している。
治安維持法被疑者として、二川検事の勾留状に依り、[昭和十九年]五月二二日、特高課 原田警部・菊地警部補・近野部長の応援を得て検挙した。 (父 番外)
つまり、逮捕に長岡万次郎が関係あるという事実は確認できない。
◆謝る理由◆
典洋は父に鈴木弼美への謝罪を求めていた。そして、いつも意見はあわず、けんか状態で終わったと報告している;
詳しいことは知らない。 本人とこのことについて、私はじつは何度か、話し合っている。 最初の頃は 鈴木氏がまだ存命であり、私は、この人が存命のうちに、一度行って謝れ、と彼に求めた。そのことをめぐり、つねに話は決裂、 最後は 怒号が行き交った。(父 その1)
でも、なぜ謝らなければならないのか説明がない。典洋は光男に何を謝ってほしかったのか?治安維持法という法の支配に則った逮捕業務でも、人道上は許されないから謝ってほしいということなのか?本当は信者でもないのに、逮捕業務のために信じてもいないキリスト教を信じたふりをして、「純粋」な宗教者を騙したという外道を謝ってほしいのか?あるいは、もっと別のことか?わからない。書かれてない。
そもそも、事実関係が明らかにされていない。そのことは現在でも変わらない。結局、事実関係はわからない。なにしろ、「詳しいことは知らない。」と典洋自らが書いている。そもそも、「詳しいことは知らない」なら、事実関係を調べて、報告すべきだ。本人に聞けよ!二人は何度もこの件について話しているとのこと。でも、事実の詳細は明らかにされていない。話し合いが決裂するから、詳細な話が聞けないのだろう。明らかにされていない事実関係とは、光男の動機である。なぜ、そういう人生を歩んだのか?そして、鈴木弼美への内偵と逮捕の発案が誰なのか、『大きな字で書くこと』には書かれていない。上司の発案なのか、光男自身の発案なのか。そして、光男自身の発案であれば、なぜそうしたいと思ったのか、典洋によって書かれていない。本人に聞いたが、回答が得られなかったとも書いてない。そもそも聞いたのかさえわからない。
そして、一番わからないのが、謝ったらどうなるのか?ということである。謝れば済むのか?
◆責める理由◆
典洋は父を責めた。その理由もわからない。何を責めているのかがわからない。鈴木弼美の逮捕を責めているのか?謝罪しないことを責めているのか?おそらく、両方なのだろう。その場合、その根拠は何か?道徳心か?
息子に責められ、気の毒な人生を過ごしたといえるが、自業自得とはいえ、治安維持法がなければ彼の人生は違っていた。私の人生は、どうだったろう。(父 その4)
加藤典洋は論争を巻き起こしたとされる『敗戦後論』において、戦争における無辜の犠牲者とは一線を画し、300万人の日本兵犠牲者は、侵略者である「汚れた」死者といっている。「汚れた」死者とは加藤典洋が定義した言葉に違いない。そうであるなら、生き残った特高警察は、さしずめ、「汚れた」生者であろう。つまり、加藤典洋は「汚れた」生者の子どもということになる。そのことが許せないのか?だから、責めるのか? 『大きな字で書くこと』には書かれていない。
◆治安維持法がなければ◆
治安維持法がなければ彼の人生は違っていた。という。もちろん、かわっていただろう。でも、どっちにかわっていたかはわからない。もっと「汚れた」人生になった可能性だってある。
◆「告白」◆
1996年に典洋、光男と本件で大喧嘩した半年後、1997年 光男は鈴木弼美を信奉する「側近」に本件を告白した。この時点でこの告白を典洋は知らない。でも、鈴木弼美を信奉する「側近」に私が逮捕しましたと「告白」してどういう意味があるのか、おいらには、わからない。歴史的事実としてある特高警察が鈴木弼美を逮捕した。その特高警察はどこかにいるはず/いたはずなのだから。もっとも、加藤光男が素知らぬ顔でキリスト教活動を鈴木弼美とその信奉者が目に入る範囲で、キリスト者然として生きて、かつて鈴木弼美を逮捕したことを隠していたが、ついに、告白したというのであれば、まだその告白の意義は、おいらには、わかる。そもそも鈴木弼美は自分を逮捕した特高の少なくとも顔は知っているし、名前だって知っていたかもしれない。そういう条件で、「告白」ってなんだろう。しかも、本人でもない人に。
◆墓参◆
光男の「告白」を知った典洋は、鈴木弼美の墓参をする。
私たちは、 奇怪な親子であって、 父は死ぬまで自分が行った 「告白」のことを私に言わなかったし、 私も父の果たさなかった「墓参」を代わりに行ったことを話さなかった。(父 その4)
これが、父と典洋の鈴木弼美の逮捕への対応をめぐる葛藤のてんまつである。これで、何の意義があったのか、よくわからない。何か、特高警察の息子である自分が、受難した鈴木弼美の墓参をして、「自分でできるだけのことはしたと思うことができた」と結論する。これで、決着して、いい話のひとつができあがりました、という書きぶりだ。???墓参すればいいのか???? 全く理解できない。
◆孫の力◆
父と典洋の鈴木弼美の逮捕への対応をめぐる葛藤の物語で興味深かったひとこま;
その(告白)半年ほど前、当時滞在していたパリに母とともに訪れていた父と、私はまたしてもこのことをめぐって大喧嘩をした。一九九六年夏。鈴木氏は数年前に他界されていた。(中略)今度はパリの自宅。家族全員衆人環視のなか。息子と娘が見るに見かねて、あんまりじいさんをいじめるナ、と声を上げたので、私は孤立し、黙った。(父 その3)
典洋の子、光男の孫の存在が村上春樹との違いだ。「父親とうまくいっていないから子供をもたない」ことを村上春樹は示唆している、なお、加藤典洋は村上春樹を論ずることで有名らしい。『猫を棄てる』で書かれた父子の確執、父の従軍体験の問題などを書いたこの本について加藤典洋がどう言及しているのか?あるいは、していないのか?知りたい。
ところで、小林よしのりであるかその周辺であるか忘れたが、いわゆる「自虐史観」は、われらのじいさんへの侮辱だ!やめろ!みたいな風潮があった。あの頃(小林よしのり、『戦争論』が出た1998年頃)。典洋の子どもたちは小林よしのり的気分の持ち主であったかごとくである。なぜ、典洋が子供たちと対峙、論争しなかったのも倫理上、興味深い。なぜなら、加藤典洋は『敗戦後論』で「われわれ」がどうすべき、こうすべきと云っているらしい。そうであるなら、加藤典洋はわれであり、われわれと云いたいならば一番近い人たちに違いない。そういう人たちと話しができずに「私は孤立し、黙った」というのでは「われわれ」もひったくれもないではないか!?。加藤典洋は東大全共闘だったらしいので、<「連帯を求めて孤立を恐れず」うんぬんかんぬん>と何か関係があるのだろうか? わからない。
■ 今週借りた本;鎌ちゃんのその後の報告
右:『企業研究者のための人生設計ガイド 進学・留学・就職から自己啓発・転職・リストラ対策まで (ブルーバックス)』(Amazon)
鎌谷朝之、『アメリカへ博士号をとりにいく』という本がある。2001年刊行だ。1994-1999年に滞米し、博士号(化学)を取った人の記録。この本は愚ブログで言及したことがある。研究という観点ではなく、米国事情だ。しかも、人種問題。よい記録だ。「この祝日を祝うのかどうかは、自分が誰なのかによるんだよ」。キング牧師誕生日という祝日を「白人」たちは、わざと、休まないことに遭遇した日本人留学生・鎌谷朝之の記録。愚記事に詳細が説明してある。1994-1999年に既にトランプ支持者予備軍の存在を示唆する。しかも、鎌谷朝之は、その教授の名前も公表している。彼はもうほとんど、少なくとも無自覚な、racistではないか? それはさておき、その鎌谷朝之さんのPhD/ 博士号取得後の人生が書かれた本が2020年に出たと最近知り借りる。なお、この本は既にAmazonで円本(中古価格1円)である。 『アメリカへ博士号をとりにいく』に書いてあるように、博士号取得後、日本流でいうなら、新卒で民間企業に就職した。メルクの子会社の万有製薬とある。その後の人生が『企業研究者のための人生設計ガイド・・』には書いてある。企業研究とは何かを書くべきこの本では、大学での基礎研究と顕著に違う化学物質の多量合成の技術開発(アップスケール[大規模化])を紹介している。典型的企業の研究開発項目だ。事実、鎌谷朝之はこれに携わる。数ミリグラムしか作らなくてよい基礎研究と違い、アップスケールは装置も大型化する。その大型装置の製作、運転など多くの人が携わらなければならない。一人ででいない。一人でやっていればいい大学での基礎研究と顕著に違う。チームでやらないといけない。などなど、企業のアップスケール技術開発研究の経験が書かれている。そして、転職。元もと英語圏で学位をとったので、米国の企業へ転職。そして、リストラ。今度は英国へ。そこで、また、アップスケール技術開発に携わるのだが、大型装置を管理する(英国人らしい?)気難しい老女(Patricia Searleさん:「長谷川町子のいじわるばあさんに匹敵するレベル」と鎌谷は言っている)とうまくやって、大型装置群を継承する。そして、アップスケール検討ラボを立ち上げる話が、とてもよかった。この本の鎌谷朝之の体験録を読んでわかることは、彼が優れた周旋家であること。ここで、周旋家とは「売買がまとまるよう取り計らう人」という狭い意味ではなく、伊藤博文が周旋家とよばれた意味での周旋家だ。英語もできるし。企業研究者として重要な資質だ。博士号なんかよりも。なお、本の題名は少し一般化しすぎであり、英米日で英語を使用して活躍する企業研究者の体験記録という内容。なお、1994-1999年に滞米し学位をとった著者は現在の米国について「僕自身、今のアメリカに住んでなくて良かったと思ってしまうことが多い」ともいっている。
蛇足:少し、村上春樹が入っているような気がした;
■ 今週の百歳; away from Hitler to Mao 、あるいは、独裁者の選択
今週、27日、ヘンリー、キッシンジャーが100歳を迎えた(wikipedia)。キッシンジャーはヒトラーから逃れるためドイツから米国へ渡った。15歳。そして、1971年、48歳の時、中共の毛沢東と結ぶため、チャイナへ。彼の人生を支配しているのは、独裁者たちだ。
支那の皇帝の夢は不老不死、せめて長寿えあった。でも、100歳を超えた支那皇帝はいないだろう。ヘンリー、キッシンジャーは毛沢東以降の習近平に至るまでのすべての中共支那皇帝と会った。でも、一番長生きしたのは、キッシンジャーだ。
キッシンジャー氏は、米中衝突によって第三次世界大戦が勃発する可能性があるとみる背景には、双方の「戦略的誤解」があると分析した。また、中国には米国が衰退の道に入ったため、中国が代わりにその地位に就くべきであり、米国は決して中国に平等に接する意思がないと考える人々がいる一方、米国では中国が世界制覇を目指しているという誤解が広がっていると述べた。しかし、「中国は強くなろうとしているが、ヒトラーのように世界を支配しようとはしていない」と強調した。(ソース)
そして、今、キッシンジャーは、中共・習近平はヒトラーではないと云っている。
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